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第1話 ここがどこだかわからない

Side:蓮


 妙に静かだな、と気がついたのは、朝起きてしばらくしてからだった。


 防音がそれなりにしっかりしているワンルームマンションの一室とはいえ、道路を走る自動車の音や隣室の生活音など、うるさくない程度に耳にしていたはずだ。それが、しんと静まり返っている。気味が悪いくらいに。


 時計を見る。午前7時すぎ。いつも7時半にはここを出て会社に向かう。なんとなく落ち着かず、身支度を整えると部屋を出た。


「……どこだ、ここ!?」


 マンションの玄関から出たところで茫然となって立ちすくんだ。俺が住んでいるのは住宅街で、マンションの周囲には民家やアパートが立ち並んでいる、はずなのだが。


「…………」


 近所の風景は一変していた。眼の前には木造の住宅が数軒あるだけで、あとは田んぼや畑が広がっている。


 明らかに日本の何処かではあるのだろうけど、少なくとも俺が住んでいた街ではない。地方の農村といった感じだ。俺が住んでいるのは農村ではなく郊外の住宅街だ。戸建てと低層マンションとアパートが続く、どこにでもある住宅街。のはずなのだが。


 後ろを振り向く。見慣れた3階建てマンションが建っている。「霧海ハイツ」のかすれた看板も、エントランス脇の郵便受けに貼られた俺の表札「203 徳河」も、そのままだ。ちょっと安心した。


 マンションの自室にとって返す。2階の窓から見える風景は、やっぱり農村だ。一晩寝て起きたら、まったく見知らぬ場所になっている。マンションごと移動した?


 これが、見知らぬ部屋で目覚めた、であればまだかろうじて理解できる。旅行に出て記憶を失ったとか、何者かに拉致されたとか。しかし、朝起きて出てきた部屋は確実に俺の部屋だった。マンションの外観も、俺がここに住み始めた5年前から変わっていない。


 とりあえず会社に電話しなきゃ。出勤しようにも、駅がどっちだかもわからない。あ、地図アプリを見ればいいのか。


 スマホを取り出し、地図アプリをタップする。ところが、いつまでたってもアプリは真っ白な画面のままだ。よく見ると電波がまったく入っていない。圏外の表示すら、どこか不機嫌に見える。電波も入らないようなド田舎なのか!?


 会社に電話をかけてみる。電波が入らないので、当然かけられない。詰んだ。


 念のためWi-Fiの設定画面を開いてみる。普段つないでいる自宅のルーターにはちゃんと繋がっている。アプリが反応するのに、地図だけが真っ白なのは、要するに外のサーバーに辿り着けないからだ。家の中の機械は元のまま、世界の方が、家の外で途切れている。そういうことになる。


 部屋に戻る。自分の部屋は元のままだ。安心する。


 そのうち他の部屋の住人も気づいて騒ぎ出すだろう、と思っていたのに、いつまでたっても物音ひとつしない。俺の部屋は角部屋で、隣は若い男性が住んでいたはずだ。付き合いはなく、たまに顔を合わせたときに会釈をするくらいだった。思い切って隣室のドアベルを押してみる。ピンポーンと中で鳴っているのが聞こえるが、誰も出てくる気配がない。留守だったのか。


 その隣、住んでいるのがどんな人だったか知らないけど、そちらの呼び鈴も押してみる。若い女性だったら不審がられるんじゃないかと後で気付いたが、幸い? 誰も出てこなかった。ここも留守?


 嫌な予感がして、片っ端から呼び鈴を鳴らす。2階の部屋を片っ端から訪ねたが、誰も出てこない。全員そろって留守だった、なんてことがあるだろうか。「入居者募集中」の掲示はしばらく目にしていないので、全室入居しているはずだ。


 1階と3階も回ってみたが、誰も出てこなかった。このマンションに俺しかいない、ってこと!?


 とりあえず、落ち着いて状況を整理しよう。


・マンション自体に変化はない

・ただし住人は誰もいない可能性が高い

・マンションの敷地から外は知らない土地

・携帯の電波は入らない


 そういえば、インフラはどうなんだろう。今まで気にしていなかったけど、照明はふつうに使えるし冷蔵庫も冷えているので、電気はきている。水道の水も使える。キッチンのコンロで火がつくのを確認。ガスも来ている。


 電気・水道・ガスは生きていて、電波だけが死んでいる。これはどういうことだ。普通の停電や災害だったら、ガスや水道だって止まる。逆に、ライフラインを最優先で復旧したのだとしても、電波がここまで完全に途絶することはまずない。


 ベランダに出てみた。空はふつうに晴れている。雲は流れている。風もある。鳥の声はする。空気はやけに澄んでいて、深呼吸すると胸の奥がすうっとする。少なくとも空気はうまい。気休めにもならないが、悪くない情報ではある。


 ふと、駐車場の方向を見下ろした。


 車がない。


 マンションの裏手にある駐車場には、住人と来客用とで合わせて十数台分のスペースがある。普段は半分くらい埋まっているはずなのに、今は一台もない。駐車場の白線だけがやたらと白々しく、午前の日差しに浮かび上がっている。


 少し離れた農道に目をやる。軽トラ一台、バイクの一台もない。かろうじて鋤や鍬を立てかけてある畑がぽつぽつとあるだけで、人の気配はゼロ。


「人だけじゃないのか……」


 呟いてしまってから、ぞっとした。


 人がいない、というだけならまだ「全員留守」「全員出払っている」という、無理筋でも一応の説明がつく。けれど、車も自転車もバイクも、ひとつも見当たらないとなると……。


 もう一度、自分の部屋に戻る。


 カーテンを閉め、ベッドに腰掛ける。スマホを充電器に挿す。バッテリーは減りも増えもしないまま、ただ電波だけがない。防災用に買っておいた多機能ラジオをつける。周波数のダイヤルをひねっても、聞こえてくるのは雑音ばかり。いくら田舎でも、1局くらいは入るはず。


「……うそだろ」


 声がしぼむ。


 しばらく天井を見上げてから、ようやく一つだけ前向きな結論にたどり着いた。


 ──とりあえず、まだ生きている。


 電気もガスも水道も使える。冷蔵庫の中身もある。スーパーかコンビニがあれば、食料の補充だってできるかもしれない。腹も減っているし、食パンを焼いて食べるくらいの気力はある。だったら、まずは食う。考えるのはそれからだ。


 トースターに食パンを二枚押し込み、コーヒーを淹れる。湯気が立ち上る。なんてことのない朝食の光景が、こんなに頼もしく見えたことはない。


 口に運ぶと、ちゃんとうまい。当たり前みたいに、うまい。


 それなのに、なぜか、目の奥がじんわり熱くなった。


「会社、休みの連絡、できないなあ……」


 口に出してみてから、自分でも笑ってしまった。涙よりも先に、笑いが来た。状況がおかしすぎて、感情のほうが追いつかない。


 食べ終わってから、もう一度ベランダに出る。


 田んぼの向こうに、低い山並みが青く霞んでいる。山と空との境目に、やわらかい霧のようなものが薄くかかっている。よく見ようとすると、ぼやけて消えてしまうような、不思議な霧だった。


 俺はSEで、入社五年目で、来週には新しい案件のキックオフが入っているはずだった。月曜の朝に、昨日仕掛けておいたバッチの結果を確認するつもりだった。同期のやつとは、近いうちに飲みに行く約束を、ふんわりとしていた気がする。


 それが全部、向こう側の世界に置いてけぼりになっている。


 電波の届かない田んぼの上で、鳥が一羽、ゆっくり旋回している。鳥には、向こう側もこちら側もないのだろう。うらやましい、と思いかけて、いや、それはちょっと違うな、と思い直した。鳥はただ、自分が今いる場所を飛んでいるだけだ。ある意味、俺だって同じことだ。


 午前9時。本来なら出勤して、最初のメールチェックをしている時間。


 一日が、これからとんでもなく長くなる予感がした。


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