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第3話 出口のない一本道

Side:蓮


 朝起きて、もう一度村の中を見た。やはり、誰もいない。


 昨日の朝に立ちすくんでから、丸一日が経った。夜の闇は俺がこれまで知っていた夜よりも濃くて、深かった。街灯はちゃんと灯る。電気が来ているのだから当然だ。けれど、街灯と街灯のあいだに闇のたまり場があって、そこが妙に黒々としていた。窓のカーテンを閉めても、闇のほうが部屋の中に漏れ込んでくるみたいだった。


 二日目の朝、俺はとりあえず外に出る決心をした。


 どうしてここがこうなったのかわからない。けれど、誰かいるなら助けを呼びたいし、誰もいないならせめて状況を知りたい。村から出れば、知っている街道に戻れるかもしれない。


 朝食はトーストとインスタントコーヒー。冷蔵庫の中身は昨日とほぼ変わっていない。コンロはちゃんと火がつき、湯はちゃんと沸く。食パンはまだ残っているが、バターが心許ない。


 リュックに、財布、スマホ(圏外のままだが)、家の鍵、ペットボトルの水二本、村の小さな食料品店から昨夜「借り受け」たクッキーを少し、それから万一に備えて懐中電灯を入れた。


 外に出ると、空は気持ちよく晴れていた。皮肉なくらいに。


 霧海ハイツの周りには田んぼと畑、それを縫うように細い舗装路が走っている。村は、ぐるりを低い山に囲まれた小さな盆地のような場所だ。集落らしい家屋は二十軒足らず。人気はない。


 舗装された車道は、村を出るほうへゆるやかに下っていた。もちろん車は走っていない。


「とにかく、歩いてみるか」


 声に出すと、自分の声が頼りなく響く。鳥の声だけが返ってきた。


 歩く。田んぼの脇を抜け、地蔵が立つ三叉路を過ぎ、緩い坂を下っていく。山際にいくつかの空き家があり、戸が半分外れたままになっているところもある。覗くつもりはなかったが、玄関の中まで日差しが届いていて、土間に古い長靴が一足、置きっぱなしになっているのが見えた。誰かが、長く家を空けたわけでも、急に逃げ出したわけでもない。あれは普段の暮らしの長靴だ。それがそのまま、置かれている。


 道はやがて二股に分かれ、片方は山の向こうへ、もう片方は集落の奥へと戻っていく。地図はないので勘で選ぶ。山の向こう、つまり「外」へ向かう道を選んだ。


 しばらく歩くと、両側を雑木林に挟まれた一本道になった。空気がひんやりとしてくる。


 そこで、初めて、霧に気がついた。


 さっきまではっきりしていたはずの空が、いつの間にか乳白色にぼんやり白んでいる。前方の道が、十メートルほど先で霧に飲まれて見えなくなっている。後ろを振り返ると、こちらは霧が薄い。要するに、進む方向にだけ、霧が濃くなっていく。


「これは……気のせいじゃないよな」


 立ち止まる。本能的な恐怖を感じる。霧の中から怪物が現れる映画を思い出す。


 でも、ここで戻ったら、あとあと後悔する気がした。霧ごときで引き返したと思いたくない。歩を進める。


 霧に踏み込む。視界が真っ白になる。湿った冷たい空気が皮膚に張りつく。一歩、二歩、三歩。靴の下のアスファルトの感触が頼りで、それだけを目印に進む。


 100歩ほど歩いた頃だろうか。霧がふっと薄くなって、視界が開ける。


 ──あれ?


 俺は、来た道のほうを振り返った。違う、振り返ったつもりだった。


 目の前にあったのは、見覚えのある三叉路。地蔵。霧海ハイツのほうから歩いてきたときに、俺がさっき通った場所だ。


「は?」


 声を出す。出た声が、自分でも信じられない。


 つい数分前、たしかに俺は反対側、村の出口へ向かう坂を下りていた。それなのに今、俺はスタート地点の近くに立っている。地蔵の前掛けの色も、空き家の長靴の角度も、さっき見たままだ。


 頭の中に「やってしまったか」という言葉が浮かんだ。やってしまった。これは。


 念のため、もう一度同じ道を歩いた。同じ二股を選び、同じ一本道を進み、同じ位置で霧に飲まれた。霧の中で歩を進める。何歩か歩く。霧が晴れる。


 地蔵がいた。


「いや、いやいや」


 声がうわずる。


 三度目を試すころには、希望はほとんど薄れていた。それでも試した。結果は同じだった。


 俺は地蔵の前にしゃがみこんだ。地蔵は何の表情もなくこちらを見ている。当たり前だが、地蔵に救いを求めても何も返ってこない。それでも、しばらく地蔵と向き合っていた。


「ここから出られない、ってことか」


 口に出すと、はっきりする。出られない。何度試しても、霧の壁の向こう側に出るのは、俺じゃなくて霧そのものだ。霧に押し返されるみたいに、俺は同じ場所に戻されている。


 立ち上がる。立ち上がるしかない。


 帰り道に、村で唯一の食料品店に立ち寄った。古い引き戸を開ける。鈴がチリン、と鳴る。誰もいない。レジの上にはレシート用紙のロールが置かれていて、レジの引き出しは空だった。商品棚にはカップ麺、缶詰、米の小袋、調味料、洗剤、それに干し野菜が、整然と並んでいる。


 昨日は、クッキー一箱だけを「借り受け」た。今日は、カップ麺をひとつ、缶詰をふたつ、棚から取った。米の袋は重いから、また今度。


 レジの脇のメモ用紙に、俺は震える手で書いた。


「カップ麺一つ、サバ缶二つ、お借りします。後日清算します。203号室・徳河」


 書いてから、これは誰宛なんだろう、と思った。誰もいない店、誰も読まないメモ。それでも書いておきたかった。書かないと、自分が泥棒になる気がした。


 外に出て、空を仰ぐ。


 晴れている空はあいかわらず嘘みたいに広くて、俺がここから出られないことを、ぜんぜん気にしていなかった。


「とりあえず、生きるか」


 そう声に出してから、俺は自宅へと歩き出した。さっきの霧が嘘みたいに、村の中の道は穏やかだった。


 夕方、部屋に戻ってカップ麺を食べる。お湯を注ぎ、三分待つ。三分が、これまでで一番長い三分だった。


 食べ終わったあと、俺は紙を一枚、机に置いた。


 ボールペンを握る。書くこともないのに、書きたかった。


「俺は今、出口のない村にいる。」


 書いてから、しばらく、その一行を見つめていた。



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