1-10 漆黒の衝動
日没のころ。ヨナギ村に戻ると、屋敷の前で民子が待っていた。
「ああ、よかった……お帰りが遅いので心配していたんですよ」
尾行されていたとは露知らず、民子は声を弾ませた。
翌日に控えた菊人形祭りの準備は、二人が外出しているうちに完了したという。
三日前にキクが咲いたばかりとは思えないスピード感。村にとって、それだけ祭りが重要ということだ。間に合ってよかった。リュッカは頬を緩ませた。
民子も嬉しそうに両手を合わせ、
「それで今日、猟師からボタン肉をいただいたんです。無事に祭りが開催されるお祝いだ、って」
――牡丹? リュッカの脳内に赤い花が浮かぶ。
しかし、民子の饒舌は質問を許さず、
「ただ、結構な量を頂戴してしまって……今晩中にはとても食べきれませんわ。ねぇチトさん、明日以降も滞在してくださらないかしら。せめてもう一週間……いえ、あと一日だけでも」
顔を覆った布の隙間から、乞うようにチトを見る。
リュッカもまた、大量の肉を持て余す正夫と民子を想像し、腹の虫を我慢してチトを見た。
民子のためにも、あと一日くらい良いんじゃないか。出発が数日遅れたって、次の任務に支障はないはずだし――
「だめだ。予定通り、明日出発する」
しかし、チトは民子の厚意をにべもなく突っぱねた。
今朝は、滞在延長の返事を言い淀んでいたのに。
チトは譲三の話を聞いてから、明らかに態度が変わっていた。民子に対して、急にそっけなくなったというか。
「ヨナギ村のキクの問題は、結果的に、祭りの前に解決したが……この先も『もっと早く訪れておくべき』土地があるかもしれない。だから、できるだけ前倒しで移動したいんだ。
……猪肉は村人と分けるといい」
ぐうの音も出ない正論に、リュッカと民子は沈黙した。
チトはそんな二人を一瞥すると、
「それより、正夫はどこだ? 案内してほしい場所があるんだが」
無感情に、民子の前を通り過ぎていく。
しょんぼりと肩を落とした民子が、見えているのかいないのか。そう疑ってしまうくらいに、チトの態度は冷たかった。
チトは去り際、リュッカに耳打ちするように顔を寄せると、
「リュッカ……あまり、わたしから離れないで」
それだけ言い残し、豊かな金髪を穂波のように揺らして行ってしまった。
(――離れるな、だって?)
一瞬、耳を疑った。
初対面で「わたしに触るな」と言い放ったあのチトが。
リュッカは、落胆する民子と一緒に棒立ちになった。
民子に冷たく当たってみたり、リュッカに「離れるな」と言ってみたり。チトはいったいどうしてしまったんだろう。チトの心変わりが心底理解できなかった。
リュッカは気を取り直すと、俯く民子に声をかけた。
「まったく、バイクを運転するのは俺なのに……チトって、いつもこうなんですよ。彼女なりの考えがあるんでしょうけど、しょっちゅう俺を置いて先に行くんです」
不満混じりの、不器用な慰め。
民子はリュッカの言葉に苦笑して、庭先に停まった三輪バイクを見つめた。
そして何を思ったのか――わずかな沈黙をおいて、真顔で「そうですね」と呟いた。
瞬間、民子の双眸に不穏なひらめきが光る。
――三輪バイクがなければ二人は村から出られない。
バイクの運転手がいなければ、チトは動けない――まるで、そう確信したかのように。
・・・
起こされたのは真夜中だった。
前夜祭として、祝いの猪鍋をたらふく食べた晩。
使用人部屋で寝ていたリュッカを起こしたのは、
「た、民子さん……? こんな遅くに何ですか……?」
「申し訳ございません。どうしても、リュッカさんにお願いしたいことがあって。不躾とは承知しておりますが、他に頼れる方がいないのです」
そんな風に言われると、リュッカは弱い。
目を擦りながら内容を問うと、
「菊人形を一体、運んでほしいのです。力を貸してくれませんか?」
民子に連れられて、夜道を歩く。
間もなく到着した広場には、完成した菊人形がずらりと並んでいた。
暗くて色味が見えないものの、キクの衣装が見事に着付けられている。リュッカは明朝が楽しみになった。
民子は広場中央の一体の前で足を止め、その顔にさっと灯りをかざした。
「あっ、これ。菊代さんの菊人形ですか?」
若い女性の人形だった。
木彫りの頭部に、華やかな目鼻立ち。一目でわかった。
「……リュッカさん、なぜそうお思いに?」
「昨晩、菊代さんを夢で見て――って、そんなこと言っても信じられませんよね」
言ってから委縮するリュッカに、民子は目を丸くしたが、
「いいえ、信じますよ。リュッカさんが仰る通り、これは菊代様の人形ですから。そっか……顔を知られているなら余計に……」
民子はぶつぶつ呟いたかと思うと、
「お願いです、リュッカさん。この人形を移動させてください」
「移動って、どこにですか?」
「村の外れに、見晴らしのいい場所がございます……せめてもの慰めに、私、菊代様の人形をそこに置いてあげたいんです」
その要求は、一使用人の独断だった。
それでいて、今もなお菊代を慕い続けている人間の、切実さがあった。
民子の願いに胸打たれたリュッカは、二つ返事で菊人形を持ち上げた。
重い――けど、鉄の義手なら大した苦行ではない。
それよりも、キクの衣装が崩れないように、慎重に。民子が大げさに喜ぶので、リュッカは誇らしいのと恥ずかしいのとで、少しだけ足を速めた。
目的地まで数十分。
リュッカは休憩を挟みつつ、民子の先導で菊人形を運び、
「民子さん、菊人形はこの辺りに置けばいいですか?」
「……できればもう少し先まで」
暗闇に大荷物で、視界不良。
摺り足で進むリュッカの後ろから、民子が指示を出す。数歩先に、地面はもうなかった。
「でも、こんな場所に置いたら危険じゃないですか?」
「……いいんです。もっと先まで運んでください」
リュッカの心配をことごとく無視して、民子が「先へ先へ」と促す。
「あの、やっぱりこの辺に置きませんか。菊人形は、この村ではお墓の代わりなんでしょう? 菊代さんのお墓が、誤って崖下に落ちてしまったら――」
「……大丈夫です。それは、菊代の墓じゃありませんから」
「えっ?」
不安になったリュッカが、振り向いた刹那。
背後の漆黒から、ぬるりと白い手が現れて、
リュッカの背中を、とん、と押した。
バランスを崩して、体が傾く。リュッカは菊人形を手放した。
靴底が地面を滑り、地面の果てを踏み外す。天地が一瞬あやふやになる。
体の真正面に星空。地面はすでに目線の高さ。リュッカはとっさに右腕を伸ばして、一秒前に踏み外した場所にかろうじて掴まった。
……ガシャァァン!
宙に浮いた足のはるか下方から、鈍い音が響く。
それが、崖下で菊人形が砕けた音だと知った瞬間――リュッカはようやく理解した。自分は突き落とされたのだ、と。
誰に? どうして?
命の危機だというのに、疑問ばかりが湧き上がる。
動転したリュッカが民子の安否を案じかけたとき、月明りがふっと遮られた。
ややあって、自分を見下ろす存在に気づく。逆光に顔を上げれば、民子のシルエットのなかに、今にも泣きそうな瞳があった。
「ごめんなさい、リュッカさん。あなたに恨みはないけれど……私は、民子の遺言を守らなきゃいけないの。だから、チトさんを連れていかれちゃ困るのよ」
(――は?)
民子の言葉に、リュッカは顔を引き攣らせた。
理由も動機も、まったく意味がわからない。
でも、突き落とされたのは事実。片手で崖にぶら下がっている、この状況が何よりの証拠だ。
それなのに、彼女の第一声は謝罪だった。
涙を堪えてリュッカを見つめる、苦しげな表情も嘘には見えない。リュッカを殺そうとしておいて、何故そんなに悲しそうなのか――
それでいて、何より解せないのは、
(『民子の遺言を守りたい』と言ったこの人は、いったい誰なんだ?)
恐怖と混乱で、思考が鈍る。
そんなリュッカを弄ぶように、足元から風が吹き上がる。
同じ風が崖上の人物を撫で、顔に巻きつけられた布をするすると解いていく。
露わになった彼女の皮膚は、薬品のようなものでひどく腫れあがっていたが――整った顔立ちは、崖下で壊れた菊人形によく似ていた。
草木も寝静まる丑三つ時。村の外れで崖っぷち。
リュッカは崖を掴んだ右手に意識を集中させて、やっとのことで空中に留まっていた。
(……俺、義手でよかったかも)
まさか、こんな場面で実感することになるなんて。何たる皮肉。ありがたくってやるせない。
肩に癒着した鉄の義手は、疲れ知らず。リュッカの体重を支えるくらい朝飯前だ。これなら、力尽きて落下することはない。そう思えるだけで、リュッカは少し冷静になれた。
……が、指先のコントロールは難しい。
ガリッ。
力んだ拍子に、鉄の指が地面をえぐった。
(まずい……)
訂正――力尽きなくても自滅の危険はある。このままでは、自ら崖を破壊して真っ逆さまだ。
冷や汗が滴り、土塊と一緒に崖の底に吸い込まれていく。助けを呼ぼうにも、誰の名を呼べばいいのかわからない。
試しに、まっさきに思いついた二文字を唱えてみると、
「――ッカ、リュッカ! わたしだ。チトだ! 聞こえるか?」
「チト……!?」
示し合わせたようなタイミングで、返事があった。
錯覚か。と、ぎょっとして耳を澄ます。
かすかに聞こえてくるのは、鈴を鳴らすような細い声。幻聴ではなさそうだった。姿こそ見えないが、チトが崖下で声を張り上げていた。
チトはなぜそんな場所にいるのか。何をしようとしているのか。
つい右手に力が入り、再び土が崩れる。落下までのタイムリミットが刻一刻と迫る。
「義手でよかった」というのんきな感想も、撤回の必要があるかもしれない。
すると次の瞬間、信じられない命令が届いた。
「リュッカ、そこから落ちて!」
リュッカの口から「はあぁぁぁあ!?」と、ついに怒りの声が出た。
【TIPS】ぼたん
:イノシシ肉の隠語。肉が濃い紅色であることや、「獅子に牡丹」の取合せが由来か。




