↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ  作者: 入多麗夜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/22

16. 地下を流れる水

 翌朝、アリスがクレイン一家の宿屋へ着くと、灰鷹の四人はすでに出発の準備を整えていた。入口近くの卓には何本もの縄と灯り、予備の油を入れた小瓶、布、簡単な工具が並べられ、昨日より明らかに荷物が増えている。地下へ入る以上、入口を見つけただけだった昨日と同じ準備では済まないらしい。


 シェリルとルーカスも早くから来ていたようで、二人とも大きな荷物を背負っていた。シェリルは椅子へ座っていながら何度も入口へ目を向け、早く出発したくて仕方がない様子を隠そうともしていない。対するルーカスは、昨日見つけた物資記録を布で丁寧に包み直していた。


「今日は中まで入れるんですよね? 昨日は階段を見つけたところで帰ったから、夜になってもずっと気になってたんです」

「安全ならな。崩れていたら戻る。空気がおかしくても戻る。水が深ければ、その先には行かない」

「ガレスさん、朝から帰る話ばかりじゃないですか。もう少し楽しみにしてもいいでしょう?」


 シェリルが不満そうに言うと、ガレスは帰ってくるまでが仕事だと短く返した。その横ではノエルが昨日見つけた水路管理所の位置を地図へ書き加え、ミレイユは治療道具のほかに口元を覆うための布を人数分確認している。ボリスは探索用の荷物とは別に昼食の袋までしっかり用意していた。


 宿屋を出た一行は、昨日と同じくエルデンの北西へ向かった。朝露を残した畑の間を抜け、緩やかな丘を越えていく。昨日一度通っているため道を探す必要もなく、シェリルとルーカスは迷わず先へ進んでいった。


 林へ入る頃には朝の冷たさも薄れ、木々の隙間から落ちる光が細かな斑点となって地面を照らしていた。ノエルは昨日見つけた古い路盤らしい場所へ何度も視線を向けていたものの、今日はガレスに言われる前から足を止めなかった。


 二時間とかからず、灰色の石造りの建物が木々の間から姿を現した。屋根の半分が崩れ、壁を蔦と苔に覆われた姿は昨日と変わらない。それでも床下に地下へ続く階段が隠されていると知った今では、アリスにも最初に見たときとは違う建物に感じられた。


 建物へ入ると、ガレスとボリスが昨日戻した石板の周囲から土を払い、二人がかりでゆっくり持ち上げた。石同士が擦れる重い音が室内へ広がり、隙間が開くにつれて湿った冷気が流れ出してくる。やがて暗闇へ続く石段が、昨日と同じ姿を現した。


「やっぱりある……昨日見たのに、もう一度見るとすごいですね。こんなものがずっと床の下にあったなんて」


 シェリルが入口を覗こうと身を乗り出したところで、ミレイユが肩を掴んで下がらせた。彼女は細い棒の先に布を結び、地下へ伸ばしながら灯りの火にも異常がないか確かめていく。


「中へ入ってから気分が悪くなっても困ります。昨日しばらく開けたことで空気は入れ替わっているでしょうけれど、まずガレスたちに確認してもらいます」

「分かってます。でも、階段の先くらい見たいじゃないですか」

「見たい気持ちと安全かどうかは別です。そこは分けてください」


 ミレイユにきっぱり言われ、シェリルも今度は大人しく下がった。最初に地下へ降りるのはガレス、ノエル、ボリスの三人で、アリスたちは安全が確認されるまで地上で待つことになった。


 三人が石段を降りていくと、灯りは次第に小さくなり、やがて完全に見えなくなった。アリスは入口から離れた壁際で待っていたが、地下から時折聞こえてくる足音が気になり、何度も暗い階段へ視線を向けてしまう。


 隣ではシェリルが落ち着かず、入口へ近づいてはルーカスに戻されていた。彼も平静を装っているものの、昨日まで価値の分からない紙切れだと思っていた記録の先に何が眠っているのか気になるらしく、手にした革鞄の留め具を何度も指で触っていた。


 しばらくすると、地下から足音が近づいてきた。最初に姿を見せたガレスの服には目立った汚れもなく、怪我をしている様子もない。アリスが安心した直後、その後ろから上がってきたノエルの顔を見て、何か見つけたのだとすぐ分かった。


「ありましたよ! 下にちゃんと施設が残っています。それに、水が流れてるんです!」

「本当に!? 今も?」

「流れてます。地下にかなり広い通路があって、その横を水路が通ってるんですよ。あれはちょっと……いや、かなり面白いです!」


 ノエルは普段より明らかに早口になっていた。ガレスがまだ安全を確認した範囲だけだと補足すると、シェリルはすぐに荷物を背負い直し、今度こそ地下へ行けると顔を輝かせた。


 ガレスから壁や設備へ不用意に触れないこと、勝手に別の通路へ入らないこと、足元に異常を感じたら止まることを念押しされ、一行は順番に石段を降りていった。アリスも壁際へ張られた縄に手を添え、一段ずつ足場を確かめながら後に続く。


 石段は思っていたより長かった。地上から差し込む光は十段ほどで弱まり、その先では手にした灯りだけが石壁を橙色に照らしている。下へ進むほど空気は冷たくなり、昨日入口で耳にした水音も一歩ごとにはっきりしていった。


 最後の段を降りたところで、アリスは目の前に広がる空間を見て足を止めた。地下室と呼ぶには広すぎる石造りの通路が左右へ伸び、その脇には人の背丈よりも幅のある水路が通っている。壁も床も丁寧に石が組まれ、灯りの届かない先まで同じ造りが続いていた。


 そして、水路には今も水が流れていた。暗い地下を絶えず流れる水面へ灯りが映り込み、揺れる光が天井や壁へ細かな模様を作っている。十年間誰にも手入れされていなかった場所に水の動きが残っている光景は、アリスが想像していた廃墟とはまるで違っていた。


「すごい……本当に流れてる! これ、昨日見つけた建物の下なんですよね?」

「そうですよ! しかも水路そのものはまだ形を保ってます。どこから入って、どこへ流れているのか分かれば――」


 シェリルとノエルが続けて声を上げたところで、ミレイユが二人へ視線を向けた。興奮する気持ちは理解しているようだったが、水へ近づこうとしたシェリルだけは見逃さなかった。


「触らないでください。見た目が澄んでいても、安全な水とは限りません」

「少しくらいなら大丈夫じゃないですか?」

「はい、却下です。十年間どうなっていたのか分からない地下水ですよ。あなたが最初の検査材料になる必要はありません」

「飲むとは言ってませんよ!」


 シェリルが慌てて手を引っ込めると、後ろにいたボリスが小さく笑った。彼も料理に使える水なのか気になると言い出したため、ミレイユは同じ注意を繰り返し、アリスは二人から少し離れたところを歩くことにした。


 通路の壁には一定の間隔で金属製の設備が取り付けられていた。大半は赤茶色に錆びているものの、中には大きな円形の取っ手が残っているものもあり、そこから太い管らしきものが石壁の中へ伸びている。帝国時代の設備だということは分かっても、アリスには用途までは判断できなかった。


「アリスさん、この大きな輪みたいなもの、見覚えはありませんか?」

「いいえ。水路を管理する仕事に関わったことはありませんから、私にも分かりません。何かを開閉するためのものには見えますけれど、動かさない方がいいでしょうね」

「もちろんです。これを回した途端、水が全部止まったりしたら笑えませんから」


 ノエルは装置へ触れず、形や壁からの距離を手帳へ書き留めていった。アリスはその横を歩きながら、帝国に暮らしていたというだけで、自分が帝国の技術すべてを知っているわけではないことを改めて感じていた。


 少し先へ進むと、水路が二方向へ分かれていた。一方には今も水が流れているが、もう一方には崩れた石と土砂が積もり、植物の根まで入り込んでいる。天井にも亀裂が走っていたため、ガレスはその先への立ち入りを止めた。


 周囲を見渡せば、昨日から動き続けているように見える施設にも、十年という時間がはっきり刻まれていた。壁の一部は崩れ、金属製の設備には錆が広がり、水路の縁が欠けている場所もある。現在も水が流れていることと、施設全体が使えることは同じではなかった。


「ここまで残ってるなら、直せるんじゃないですか?」

「直せるかもしれないし、触ったせいで余計に壊れるかもしれん。俺たちは水路職人じゃない」

「でも、十年放っておかれてこれだけ残ってるんですよ! ちゃんと調べる価値はありますよね?」


 ノエルが食い下がると、ガレスも調査そのものを否定はしなかった。専門家を連れてくる必要があること、水の出所と行き先を確かめること、崩落箇所を調べることを順番に挙げると、ノエルは早速それらまで手帳へ書き込んでいった。


 さらに奥へ進んだところで、壁にいくつもの石板が並んでいる場所が見つかった。そこには比較的はっきり帝国文字が残っており、アリスはノエルに灯りを向けてもらいながら、一枚ずつ読み進めていく。


「こちらは『第一貯水槽』。その隣が『第二沈殿槽』……こっちは――」


 途中まで読んだところで、アリス自身が文字を見直した。見間違えたのかと思ったが、何度確認しても同じ名前が刻まれている。


「『エルデン東部』とあります。その隣には『エルデン中央部』ですね」

「エルデン!? ちょっと待ってください、それならこの水路、町まで続いていたんじゃないですか?」


 ノエルがすぐ地図を取り出し、石床の上へ広げた。施設の位置と現在のエルデンを指で結び、水路の向きと壁に刻まれた表示を何度も見比べる。シェリルとルーカスも地図を覗き込み、先ほどまで以上に表情を変えていた。


「これ、すごいものを見つけたんじゃないですか? 町まで水を運べるなら、宝物より役に立ちますよ!」

「待ってください。ここから直接エルデンへ繋がっているとは限りません。途中に別の施設があるかもしれないし、水路が残っている保証もないです。でも……これは調べたいですね!」


 ノエルは自分で言いながら興奮を抑えきれなくなったらしく、地図と石板を交互に見ていた。アリスにも、ここから町へ水が送られていたという記憶はない。子供だった頃に利用していた水がどこを通っていたのかなど、考えたことすらなかった。


 通路の先には、壁の大部分を占める大きな石板が残されていた。細い線が複雑に刻まれ、その途中に文字や数字が配置されている。ノエルが二つの灯りを使って全体を照らすと、線の一部が現在いる管理所へ集まっていることが見えてきた。


「これ、水路図ですよ! ほら、ここが西部第三水路管理所で……こっちに第六取水口があります!」

「本当ですね。第一貯水槽もあります。こちらの線はエルデン東部へ続いているように見えます」


 アリスが文字を読み上げるたび、ノエルは自分の手帳へ名称を書き込んでいった。帝国全土を記したものではなく、この管理所が担当していた周辺だけの図らしいが、それでも複数の取水口と貯水施設、管理路が細かな線で結ばれている。


 その中には、アリスにも聞き覚えのない施設がいくつもあった。帝国に生まれ育った彼女でさえ知らないものが、自分の故郷の地下や周辺に存在していたらしい。ノエルは線の一本一本を追いたがっていたものの、今日だけですべてを調べるのは無理だとガレスに止められ、大まかな配置だけを写すことになった。


「これを全部調べたら、ほかにも入口が見つかるかもしれませんね! 第六取水口も探せますよ」

「順番にやれ。まずここから無事に帰る。その次に必要な人間を集める」

「分かってますって。でも、これはさすがに興奮しますよ。昨日までただの廃屋だったんですよ?」


 ノエルの言葉にはシェリルも大きく頷いていた。彼女が昨日求めていたのは持ち帰って売れる本や道具だったはずなのに、今は壁一面の水路図を食い入るように見つめている。


 その一方で、ミレイユは水質を調べる必要があると念を押し、ガレスは水路や天井の状態を専門家に確認させるべきだと話した。設備を修理するなら石工や水路に詳しい職人も必要になり、町まで繋がっているとしても、実際に利用するには多くの人が関わることになる。


「そういえば……これ、誰のものになるんですか?」


 水路図を眺めていたシェリルが、不意にそんなことを口にした。全員の視線が集まると、彼女は壁や足元の水路を順番に指さした。


「私とルーカスが最初に建物を見つけたでしょう? 剣とか本なら見つけた人が持ち帰ることもありますよね。でも、この水路は持って帰れないじゃないですか。まさか私たちの水路ですって言うわけにもいかないし」

「言われても困るな」

「ですよね。こんな大きいもの、もらっても管理できませんよ!」


 ガレスの返答に、シェリルは自分から笑ったものの、問いそのものは簡単ではなかった。帝国が存在していた頃なら、水路管理所は国が管理する公共施設だったはずである。その国がなくなった今、誰が権利を持つのかと聞かれても、アリスには答えられなかった。


「帝国時代なら国の施設です。でも今については、私にも分かりません。見つけた人のものと言い切れるとも思いませんし、エルデンへ繋がっているなら町の人たちにも関係するでしょう」

「遺産を見つければ大金持ち、っていう話より面倒なんですね」

「最初からそんなに簡単な話じゃなかったと思うぞ」


 ルーカスに言われ、シェリルは口を尖らせながらも否定しなかった。自分たちが発見したことをどう扱うのか、誰に知らせるのかについても、地上へ戻ってから改めて考える必要がありそうだった。


 ノエルが水路図の大まかな形を写し終え、一行は地上へ戻る準備を始めた。アリスも石板から離れようとしたところで、右下に小さな文字が二行刻まれていることに気づいた。水路を示す線よりも細く、灯りの角度によっては石の傷にしか見えない。


「ノエルさん、少し灯りをこちらへ向けてもらえますか。まだ文字があります」

「本当ですか? どこです?」


 ノエルがすぐ横へ来て灯りを近づけると、薄れていた文字が浮かび上がった。アリスは欠けた部分を避けながら一行目を読み、その下に残された文章へ視線を移した。


「一行目は『中央水路管理局参照』です。それから……『詳細規格――帝国技術総覧、水利部門参照』」

「帝国技術総覧!?」


 ノエルが思わず大きな声を出し、その声が地下通路の奥まで反響した。自分でも声量に驚いたらしく口を閉じたものの、すぐに石板へ顔を近づける。


「本当にそう書いてあるんですか? あの、まだ見つかっていない『帝国技術総覧』ですよね?」

「同じ名前なら、そうだと思います。少なくとも、ここにははっきり『帝国技術総覧』と刻まれています」


 市場で話を聞いたときには、存在したらしいという記録が各地に残っているだけだった。その名前が今、実際に使われていた水路管理所の壁へ参照先として刻まれている。シェリルとルーカスまで戻ってきて、アリスの読んだ文字を見つめていた。


「すごいじゃないですか! じゃあ、この近くにその本があるんですか?」

「そこまでは書いてありません。『参照』とあるだけですから、この管理所に置かれていたとも限りませんよ」

「中央水路管理局っていうのも気になりますね。そこで管理していた資料なのか、それとも別の場所から取り寄せるものだったのか……ああ、知りたいことが増えました!」


 ノエルは勢いよく手帳へ文字を書き写したが、ガレスから想像まで記録に混ぜるなと言われ、見たままの文章だけを書き直した。技術総覧の所在を示すものではない以上、今日見つかったのは、その本が実際の水利施設で参照されていたという新しい手掛かりにすぎない。


 アリスは帰る前に、もう一度だけ大きな水路図を見上げた。未発見の帝国技術総覧という名前には確かに興味を引かれるが、それ以上に気になる文字がすぐ近くにある。「エルデン東部」「エルデン中央部」と刻まれた二つの行は、遠い昔の技術を現在の町へ直接結びつけていた。


 地下を流れる水は、一行が驚いている間にも変わらず石造りの水路を進んでいる。どこから来て、どこへ向かい、今でもエルデンへ辿り着けるのかは分からない。それを確かめるには、今日よりずっと多くの人の手が必要になるだろう。


 昨日、シェリルたちが持ち込んだものは、釘や油の数を書いただけの古い記録だった。それを辿った先で地下への階段が見つかり、今度は水路図と帝国技術総覧の名まで現れた。


 アリスは灯りを手に、地上へ続く石段へ向かった。背後からは水の流れる音が絶えず聞こえ、暗い通路のさらに先へ続いている。


 十年間忘れられていた水路は、まだ終わってはいなかった。

今回見つかった水路図は、帝国全土のものではなく、「西部第三水路管理所」が担当していた周辺地域の水路図です。


施設には今も水が流れていますが、崩落した場所や壊れた設備もあります。そのため、エルデンで再利用できるかどうかは、これから調べていくことになります。


そして『帝国技術総覧』は、現在まで実物が見つかっていない帝国の遺産です。今回発見したものもその内の一

つです。 (詳しくは【12. 知識の価値】を参照)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。