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第2話 どこかわからない町

Side:志織


 目が覚めて、最初に思ったのは「アラーム鳴らなかった?」だった。


 枕元のスマホを引き寄せる。午前7時48分。アラームは7時にセットしてあったはずだ。ロックを解除すると見慣れたホーム画面が出てくる。普通だ。普通に見える。


 なのに、何かが妙だった。


 体を起こして、それでようやく気がついた。静かすぎる。


 私のアパートはJRの駅から徒歩5分、商店街の裏手にあって、今くらいの時間は通勤通学の足音と、商店の搬入トラックと、近所の小学校の登校班の声で、ぴーちくぱーちくうるさいはずだった。それが今は、本当に、本当に、しんとしている。


「……あれ?」


 声に出してみる。声はちゃんと出る。耳もちゃんと聞こえる。だったらなぜこんなに静かなんだろう。


 ベッドから出て、カーテンを開けた。


 ──あ。


 光は、いつもと同じ朝の光だ。だけど見える景色がぜんぜん違う。


 私のアパートの窓からは、向かいの古い瓦屋根の家と、その向こうに少しだけ山が見える、というのが日常の風景だった。今、目の前にあるのは、見知らぬ路地と、いくつかの木造家屋と、やたら広い駐車場と、小さな畑。


「うそ、でしょ……」


 部屋着のまま、つっかけサンダルで外に出た。


「吉浜コーポ」。私の住んでいるアパートの名前。表札も部屋番号も同じ。201号室。鈴島。私の名前。鍵もちゃんと使える。だけど、外に出たら世界が違う。アパートだけが切り取られて、別の場所に貼り付けられたみたいだった。


 道路に立つ。自分の部屋を振り返る。間違いなく私の住んでいるアパートだ。あちこちのサビの位置までそっくりそのまま。錯覚や夢じゃない。


「待って待って待って」


 頭を抱えて、しゃがみこんでしまった。


 しゃがんだ姿勢のまま、スマホを引っ張り出す。パスコードを入れる。「圏外」の二文字が小さく表示されている。


 会社の代表番号にかけてみる。発信音もしない。「電波が届きません」のメッセージ。LINE、開いてみる。「接続を確認してください」。X、開いてみる。タイムラインが昨日の夕方で止まったままだ。当たり前だ。電波がないんだから。


「いやいやいや、職場に連絡しないと……今日って何曜日だっけ……」


 呟いている自分の声が、どこか他人事みたいだった。


 ──記者の私が、こんなにあっさりパニックになるとは。


 そう、私は記者だ。相模タイムスという、誰も読まないと言われがちな地方紙の文化欄担当。三年目。先輩には「鈴島、お前はもう少し落ち着け」とよく言われる。冷静さなんて、毎日訓練しているはずなのに、足の力が抜けて立てない。


 立ち上がるためのきっかけが欲しくて、顔を上げる。


 人がいない。いくら閑静な住宅街でも、通勤通学の時間帯だ。誰も歩いてない、なんてことはない、はず。


 おそるおそる、アパートから出て左側の方向へ歩いてみる。ごく普通の住宅。どこにでもありそうな月極駐車場。売れ残りの土地なのか、住宅サイズの小さな畑。


 歩き始めて数分で、少し広い道路に出た。どこにでもありそうな地方の幹線道路。自動車が1台も走っていないことを除けば。人だけでなく、車も見あたらない?


「……この時間帯に車が走ってない、なんて、さすがに変、だよね……」


 そういえば、駐車場にも車はなかった。バイクも自転車も、乗り物という乗り物を今朝は見かけていない。


 道路沿いにあったコンビニに入ってみる。自動ドアが開く。お客さんはいない。店員さんもいない。静かだ。空調の音だけがやけに大きく聞こえる。


「すみませーん!」


 店の奥に向かって叫んでみたが、返事は返ってこない。


 急にゾッとしてコンビニを飛び出す。コンビニの先には、中華料理店やイタリア料理店、農協、何かの会社の事業所、などが並んでいる。道路の反対側には、住宅やアパートが並んでいる。


 少し歩き出して、歩道の真ん中で足を止めた。


 無人の町。誰も歩いていない、誰も話していない、誰も生きていない、けれど、生活の場だけは整っている町。生きている人間が今しがた消えたみたいに、すべてがそのままで残されている町。


「……怖い」


 正直に言葉にする。記者の意地でも、これを「興味深い」とは書けない。怖い。すごく怖い。


 私は引き返した。アパートまで小走りで戻る。201号室のドアを開けて、後ろ手に閉めて、鍵をかけて、それでようやく息を吐く。


 冷蔵庫を開ける。昨日の夜に詰めた野菜炒めの残り。タッパーの蓋に、私の字で「火曜の夕」とラベルが貼ってある。今日は何曜日だ? 火曜日の翌日なら水曜日だ。曜日感覚がぐにゃっと曲がっている。


 冷えた麦茶を一気に飲む。氷が立てる音が、いつもより大きく響く。


 少しだけ落ち着いて、私はスマホのメモアプリを開いた。


 タイトル:「どこかわからない町、初日」


「とりあえず書こう」


 声に出した。


 書けば考えられる。考えれば、なんとかなる。


 それが、私が三年間で覚えた、記者としてのたったひとつの処世術だった。


 私はメモの一行目に、こう打ち込んだ。


「私は今、見たことのない町にいる。そして、ここがどこだか、わからない。」


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