1ー7 民子の憧れ
墓を持たないヨナギ村で、異彩を放つあの塚。
リュッカは民子に尋ねようと思ったが、帰宅した民子はひどく疲れた様子だった。
いったいどこまで出掛けていたのか。民子は具合悪そうに、顔を覆った布の上から頬を掻いていた。気後れしたリュッカは聞くタイミングを失って――結局、塚の正体はわからずじまい。
謎多き民子の傍ら、チトも何かを考え込んでいて、気軽に話し掛けられる雰囲気ではなかった。
やはりリュッカと別れた後、藍にひどいことを言われたのだろうか。ふと心配になる。とはいえ、チトの様子はショックを受けているというよりも、謎解きに挑んでいるような感じだし……
リュッカは、そんな疑問を夕食の山菜と一緒に飲み込んで、早々に部屋に下がった。
その晩、リュッカは夢を見た。
斉藤家の屋敷で、美しい女性の髪を結っている夢。
リュッカは正座する女性の後ろで膝立ちになって、濡れ羽色の髪を梳いていた――否、よく見れば櫛を持つ手が義手じゃない。この光景はきっと民子の視点だ――リュッカは夢の中で直感した。
使用人部屋で寝泊まりしているせいで、民子の記憶に感応したのかもしれなかった。
リュッカ、もとい民子が髪を結い終わると、女性がこちらを振り向いた。
陶器のような肌に赤い唇。整った目鼻立ち。誰もが目を奪われるほどの美女だった。彼女が「菊代」だと瞬時に悟る。
菊代は二言三言呟いて、こちらの方へ手を伸ばす。
菊代の手が頬に触れると、視界がぶわっと滲んだ。
(ああ、この方にお仕えできて本当によかった)
そんな思いが、自分の意思のように込み上げてくる。
醜い顔のせいで嫁にも行けず、奉公先も決まらなかった民子の半生が、脳内を駆け巡る。斉藤家に雇われた後も、使用人仲間から疎まれるのを恐れ、顔を隠して生きてきた――菊代が嫁いでくるまでは。
目尻を拭おうとして、不意につげ櫛を取り落とす。慌てて拾う。
そんな慌てぶりに菊代はきょとんしてから、歯を見せて笑った。年齢差が倍以上もある正夫のもとへ、山向こうから嫁いできた菊代。家の都合だとわかっていても、よそから来た若奥様なんて、村人にとっては恰好の噂の的だった。
不満だって一つや二つではないだろうに、
「民子がそばにいてくれるから、私、とても心強いのよ」
菊代がそんな風に言うから、勘違いしそうになる。
菊代と民子は、年齢と背格好はほとんど同じ。だけど、容貌と心根の美しさはまるで菊代には敵わなかった。彼女こそ、キクの花よりも高潔な唯一無二の人。
(この方のためなら命さえ惜しくない)
胸の内で決意して、菊代の手のひらにそっと指を添える。
冷たい手の感触が心地よい。そのまま、愛おしむように目を閉じた。
しばらくそうしてから、もう一度目を開けると――そこは明け方の使用人部屋。菊代の姿は霧消していた。
時刻は午前五時。外を見ると、東の空が白みはじめている。
リュッカは思わず鉄の手で頬に触れ、夢の名残を求めたが、当然ながら他人の手の感触は残っていなかった。
・・・
菊人形祭りを翌日に控えた朝。
夢の余韻が消えないリュッカが使用人部屋を出ると、
「チトさん、どうかお願いです。この大菊だけ咲かせてくれませんか?」
裏庭の方から、民子の必死な声が聞こえてきた。
覗いてみれば、大きな鉢を抱えた民子がチトに頭を下げていた。今日のチトは振袖ではなく深緑のドレスだ。見慣れた姿になぜかほっとする。
民子が抱えた陶器鉢には、三本の支柱が植わっていた。しかし、肝心の苗は背丈が低くヒョロヒョロだった。
「二人とも、朝から何を話しているんですか?」
「ああ、リュッカ。民子が『この大菊を咲かせてほしい』と言って聞かなくて……『菊の着せ綿』をしたいそうなんだ」
「着せ綿?」
「菊酒と同じように、極東エリアでかつて行われていた習慣だよ。旧暦九月九日、キクの花にワタをかぶせておいて、翌朝、朝露を含んだワタで体を拭く」
チトは「旧暦九月九日――重陽の節句はとっくに過ぎているがね」と苦笑した。
「そのワタで体を拭くと、どうなるんですか?」
「……無病息災を得ると伝えられています。また、顔に当てれば傷が癒え、若さと健康を保てるとも」
当面咲かないであろうキクを見下ろして、民子が答える。
顔を覆う布の隙間から見える、かぶれたような痛々しい傷。リュッカは眉をひそめた。
長い間、顔にコンプレックスを抱えていた民子。その苦痛を和らげてくれた主人・菊代は、流行病で死んでもういない――それに、顔の傷はかゆみを伴うのだろう。リュッカは、布の上から頬を掻いていた民子を思い出して、チトに言った。
「その大菊、咲かせてあげられませんか?」
「でも……」
チトがためらうのは、藍の言葉を気にしているからか。それとも、異能の行使が疲労を伴うものなのか。
リュッカは思案顔のチトをじっと見つめた。
「一輪くらいだめですか? その『着せ綿』ってやつ、民子さんにやらせてあげたいです。俺からもお願いします」
リュッカが民子の隣に立って頼み込むと、
「…………わかった」
チトはしぶしぶ革手袋を脱いだ。
そして民子が抱える鉢の苗に、すっと親指をかすめた。
その瞬間。
たちまちキクが生長し、ギザギザの葉がいっせいに茂った。
茎の分岐点からいくつもの脇芽が生まれ、民子が「あっ」と声をあげる。鉢の重さに耐えかねた民子は、鉢をどすんと地面に置き、慌ててキクの脇芽を摘んだ。キクはその間にも背丈を伸ばし、チトの腰の高さでつぼみをつけた。
茎の先端に残されたつぼみが、エネルギーを溜め込むように大きく膨らむ。
時間を無視した、あまりにも早い成長速度。凛と張った枝葉。黄色の花弁をぎゅっと蓄えたつぼみは、息を整えるように少し静止して――やがて、ぶわっと大輪に花開いた。
「うわぁ……すごく立派だ」
菊人形用の小菊とは違う、圧倒的な存在感。リュッカは感動して呟いた。
大菊の花は直径20センチ。人の顔くらいはあった。数百枚のやわらかな花弁が鱗状に重なり、豪奢な花の毬になっていた。
「……ええ、本当に綺麗なキクの花。そっか……こうすれば私はずっと……」
民子は心奪われたようにひとりごちた。
それから、懐から綿花を取り出して半分チトに分け与え、
「ああ、何とお礼を言ったらいいか……祭りが終わったら出発されるなんて本当に残念ですわ。チトさん、ずっと村にいてくださればいいのに」
キクのてっぺんにワタをかぶせながら、民子が話す。
ところが、言われたチトは綿花をもてあそぶようにして、曖昧に返事を濁した。
妙な違和感。チトの煮え切らない表情に、リュッカは首をかしげた。その表情はまるで――ヨナギ村に滞在することに不安を覚えているかのようだった。
喜ぶ民子の瞳の奥に、仄暗い光が灯る。リュッカはまだそれに気づいていなかった。
その後、民子は、朝食の準備を済ませると慌ただしく席を外した。
正夫とチトとリュッカで囲む、昨日と同じ厳かな朝食。食器と箸がぶつかる音が和室に響く。
リュッカは無言でコメを咀嚼しながら、チトを盗み見た。チトは大菊を咲かせてからというもの、ずっと険しい顔をしていた。何が不満なのだろう。積み重なった疑問を口にできない雰囲気は、リュッカにとって窮屈だった。
空の器を重ね、合掌して立ち上がる。
前日同様に、祭りの準備を手伝いに行こうとしたチトとリュッカを、正夫が短く呼び止めた。
「おい坊主。それと嬢ちゃん。気持ちはありがたいんだが、今日は手伝ってくれなくてもいい。その代わり、ひとつ頼まれてくれないか?」
正夫はすっかり好々爺の眼差しで、
「客人に頼むことじゃないんだが……お前たち、民子と随分親しいだろう。民子のことを、ちょっと探って欲しくてな」
「正夫、それはどう言う意味だ?」
チトが問うと、正夫は言いにくそうに口をもごもごさせて、
「要するに――民子を尾行してほしいんだ。あいつは今日も村の外に出掛けるらしい。この忙しい時分に、まったく何を考えているんだか」
黙認してはいたものの、正夫も民子の挙動が気になっていたのだ。
しかし、民子を責めるような口調から一転。
正夫はおもむろに腕を組み直すと、
「別に捕まえて叱ろう、ってつもりじゃない。民子は本当によくやってくれている。四年前……菊代が死んで民子もつらかったろうに、あいつはワシに尽くしてくれた。
一度は外していた顔の布をまたつけるようになったり、無言の外出が増えたりしても、今さら文句は言わんよ」
(その気持ちは、民子本人に伝えればいいのに)
とリュッカは思った――が、言わないでおいた。
口にすればゲンコツが飛んでくるのは目に見えている。チトの振り袖姿を褒めなかったときみたいに。
正夫は照れるように顔を背けて、言葉を続けた。
「だからもし、民子が男に会いに行っているのなら……こっそり仲を取り持ってやりたいんだ。仕えるべき主人を亡くして、しかも未婚のままなんて悲惨だと思わないか? 村外に想い人がいたっておかしくないしな」
……未婚の民子が悲惨かどうかは抜きにして。
親心にも似た正夫の気づかいに、リュッカは驚いた。また、民子が逢引しているという突飛な発想にも度肝を抜かれた。
リュッカは、夢で見た民子の忠誠を思い返す。
民子が菊代に抱く、強い憧憬。その憧れは、そう簡単には塗り替えられないように思えたが――民子の気持ちはもう別の男性へ移っている、と言われても反論材料がない。それに正夫の言う通り、新しい恋はきっと、民子にとって悪いことじゃない。
「男って……心当たりがあるんですか?」
「ヨナギ村の北に位置する、林の山小屋。そこに住む譲三という男だ」
正夫が淀みなく答える。
リュッカはチトと顔を見合わせ、二人同時に頷いて、正夫の依頼を受諾した。
【TIPS】ワタ(綿)
:アオイ科ワタ属に分類される植物。ふわふわの部分は、種を守るための果実の毛。




