1-12 うるわしき人
菊代は、漆で顔をやつして民子を装っていた――
チトが暴いた痛々しい真実。背景に、ただならぬ事情を予感させた。
チトの理詰めの推理に、反論の余地は皆無。
菊代は顔を伏せ、長い逡巡ののち、そっと布を拾い上げた。リュッカを突き落とした際に風に飛ばされた、顔を覆う藍色の布を。
「……民子の遺言なのよ」
菊代は布の手触りを確かめるように撫で、
「村のキクを咲かせ続けることが、民子の最期の願い。私はそれを守らなきゃいけないの」
か細い声で、ぽつりと告げた。
民子の遺言。亡くなっていたのは、菊代ではなく民子だった。
二人は入れ替わっていたのだ――四年前、ヨナギ村に病気が流行した混乱の渦中で。
・・・
菊代が正夫のもとへ嫁いできたのは、四年前の春だった。
山奥にひっそりと佇むヨナギ村は、菊代の郷里よりもずっと田舎だった。
重点文化保存地区。文明を断った地域ゆえ、商店も娯楽もほとんどない。
特産品は電照栽培のキク。住民は皆、野暮ったくて閉鎖的。外を歩けば、老若男女の視線――余所者への好奇と警戒が突き刺さる。
婚約者の正夫は、悪人ではなさそうだったが、年齢差があり距離感がわからなかった。
いわゆる、村同士の契約結婚。菊代の生家は「相手が権力者なら誰でもいい」と言わんばかりに、菊代を斉藤家に嫁がせた。
そんな経緯だから、夫婦間の愛情なんてはなから期待していない。菊代だって弁えている。それでも、味方がいないのは心細かった。
過疎集落では、同年代の友人さえできそうにない。
同い年と見える使用人は、なぜか顔に布を巻いていて、
「…………」
初対面の菊代を、布の隙間からじっと見つめてくる。
「……何? そんなにジロジロ見られると、さすがの私も不愉快よ。あなたも、私が遺産目当てで嫁いできた女だ、って思っているんでしょう?」
立場に便乗して苛立ちをぶつける――が、
「え? あっ。い、いえ、滅相もございません! 失礼しました。お綺麗な人だな、とつい見惚れてしまって……!」
顔を隠した使用人は慌てて頭を下げ、
「あなたのような美しい方にお会いできて光栄です、奥様。私は民子と申します。ご命令があれば、何なりと!」
無邪気に言った民子に、菊代は面食らった。
菊代が綺麗だから見惚れてしまった――という民子の言葉に、おそらく嘘はない。表情が見えないのに、不思議とそう確信できた。
菊代は、民子の全身を舐めるように見た。古い着物にパサついた髪。しかし、背格好と声質はどこか菊代に似ていた。
腐った気持ちが解けていく。菊代はその場で、民子を自分の世話係に指名した。
民子が顔を隠す理由が、その顔にある痣だと知ったのはひと月後。
聞けば、民子はその痣のせいで随分苦労してきたという。
会う人皆から蔑まれ、友人は世捨て人みたいな塗師ひとり。斉藤家に雇われる前は働き口もなかったとか。親族からも疎まれて、結婚なんてもってのほか。
理不尽のすべてを「私が醜いから」と卑下する民子に、菊代はある日、
「ねえ民子。その顔の布、取ってくれないかしら?」
「えっ!?」
「せっかく仲良くなれたのに、表情が見えないのは寂しいわ。隠し事は嫌いよ。素顔の民子でいてちょうだい」
菊代の気まぐれな指示に、民子は動揺して「でも」を繰り返す。
布は民子の鎧だ。穏やかな生活のために被っている仮面。人目を気にして生きていくなんて、我が事みたいに窮屈に思えて、たまらなかった――彼女の善良な人柄は、そんなものでは隠し切れないのに。
葛藤する民子に、菊代は一言こう添えた。
「だって、民子は綺麗よ」
民子の動きが止まる。
「それ……本当、ですか……?」
「ええ。もちろん布の下を見たことがないから、顔は知らないけれど。民子は素直で、まっすぐで、野の花みたい――私、民子の心根の美しさに救われたの。民子がいなかったらと思うと、ぞっとするわ」
菊代は諭すように、穏やかに伝えた。
しばらくの間をおいて、民子は脱力し、呆然と菊代を見上げた。
民子がおずおずと布に手を掛ける。顔の痣が明らかになる。血の色が皮膚に浮き出て、腫れて見える赤い痣。痣は、両頬を中心に広く広がっていた。
民子が渋るから、どんな醜悪なものかと覚悟していたが――なんてことはない。
菊代が伸ばした指が、民子の痣に届く。
指先に強張った皮膚。爪先には水の感触。民子はぽろぽろと泣きながら「ありがとうございます」と嗚咽した。
思わずもらい泣きしそうになったのを隠すために、民子の涙をからかう。
菊代はその雫を、心から綺麗だと思った。
雨のあとは、山菜を取りに行った。
民子が教え上手だから、菊代は料理が得意になった。
うだるような夏は川遊びをした。
二人が水を掛け合うのを見て、村人が近づいてくるようになった。
菊人形祭りは、想像以上に素晴らしかった。
菊代が「綺麗ね」と呟くと、「菊代様のほうがよっぽど」と民子が笑った。
村に原因不明の病気が流行り出したのは、祭りの直後。
村人はひとり、またひとり、と熱に冒されて倒れていった。
村中の世帯が罹患者を抱えるようになったころ、一部ではこんな噂が囁かれるようになった――菊代が病気を持ち込んだのだ、と。
菊代はもとより、村人から歓迎されていなかった身。吹聴されると伝播は早かった。
正夫が村長としての対応に追われているうちに、菊代の暗殺計画まで持ち上がった。それが本人の耳まで届いたのは、不幸中の幸いだった。
「菊代様、心配しないでください。必ず私が守りますから」
民子はそう言って、菊代を屋敷に閉じ込めた。
そして村人の誤解を解くため、朝から晩まで泥だらけになって走り回った。
だが、そんな心労が祟ったのか――民子はついに流行病に倒れた。
「菊代様に看病させてしまうなんて、私は使用人失格ですね……あっ、そんな顔をしないでください。美しいお顔が台無しです」
布団の上で喘ぐ民子が、菊代を見上げて薄く笑う。
本当は苦しいはずなのに。痣を隠す布はもう外れていたのに、その笑みは寒々しかった。民子が本音を言わないのが癪に触り、菊代は唇を噛んだ。言われそばから顔が歪む。
やがて、民子は乾いた咳をして、
「……菊代様、いつか言ってくださいましたよね。私のこと『綺麗だ』って」
何かを決心したような凪いだ口調。菊代は条件反射で答えた。
「ええ。民子は綺麗よ。顔なんて隠す必要ないくらい、美しいわ」
「……もし、菊代様と同じ着物を着たら……私、菊代様みたいに見えるでしょうか」
「え……?」
それは脈絡のない問いだった。
高熱による譫妄状態か、と、菊代が解釈しかけたとき、
「私はもう、長くはないと思います……だから最後にひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか? 難しいことではありません……菊代様の上等なお着物を、私に着せてください。いつか袖を通してみたいと、秘かに思っていたんです」
民子は胸を上下させながら、照れるように言った。
「そして晴れ着の私を、うつ伏せに寝かせてください」
「まさか……民子、あなた……!」
「……きっと、誰も見分けられませんよ。私が菊代様になれば、菊代様は命を狙われずに済みます。入れ替わるんです……何も、菊代様が私を殺すのではありません。どうか、私の死を利用してください……私に、菊代様を守らせてください」
菊代は声を失った。
自分が民子に「綺麗だ」と伝え続けてきたのを、逆手に取られた。一瞬だけ、強烈な後悔が脳裏を過ぎる。そのくせ、民子は自分が綺麗だなんて微塵も信じていないのだ。うつ伏せに寝かせてくれと頼むくらいに……
民子の覚悟を跳ねのけるだけの性悪が、菊代にはなかった。
菊代は、何回も手を止めながら民子を着付けた。代わりに預かった藍色の布で、滲む視界を何度も拭った。
民子は途切れ途切れにお礼を言って、
「ああ……この村の、キク……が、ずっとずっと……美しいまま咲き誇りますように」
菊代はそれを聞き届け、ヨナギ村唯一の理解者を、たったひとりで看取った。
「……あとは、チトさんの推理の通り。私は民子を装って生きながらえた。顔を布で隠して、声色を変えて――ね。正夫さんから『妻の遺体を、勝手に荼毘に付すとは何事だ』って怒られたときは驚いたけれど」
正夫は、正夫なりに菊代を愛していたのだ。そう思い知った瞬間だった。
「民子が言った通り……入れ替わりは効果覿面だった。まったく気づかれなかったわ。それどころか、村人から『ご愁傷様』なんて声をかけられる始末よ」
菊代は布を握り直して、
「とはいえ……顔を覆っているだけでは不安だった。布一枚、めくれば『菊代』の顔なんだから。実際に、正体がバレたんじゃないかと思う瞬間もたくさんあった……私は民子になりきらなくちゃいけないのに」
「だから、譲三に漆を求めたのだな?」
「そうよ。私はもう『菊代』じゃない。『菊代』は流行病で死んだんだもの……それに、民子と思われるために何をすればいいのかは、わかりきっていた」
番犬のヤマトに吠えられながら山小屋を訪れた菊代に、譲三は硬直した。
民子の衣装で現れた美女。目の前にいるのは、死んだと噂される菊代である。譲三は瞬く間に事情を理解して、眉間を押さえた。
譲三はたっぷり半日以上悩んでから、菊代に、漆の入った小瓶を渡した。
「漆は『うるわし』が語源だという。本来、美しさを損なうためのものでは、ないんだがな」
苦言のなかに、一滴の同情。
その同情が誰に向いているのかは、定かではなかったが――民子の覚悟を無駄にせずに済むのなら、漆かぶれの痛みなど、そよ風に等しかった。
そして、民子が菊代に託した想いは、もうひとつ。
――この村のキクが、ずっとずっと美しいまま咲き誇りますように。
「私も民子もこんな村好きじゃなかったけれど……この村のキクは好きだった。菊人形のお祭りも。だから、毎年キクが咲かなくちゃだめなの。それなのに……今年は天候不良でキクが育たなかった。VERTに頼むしかなかった……!」
菊代の語りはだんだんと熱くなり、最後には口角泡を飛ばした。
激情をいなすように、チトが淡々と問いを挟む。
「リュッカを殺そうとしたのは、わたしを村に留めるためか? 万一、またキクが咲かなくなったときに備えて」
「ええ。そう……そうよ、チトさんの異能があれば安心だもの! 私、いつ民子の願いを裏切ることになるか、不安で仕方ないの。私のために死んだ民子を、私は絶対に裏切れない! 村のキクを咲かせ続けることは、私にできるたったひとつの贖罪。だから――」
そのときだった。
崖の向こうから、ザリッ、と砂を掻くようなノイズがした。
地面を掴む鉄の義手。這い上がってきた人の気配。
乱れた灰色髪の頭が、行き止まりの地面からひょっこり顔を出す。
全身にワタの欠片をまとって現れたリュッカは、驚愕する菊代に向かってこう言った。
「菊代さん。その遺言――意味が違うんじゃないですか?」
【TIPS】キク(菊)
:古くから日本人に愛されてきた、優美な花。多品種。寓意は次話のタイトル参照。




