1-11 民子の正体
「そこから落ちて!」
と、崖下のチトがリュッカに叫ぶ。
(いやいや、無理だろ。それともなんだ――死ねってか?)
宙ぶらりんの足元には、色濃く溜まった夜の闇。
崖底は見えず、さながら奈落だった。落ちたら無事ではいられまい。
「くそ、チトは気でも狂ったのか」
リュッカが素で呟くと、
「わたしは狂ってなどいない!」
すかさず反論が飛んできた。
「じゃあなんですか! 死ぬとわかっていて落ちるヤツはいませんよ! いや……まさかチト、俺を受け止める気……!?」
それこそ無理な話だ。
チトが本気なら、その判断は、優しさではなく愚行である。
華奢なチトに、リュッカの体を受け止められるはずがない。そしてキャッチに失敗すれば、最悪、二人揃ってあの世行き。無謀だ。理知的なチトらしくない。
(何を考えているんだ、チト)
リュッカは少し考えて、眉間にしわを寄せた。
自分はさておき、共倒れだけは絶対に避けたい。リュッカの恐怖の対象は、すでに崖から落ちて死ぬことから、落下時にチトを巻き込むことへとシフトしていた。
「チト、そんなの無茶だ! バカなことを言ってないで、今すぐそこから離れて――」
「ばっ、バカじゃない! 大丈夫だから落ちて!」
まだ言うか。リュッカはついにカチンときて、
「大丈夫なわけないだろ!!」
叫んだ反動で、鉄の指先が地面をえぐる。また崖が削れる。
全身から血の気が引いて、寒気がした。
掴まった崖も精神も、どちらももう限界だった。このままじゃ自分もチトも死ぬ。どうする。落ち際にめいっぱい腕を伸ばせば、地面を掴み直せるだろうか。それとも今、あと1ミリだけ指を伸ばして崖の先に食らいつくべきか――
そのときだった。
歯を食いしばるリュッカを、なだめるような声がした。
「大丈夫。絶対に助けるから――落ちて、リュッカ。わたしを信じて」
届いたチトの言葉は、命令ではなかった。
その声は穏やかで、祈りのようで。
チト自身に言い聞かせているみたいだった。
この期に及んで「落ちて」と言うチトに、リュッカはほとほと呆れ返った。しかしその反面、胸の奥ではチトの「信じて」が無視できないほど反響していて、
(……チトが何を考えているのかはわからない。わからない、けれど)
チトの思考が読めないのは、今に始まったことじゃない。
チトは不愛想で人見知り。博識で冷静沈着。
VERTの名目なら気丈に振る舞えるのに、時に、ガラス細工のように繊細。
初対面でリュッカを拒絶したかと思えば、振袖姿を褒めないと拗ねる。
慎重なくせに、言葉足らずで真意が見えない。
そうだ。確か、直前に言われたっけ――「わたしから離れないで」と。
あれは、この状況を見越していたのか?
思えば、チトはいつだってリュッカの数歩先にいた。
チトは伝説の〈一級庭師〉で、自在に花を咲かせる異能者で。頭の回転が速いから、毎度リュッカを置き去りにする。
だけど、彼女はリュッカを見捨てない。
探り探りの距離感でも、チトは、唐突にリュッカを突き落としたりはしない。
それどころか、罠にはまったリュッカにツタのロープを垂らしてくれる。
事故で腕を失ったリュッカを拾い上げてくれたのも、チトだ。そして、病弱だった少年時代の心の支えであったのも……
(信じても、いいんだよな?)
一呼吸おいて覚悟を決める。
リュッカは、民子の裏切りを払いのけるように首を振って、
「任せたよ、チト」
必死に掴んでいた崖の先から、ぱっ、と指を離した。
墜ちる。
重力に引かれ、リュッカの体が空を切る。
後ろから前へ流れる景色。不意に、雪のような白いものを見た。
季節外れのぼたん雪――否、やわらかそうな繊維のかたまり。ぬいぐるみやクッションの中身を思わせた。
つい最近、これと同じものを見た気がする。
リュッカは、チトが大菊を咲かせた朝の出来事を思い出しながら、
ドサアァッ!
折り重なるように繁茂した、草むらのなかにダイブした。
草むらに実っていた白い繊維のかたまりが、泡のように舞い上がる。
植物がバキバキと折れ、落下の勢いを削いでいく。
尖った茎が体中に突き刺さったが、割れた果実からあふれた種子毛――球状の白い繊維こと「コットンボール」もまた、リュッカの肌を撫でていく。
(これは、ワタ!?)
間一髪。地面すれすれで落下は止まった。
ワタに受け止められたリュッカは、降ってくる綿花を見て呆然とした。
崖の下にワタの自生地があって助かった――と思考停止しかけて、すぐに「違う」と気づく。
ワタが根を張る土の上。リュッカのすぐそばには、菊人形の残骸があった。あれは、救われなかったのだ。
つまり、落下地点にワタのクッションが敷かれたのは、人形が落ちた後。
この綿畑は、リュッカを助けるために即席で用意されたもので、
「チト!」
リュッカは飛び起きて、命の恩人の名を呼んだ。
ワタをかき分けてチトを探すが、どこにも姿が見当たらない。
途方に暮れて夜空を見上げると、岩壁を背に何かがうごめいていた。動きを無視していいのなら、質感は植物の蔓に似ていた。太い蔓はぐねぐねとうねりながら、木から木へ、そして岩肌へ。
大蛇のように天に昇っていくそれに、チトの姿があった。
目を凝らせば、それは自生のヤマフジだった。
チトはヤマフジの上に立ち、その丈夫な蔓に、革手袋を外した手を添えていた。チトは異能でヤマフジを生長させながら、ぐんぐん崖を登っていく。
……チトの異能はこんなこともできるのか。
リュッカはしばらく、ヤマフジを操って月夜を上るチトに見惚れていた――が、チトが向かう先にはっとして、やにわに岩壁を登り始めた。
チトが蔓のエレベーターで崖を登ってくるのを、唖然と見つめる人物がもうひとり。
その女性は、腫れあがった顔に驚きを浮かべて、犯行現場に立っていた。
指先が震えているのは、リュッカを突き落とした後悔のためか。それとも、これからチトに断罪されると知っての絶望か。
いずれにしても、もはや彼女に逃げ場はなく、
「もうやめろ、民子――いや、菊代」
チトは崖の先にふわりと降り立ち、静かな口調でそう告げた。
「植物を操って崖を登ってくるなんて……驚いた。チトさん、やっぱりすごいのね。私が民子じゃないって、一体いつから気づいていたの?」
菊代は自嘲気味に呟き、夜風に晒された顔をがりがりと掻いた。
赤黒く腫れた皮膚が、不敵に歪む。唇からは、初めて聞く声――これが菊代本来の声なのだろう。これまでは民子を騙って声色を変えていただけで。
チトはドレスの裾を払い、十分な距離を保ったまま菊代に対峙した。
チトはポケットから紙片を取り出すと、
「きっかけは依頼書だ。あなたはVERTに手紙を出して、ヨナギ村のキクを救ってほしいと訴えた。だが、菊人形づくりの手伝いにきた紅は、わたしにこう言ったんだ――『民子は読み書きができない』と」
……文字の読み書きができない人間が、手紙を出すはずがない。
民子と仲がよかった紅は、他にも多くのヒントをくれた。
「それに、その顔。
あなたはずっと、布で顔を覆っていたな。見られたくない傷を隠すように、厳重に。『民子は顔にコンプレックスを抱えていた』そうだから、はじめは、そこまで不審には思わなかったが――」
チトは一瞬、菊代の顔を憐れむように見て、
「頻繁に掻いているところを見るに、かゆいんだろう?
こうして見ると明らかだが、かぶれている。典型的な皮膚炎の症状だ。
……しかし紅の話によれば、民子の顔の傷は『生まれつきの痣』のはずなんだ。
変じゃないか。痣なら《《かゆみ》》なんてないし、そんな状態にはならない。まるで、劇薬を浴びたようなその傷――何か塗っているんじゃないかと推測した」
「…………」
菊代は正解とも不正解とも告げず、まばたきの回数を増やす。
それから沈黙を埋めるように、手癖で顔を掻こうとした。が、ぎくりとして指を握り込んだ。
「痣ではない不可解な傷――だがそれも、譲三の言葉で合点がいった。山小屋に住む、塗師の譲三だ。あなたは定期的に、譲三のもとへ通っていたようだから」
譲三の名前が出た瞬間、菊代はびくりと肩を震わせた。
「……あの人がすべて喋ったの?」
「いいや。譲三は、あなたのことは何ひとつ話さなかった。幼馴染みの民子の話と、ヨナギ村の過去を語ってくれただけだ。
それでも、譲三は遠回しに教えてくれたよ――あなたが譲三に漆をねだっていたことと、あなたと民子が知己であったことを」
漢字二文字の、チトの気づきの決定打。
かつてのリュッカのように、菊代も怪訝な顔をする。
「確かに、私と民子は、お互いに一番の理解者だった。立場こそ違ったけど、誰よりも通じ合ってたわ……でも、だから何? チトさん、何が言いたいの?」
すると、チトは知識を披露するときのトーンになった。
「『知己』という語は、とある故事からきている。
無惨に殺された主君の復讐を誓った、ある男の話だ。その男は、敵討ちのために名を捨て、地位を捨て、命を捨てた。すべては、自分を認めてくれた主君に報いるために――これが、今日『理解者・親友・知人』を意味する『知己』の由来」
チトは淀みなく説明し、
「最終的に、復讐は失敗に終わるが……男の覚悟は壮絶だった。宿敵の暗殺に際して、身バレしないように、故意に人相を変えているんだ。
炭を飲んで喉を潰し、漆を体に塗って皮膚をかぶれさせて、な」
蒼い瞳が、菊代の顔のかぶれを見据える。
ひゅっ、と菊代の喉が鳴る。
「菊代。あなたは顔に漆を塗って、民子を装っていたな?」
崖下の風が、チトの金髪をなびかせる。
巻き上げられて舞うワタの花が、月明りを受けてきらめく。
チトとリュッカをヨナギ村に招いた「民子」の正体は、菊代。
違和感の芽を丁寧に摘み、そこから導き出したチトの推理を、菊代は黙って聞いていた。どこか寂しげな表情で。
「さあ、次は、菊代が説明する番だ。
民子を騙る意味、わたしたちを呼んだ理由。
それから――どうしてリュッカを突き落としたのか、答えてもらおうか?」
【TIPS】士為知己者死
:『史記』刺客伝より。主君の敵討ちのために全てを捨てた忠臣・豫譲の覚悟は壮絶。




