1-9 知己
――俺はヌシだ。
そんな譲三の自己紹介に、リュッカは首をかしげた。
いったい何の「主」なのか。ウルシ林の所有者だと言うし、漆に関わる職業なのだろうけど。
リュッカが頭を悩ませているうちに、チトは自己紹介を終えていた。
「VERT、ねぇ……昔ウチにも来たな。そんな名前の胡散臭い集団が」
譲三はあごを触りながら、いかにも鬱陶しそうな声を出した。
リュッカはつい前のめりになって、
「なっ、そういう譲三さんは何級の〈庭師〉なんですか?」
「知らん。俺は称号なんざ要らん。漆器が作れればそれでいい」
譲三は眉一つ動かさず答えた。
だが、その眼球は、チトを解析するように忙しなく動いていて、
「『金髪碧眼のお嬢様』……なるほどな。お前か。あの人が言っていた、ヨナギ村のキクの救世主……ってのは。で、その救世主様が、俺の工房に何の用だ?」
「民子のことで話を聞きたい。話してくれるなら、長居はしないつもりだ」
譲三の挑戦的な口調に、チトは意外にも、毅然とした態度で返した。
リュッカは感心してチトをチラ見する。チトの蒼い瞳は譲三をじっと見据えていた。
譲三はわずかに驚いてから「潮時か」と呟くと、
「くれぐれも手短にな……質問が終わったらすぐに帰れ。俺は忙しいんだ」
戸を開け放したまま小屋の中へ戻っていった。
――随分とそっけないが、意訳すれば「入れ」ということだ。
覗き込んだ小屋の中には、小さな座机がひとつ。
座机には箆や小刀、黒ずんだ刷毛。茶碗には黒々としたウルシの樹液。
「塗師」とは、木の器に漆を塗る職人のことだ。百聞は一見に如かず。リュッカはたちまち理解した。
譲三が工房と呼んだ部屋の内壁には、完成品の漆器がずらりと並んでいた。リンドウを生けた一輪挿しの隣には、菊酒で用いた器と同じものもあった。
チトがブーツを脱ぐのに倣い、リュッカも戸をくぐろうとすると、
「テメェが工房に入るのは、体中の汚れを落としてからだ。いや……その前に、テメェが踏み抜いた罠を、元通りにしてもわらないとな」
譲三は背を向けたままリュッカを制止し、「ヤマト!」と呼んだかと思うと、
「そいつを、落とし穴まで連れていけ」
すぐさま、小屋の前で待機していた黒い犬――ヤマトがリュッカの服を咥える。嘘だろ……リュッカは半泣きになりながら、来た道を引きずられていった。
・・・
「……っは、ははは。俺と民子がデキてるんじゃないかって!? 笑止千万だな。いったい誰の入れ知恵だ?」
落とし穴の修復を終えたリュッカの耳に、譲三の乾いた笑いが響く。
リュッカはチトの斜め後ろに正座。譲三は座机で胡坐を組み、端正な顔を歪ませていた。
リュッカの合流を待って、問答は本題へ入った。
「ああ、斉藤のおやっさんか……何も、おやっさんが気を揉むような関係じゃない。俺と民子は、幼馴染み。ただそれだけだ」
「民子は、頻繁にあなたの元へ通っていたようだが?」
チトが鋭く追及すると、
「そりゃあ、あいつも俺も爪弾き者だからな……俺たちの話なんて、誰も聞いちゃくれねぇ。だから民子は、工房に足繁く通ってきてた――『菊代様の自慢』をするために」
譲三の表情に陰りが差す。
そこにある感情は、怒りより寂しさだった。
譲三は「爪弾き者」になった理由について、
「あいつは容姿で疎まれ、俺はひとりが気楽な性分。雑談相手にちょうどよかったのさ」
確かに譲三は、お世辞にも愛想がいいとは言えないが――ぶっきらぼうなりに誠実な人間だ。短いやりとりでも、譲三の人柄は把握できた。
一本気な職人気質。漆器づくり以外には興味が薄い。譲三にとっては、民子の顔の問題も些末なことなのだろう。
「あいつは口を開けば『菊代様』だった。余所の村から嫁いできた若奥様に、たいそう入れ込んでたよ。民子は主人に心酔してた……俺なんか眼中になかった」
譲三は自嘲するように視線を逸らし、民子の口癖をそっとまねた。
『菊代様は本当にお綺麗な人よ。キクのような――いえ、キクよりも美しい御方』
その言葉は恍惚として、
『菊代様は私の顔のこと、醜くなんてない、って。目を見て言ってくれたのよ。嘘でも嬉しい。誰も私を見てくれなかったから』
信仰にも似た憧れを孕み、
『菊代様はひとりぼっちなの。ヨナギ村の人は皆、菊代様に冷たい。だからどうか、譲三は、菊代様によくしてあげて』
情愛のようなあたたかさをもっていた。
その思慕の深さは、リュッカが夢に見た光景と一致した。
確信する。民子は心から菊代を慕っていたのだ。
しかし事実確認の一方で、新たにわかったこともある――チトが間髪入れずに質問する。
「菊代は、ヨナギ村で冷遇されていたのか?」
譲三は言いづらそうに、
「どうだかな。まあ、冷遇ってほどじゃなくても……歓迎はされなかったはずだ。あの人は……おやっさんと歳が倍以上も離れた御令嬢だ。村のヤツの疑念ももっともだろうよ」
美人ゆえに悪目立ちしたのだろう、と、リュッカが思ったとき、
「それに、何が不幸だったって……あの人が嫁いできた年の秋に、原因不明の病気が流行ったことだ。病気は女子供から感染して、村中に拡大していったらしい。死者がひとり、またひとりと増えるたびに……村人は流行病の原因を血眼になって探した」
「つまり『菊代が病気を持ち込んだ』と結論づけられたわけだな?」
チトが声を潜めて言う。
譲三は無言。それは肯定のだんまりだった。
「……ある日、あいつが工房に飛び込んできて、こう言ったんだ。
『どうしよう、譲三。菊代様が殺されちゃう!』
って。疑心暗鬼になった村人は、あの人を排除しようと画策したんだ。真夜中に、村の外れの断崖から菊代を突き落とそう――民子は、村人がそんな相談をしているのを聞いてしまったんだ」
譲三の発言に、リュッカは思わず腰を浮かした。
祭りの準備で打ち解けた村人たちが、そんなことを考えたなんて信じられなかった。
「ど、どうしてそんな発想になるんですか? ヨナギ村の人は皆いい人ですよ!」
「……よくある話だよ、リュッカ。外部から持ち込まれた疫病で集落が壊滅した例は、枚挙に暇がない。集団的な防衛反応として十分に考えられる話だ。ヨナギ村のような、医療が充実していない地域ならなおさら」
「でも」
チトの冷静な返しに、リュッカは言葉を失った。
夫婦、兄弟、親子。大切な人が倒れていく絶望のなかでは、人は残酷になっていくものなのだろうか。科学的な根拠もないまま、誰かを殺害しようと考えるくらいに。
「民子は何とかして、村人の凶行を阻止しようとした。あの人を守ろうとした。だが、あの顔だ……もとより、他人様に話を聞いてもらえるような人間じゃない。あいつが思い悩んでいるうちにも、病気の魔の手は迫ってきていて――」
譲三は一瞬口を開きかけて、言葉を選ぶように黙った。
そして代わりに、漆の剥げた刷毛を手に取り、指でしごくように何度も撫でた。
――皆まで聞かなくても、その先は、現状から推測することができた。
斉藤家の物故者は菊代だけ。民子が村人の説得を試みているうちに、菊代は流行病で亡くなってしまったのだろう。「菊代が流行病の元凶」だと邪推した村人を、一蹴するかのように。
かくして村人の凶行は阻止されたが、民子が守りたかった主人は帰らぬ人となった。
「そんな悲しい話があったんですね……つらいことを喋らせてしまってすみません」
「……別に。ヨナギ村の惨事に関して、俺は部外者に過ぎない。ただ、あの『菊代様』という声が聴けなくなったのを、ときどき寂しく思うだけだ」
閉ざされたキクの村と、醜形の使用人が隠してきた痛ましい過去。
俯くリュッカの胸のうちで、ふと、何かが引っかかった。
「あの、譲三さん。民子さんは、もう『菊代様の自慢』をしに来ているわけじゃないんですよね? それなら、民子さんが今もこの場所を訪れる理由はなんですか? それに、譲三さんは開口一番、もう漆を分けたくないって……」
民子が今も譲三を訪ね、そのうえ漆を欲している理由が謎のままだ。
それから、譲三が民子に漆を分けたがらない理由も。
しかしながら、正攻法で問いかけても、譲三は答えてはくれないだろう。
チトは感覚的にそう判断したのか、
「譲三、二つだけ教えてくれ。あなたはきっと、これまでは要求通りに漆を分け与えてきたのだろう。だとしたら、それはいったい誰のためだ? そして、その漆は何に使われてきた?」
チトがそう尋ねた途端――譲三は唇の端で薄く微笑んだ。
まるでそう聞かれるのを、待っていたみたいに。
「……無論、民子のためだ。俺が民子にしてやれることなんて、もう、それくらいしかない。
漆の用途は、俺の口からは言えないが……ただ、今の用途は目に余る。漆は、木地を美しく仕上げるためのものだ。これ以上、あんな風に使ってほしくはない」
あんな風な使われ方、について説明が欲しい。
チトとリュッカが視線で補足をねだると、譲三はぽつりとこう言った。
「あの二人は、知己だったんだ」
知己――自分を深く理解してくれる人、を指す言葉。
リュッカがぽかんとする傍ら、チトは雷に打たれたように立ち上がった。
チトは譲三に礼を言って、足早に小屋を出る。リュッカは訳も分からないまま、その背を追って正座を崩した。が、足がしびれて蹴つまづく。
「ち、ちょっと、チト!」
縋るようにそう呼びかけた瞬間。
リュッカは譲三がした発言――あなたに分ける漆はもうない――に、強烈な違和感を覚えた。
譲三は終始、民子を「あいつ」と呼んでいた。あいつは自分と同じ爪弾き者だ、と。先の訪問者が民子だとして、幼馴染みに「あなた」なんて、ちょっと他人行儀すぎやしないか?
「……テメェは『村の人は皆いい人』だと言ったな」
小屋を飛び出したリュッカの背中を、譲三の声が追いかける。
「テメェみたいな甘ちゃんは、嫌いじゃない……だがな、ヨナギ村のような閉じた村の人間は、やるときゃやる……せいぜい気をつけな」
【TIPS】リンドウ(竜胆)
:秋に咲く青紫色の花。根は苦く薬用になるため、病を治す「えやみぐさ」とも。




