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婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ  作者: 入多麗夜


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17/22

17. 工房での再会

  アリスは小さな金具を布に包み、町の南側へ向かって歩いていた。昨夜、寝る前に雨戸を閉めようとしたところ、片方の留め具がぐらついていることに気づいたのだ。今すぐ外れそうなほどではなかったものの、風の強い日に壊れてからでは困るため、早いうちに見てもらうことにした。


 向かう先は、町の南側に工房を構える大工のマルコ・ライナーだった。三十三歳のマルコは、家具や扉の製作から雨戸、荷車、傷んだ家屋の修繕まで幅広く請け負っている。帝国が崩壊した後もエルデンに残った職人の一人で、最近は空き家の修繕や新しく移り住んできた人たちからの注文が重なり、以前にも増して忙しく働いていた。


 妻のエルサと二人で工房を切り盛りしており、細かな修理でも嫌な顔をせず引き受けてくれるため、アリスも家の木製品が傷んだときには何度か世話になっている。普段は口数の多い人ではないが、仕事の話になると説明が細かくなり、修理するより買い替えた方が安いものなら、それも正直に教えてくれる人だった。


 工房が近づくにつれ、木を叩く乾いた音が聞こえてきた。住宅の多い中心部から少し離れたこの辺りには職人の仕事場が点在し、道幅も荷車が行き違えるほど広い。マルコの工房の前には長さの異なる板材が種類ごとに積まれ、屋根の張り出した場所には加工途中らしい椅子や小さな棚が並んでいた。


 削ったばかりの木の匂いが風に混じる中、アリスは作業の邪魔にならないよう入口の前で足を止めた。工房の奥では誰かが鋸を引いており、その規則的な音に重なって、木材を動かすような重い音も聞こえてくる。


「こんにちは。マルコさんはいらっしゃいますか?」


 声をかけると、すぐに奥から返事があった。革の前掛けをつけた男が姿を見せ、手についていた木屑を布で払いながら近づいてくる。短く切った焦げ茶色の髪にも細かな削り屑が残っており、作業の途中だったことが一目で分かった。


「アリスか。今日は何が壊れた?」

「まだ壊れてはいないんですけれど、雨戸の留め具が緩んでしまって。これと同じものをお願いできますか?」


 アリスが布を開こうとしたところで、敷地の奥から二人の男が長い板材を運んできた。作業の邪魔にならないよう一歩下がったアリスは、そのうちの一人を見て思わず目を留める。


 数日前、町へ来たばかりのところを偶然見かけ、道を教えたことから随分長く話し込んだ青年だった。前に会ったときには旅装だったレオンが、今日は袖を肘まで捲り、板材の片側を抱えて歩いている。


 向こうもアリスに気づいたらしい。板材を決められた場所へ下ろすと、レオンは手についた木屑を払いながらこちらへやってきた。額には薄く汗が浮かんでいたが、疲れているというより、アリスとの再会を素直に喜んでいるように見えた。


「アリスさん!こんにちは。また会いましたね」

「こんにちは、レオンさん。驚きました。こちらで働いているんですか?」

「働いていると言っていいのかは、マルコさんに聞いてください。今のところ、木材を運んでいる時間が一番長いので」


 レオンが笑いながら答えると、横で話を聞いていたマルコが腕を組んだ。彼はレオンを一度見てから、まだ大工として雇った覚えはないと淡々と言う。


「人手が足りない日に手伝わせてるだけだ。こいつは力仕事なら文句を言わないし、帳簿も読める。だが、昨日は木材を違う場所へ積んだけどな」

「それはもう反省しましたよ」


 レオンが困ったように笑うと、マルコも口元を緩めた。二人のやり取りを見る限り、まだ数日しか働いていないわりには、それなりに馴染んでいるらしい。


 アリスは前にレオンが仕事を探していると話していたことを思い出した。ラウゼンからやってきたばかりの彼が、もう実際に働き始めていることに少し驚きながら、改めて手にした布を開いた。


「それで、マルコさん。こちらなんですけれど」

「ああ、見せてくれ」


 マルコは受け取った留め具を手のひらへ載せ、表と裏を何度か確かめた。金具自体は大きく壊れていないものの、固定する部分が摩耗しており、このまま使い続ければ外れる可能性があるという。


「同じ形に直せる。ただ、これが緩んだなら雨戸側の木も傷んでるかもしれないぞ。帰ったら穴が広がってないか見ておけ」

「分かりました。もし傷んでいたら、またお願いしてもいいですか?」

「そのときは雨戸ごと見た方が早いな。留め具は少し待ってくれ。今やってるのを片づけたら直す」


 マルコが作業台へ戻っていくと、アリスは一度家へ帰るか迷った。往復するほど遠くはないものの、修理にそれほど時間がかからないのなら、どこかで待っていた方が楽かもしれない。


「もし急いでいないなら、ここで待ちませんか?」


 レオンがそう言って、工房の脇にある長椅子を指した。木材を運ぶ作業は一段落したらしく、次に何をすればいいかマルコへ確認すると、少し休んでいいと返される。


「僕もちょうど休憩をもらったところなんです。この前は途中で別れてしまいましたし、もう少しお話ししたいと思っていました」

「それなら、お言葉に甘えます」


 二人は工房の脇に置かれた長椅子へ移った。すぐ横には乾燥中の板材が屋根の下へ積まれ、その向こうではマルコたちが作業を続けている。槌や鋸の音は絶えず聞こえていたが、少し離れれば普通に話せる程度だった。


 レオンがエルデンへ来てから、まだそれほど日は経っていない。現在もクレイン一家の宿屋に泊まっており、一緒にラウゼンから来た幼馴染のユリウスと同じ部屋を使っているという。


「ユリウスさんは、今日は一緒ではないんですね」

「最近は朝からほとんど別行動ですよ。商人を見つけるたびに話を聞きに行っています。昨日なんて宿へ戻ったら、僕の知らない商人と三人で夕食を食べていました」

「もうそんなに知り合いが増えたんですか?」

「僕も驚きました。いつ知り合ったのか聞いたら、『今日』と言われましたよ。あいつは昔からそうなんです」


 呆れたような言葉とは反対に、レオンは楽しそうだった。アリスも前に会ったユリウスの様子を思い出し、確かに初めての土地だからと遠慮する人物には見えなかったと笑う。


 レオン自身はユリウスほど器用に人脈を広げられず、できる仕事を探して町を回っているらしい。木工場の手伝い以外にも、荷物の積み下ろしや倉庫の整理をし、前日には商人の帳簿をまとめる仕事も引き受けたという。


「読み書きと計算なら困らないんです。でも、エルデンへ来てから、自分ができないことの多さに驚きました」

「そうなんですか?」

「はい。ラウゼンにいた頃は、もう少し何でもできるつもりだったんですよ。馬には乗れますし、帳簿も扱える。剣も最低限は習いました。でも家を直せるわけでもなければ、畑仕事の経験もほとんどない。木の種類まで間違えましたしね」


 最後の一言にアリスが笑うと、レオンもつられて笑った。自分の失敗を隠そうとしないところは、初めて会ったときから感じていた彼の話しやすさにつながっているのかもしれない。


「それでも、すぐに仕事を見つけたんですね」

「見つけたというより、できそうなことを片っ端から試しています。仕事を選べるほど、まだこの町のことを知りませんから」

「大変ではありませんか?」

「大変ですよ。でも、嫌ではないです。昨日できなかったことが今日は少し分かるようになるのは、案外楽しいので」


 レオンは自分の手を見ながら答えた。指先には小さな擦り傷がいくつかあり、慣れない仕事を続けていることがそこにも表れている。貴族家の三男として育ったと聞いていたため、アリスはもう少し仕事を選ぶ人なのかと勝手に想像していた。


「ラウゼンへ戻ろうとは思わないんですか?」


 アリスが尋ねると、レオンは少しだけ考えるように視線を落とした。答えにくいことを聞いてしまったかと思った頃、彼は戻れないわけではないのだと静かに話し始める。


「実家へ帰れば、僕の部屋もまだあるでしょう。家族と仲が悪いわけでもありません。兄たちだって、帰ってくるなとは言わないと思います」

「それなら、どうして?」

「一番上の兄は家を継ぐ準備をしています。二番目の兄には軍での仕事がある。僕だけが何も見つけられなかったから帰ってきました、では格好がつかないでしょう?」


 レオンは冗談めかして笑ったものの、それだけが理由ではなさそうだった。家を継ぐ必要がないからこそ、自分が何をするのかを自分で決めたいのだろうと、アリスには思えた。


「三男だと、家を継ぐことはないんですね」

「兄に何か起きない限りは。もちろん、何も起きない方がいいですよ!僕だって家を継ぐために旅へ出たわけではありませんから」


 慌てて付け加えたレオンに、アリスは思わず笑ってしまった。彼も自分の言い方がおかしかったことに気づいたらしく、困ったように眉を下げている。


「だから、もう少しここで試してみたいんです。仕事が見つかるかもしれないし、本当に向いていなければ別の場所へ行くかもしれない。まだ何も決まっていませんけどね」


 そう話したレオンは、今度はアリスの方へ顔を向けた。自分ばかり話していたと思ったらしく、少し間を置いてから同じように質問を返してくる。


「アリスさんは、エルデンを出ようと思ったことはないんですか?」

「ありますよ」


 答えはすぐに出た。十年前、町から逃れていく人々を見ながら、自分もどこかへ行った方がいいのではないかと考えたことは何度もある。知っていた暮らしが失われたばかりの頃なら、なおさらだった。


「最初は、ここ以外でどう暮らせばいいのか分からなかったんです。行く場所もありませんでしたから、残ったという方が近いですね」

「今は違うんですか?」

「今は……ここで暮らしたいからでしょうね」


 口にしてから、アリスは自分の答えを少しだけ考えた。十年前と現在では、同じ場所に住み続けていても理由は違っている。レオンはそれ以上尋ねず、納得したように頷いた。


 しばらく二人の間に会話がなくなったが、気まずさは感じなかった。工房から規則的な槌の音が響き、風が吹くたび削ったばかりの木の匂いが濃くなる。通りを荷車が過ぎていくのを二人で眺めていると、レオンが思い出したように口を開いた。


「そういえば、エルデンへ来てから一つ困っていることがあるんです」

「何でしょう?」

「道を教えてもらっても、分からないんですよ。昨日は『昔の役所の角を曲がって、その先の井戸を越えろ』と言われたんですが、僕は昔の役所を知りませんから」


 真剣に困っているらしいレオンを見て、アリスは思わず笑ってしまった。昔から住んでいる者同士なら何の疑問もなく通じる説明でも、町へ来たばかりの人には何の目印にもならない。


「それは説明した方が悪いと思います」

「しかも別の人に尋ねたら、『あれは役所じゃなくて倉庫だ』と言われたんです。結局どちらなんですか?」

「両方ですよ。最初は倉庫で、その後に役所の一部として使われていました」

「そういう事だったのですか!?」


 レオンが声を上げて笑い、アリスもつられて笑った。さらに彼が「赤い屋根だった家の向かい」と教えられたのに、その家の屋根が現在は茶色だったという話をすると、アリスにはどこの家なのかすぐ分かった。


「数年前に葺き替えたんです。それでも皆、赤い屋根の家と呼んでいますね」

「やっぱりですか!それなら新しく来た人間が迷うのは仕方ないでしょう?」

「そう言われると、確かにそうですね。今度から誰かに道を教えるときは気をつけます」


 困り事について話していたはずなのに、気づけば二人とも笑っていた。前に会ったときにも長く話したが、あのときは互いの国や町について尋ねることが多かった。今日はもっと身近な話ばかりなのに、不思議と話題が途切れない。


 やがて話はラウゼンでの暮らしへ移り、アリスの方から尋ねることが増えていった。レオンの故郷では何をよく食べるのか、休日には何をしていたのか、二人の兄とは似ているのか。聞いてみれば知らないことはいくらでも出てくる。


「兄たちとは、あまり似ていないと言われます。一番上の兄は真面目ですし、二番目は昔から身体を動かす方が好きでした」

「レオンさんは?」

「僕ですか?どちらにもなれなかった三番目です」

「それでは答えになっていませんよ」

「アリスさん、意外と厳しいですね!」


 レオンが笑うので、アリスもまた笑った。彼からも普段は何をして過ごしているのか、料理はするのかと尋ねられ、今度はアリスが答える番になる。


「料理は人並みにはしますよ。一人で暮らしていますから」

「人並み、ですか。その言い方は信用していいんでしょうか?」

「失礼ですね。少なくとも、自分で食べられないものを作ったことはありません」

「基準が急に低くなってません?」


 言われてみれば確かにそうで、アリスは堪えきれずに笑った。レオンも声を上げて笑い、工房の方からマルコが何事かと一度こちらを見るほどだった。


 それからも話を続けているうちに、マルコが修理を終えた留め具を持って工房から出てきた。アリスが来たときより陽は傾き、屋根の影も随分長くなっている。思っていた以上に長く話していたらしい。


「できたぞ。取り付ける方の木まで傷んでたら持ってこい。金具だけ直しても、そっちが駄目ならまた外れるからな」

「ありがとうございます。帰ったら確認してみます」


 アリスは代金を支払い、直った留め具を布へ包んだ。レオンも今日頼まれていた仕事は終わったらしく、マルコへ声をかけてから工房を出る準備を始める。


「途中まで一緒に行ってもいいですか?」

「ええ。宿へ戻るなら、しばらく同じ方向ですね」


 二人は並んで工房を離れた。午後の仕事を終えた職人たちが通りへ出始め、昼間より少なくなった荷車の代わりに、家へ帰る人の姿が増えている。西へ傾いた陽が建物の壁を照らし、道の端まで長い影を伸ばしていた。


 工房を離れてからも会話は途切れず、今度はレオンがエルデンで食事をするならどこがいいのかと尋ねてきた。パンならハイン夫妻の店を勧めたいところだが、夕食を食べる店なら別の場所がある。


「酒場はどうでしょう。お酒を飲まなくても食事だけできますし、煮込み料理が美味しいですよ」

「アリスさんも行くんですか?」

「ええ。毎日のようにではありませんけれど、夕食を作るのが面倒なときには行きます」

「意外ですね。毎日きちんと作っていそうに見えました」

「私をどういう人だと思っているんですか。面倒な日はありますよ」


 アリスが少し呆れて返すと、レオンは笑いながら謝った。彼はまだその酒場へ行ったことがないらしく、煮込み以外には何があるのか、混む時間はいつなのかと次々に尋ねてくる。


 話しているうちに、クレイン一家の宿屋へ向かう道とアリスが家へ帰る道が分かれる場所まで来た。ここで別れるのだと思い、アリスは布に包んだ留め具を持ち直してレオンへ向き直る。


「今日はお仕事中だったのに、ありがとうございました。思っていたより長くお話ししてしまいましたね」

「僕の方こそ。休憩のつもりだったのに、ずいぶん長くなりました」


 レオンはそう答えて笑ったものの、すぐには宿の方へ歩き出さなかった。何か言おうとしているように見えたため、アリスもその場に残る。


 通りの向こうから荷車が一台近づき、二人の横をゆっくり通り過ぎていった。車輪の音が遠ざかってから、レオンは少し迷うように視線を逸らし、もう一度アリスを見る。


「アリスさん。もし明日の夕方、予定がなければ……一緒に食事へ行きませんか?」

レオンは現在、エルデンに定住すると決めたわけではなく、自分にできる仕事を探しながら暮らしています。


工房で働いているのもその一環で、正式な大工になったわけではありません。


前回は偶然出会って話し込んだ二人でしたが、今回はレオンの方から少しだけ一歩を踏み出し、アリスを食事へ誘っています。

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