窓辺の花
近江さんの話に乗ると言った俺に、「詳細が分かったらまた」と支配人は言い、それきり続報がないまま冬休みが終わった。
両親に受けたことを伝えると、「聡太郎の挑戦を心から応援するよ」と、親らしいコメントをくれた後、向こうからその話題を振ってくることはなく、だから兄ちゃんはまだこの話を知らない。
変わり映えのない高二の三学期が、変わりない速度で通り過ぎていく。特別なことは何一つ起こらず二月が来て、兄と友人たちが家でせっせとチョコレート菓子を作りはじめた。
バレンタインなんてお菓子会社の陰謀だ、なんて荒木はくさしていたけど、屈託なく楽しんでいる兄らを見ていると、それが人生を楽しむ秘訣なんだろうと思うし、相変わらず眩しい。そして十四日が来ると、兄と兄の友人らから大量のチョコレートが与えられた。店の常連さんや、近所のおばちゃんからも。いつもはここまでだが、翌日のバイトで高橋さんから袋にひとまとめになったチョコを貰った。人生で最多チョコだったけど、俺にとっては一喜も一憂もない。むしろお返しのことを考えると、憂いはあると言うべきか。
学校へ行って、バイトへ行って、帰宅して寝る。その繰り返し。不思議と支配人と顔を合わせることはなく、いつも通り開いたままの支配人室に居るとわかっているのに、向こうから声を掛けると言われた手前、なんとなく近寄りがたくなっている。
兄ちゃんたちに混ざってチョコでも作ったらよかった。義理チョコでーすとか言って、みんなに配ればよかった。そしたらホワイトデーのことも考えずに済んだのに。
そんなことを思った帰り道、近所の家の窓辺でジャコバサボテンの花を見つけた。
それは出窓にあって、カーテンの向こうの家族団らんの空間には加えてもらえないようだけど、それでも綺麗に咲いている。
あれはお年寄りの家にある植物というイメージがあったけど、支配人の家にもあった。あの時はまだ蕾だったけど、今は咲いているのかな。
聞いてみようかな、思ってから小さくため息が出た。些細なきっかけに頼っているようで恥ずかしくなったからだ。
短い二月が終わりに近付いていた。暦通り花も咲いて、空気の匂いも変わってきている。なのに一向にコンペの話は始まらない。俺はふいに、何もかも夢だったんじゃないかと思い至って、また小さなため息が零れた。
「なあ、放課後に駅前の本屋に行かない? 改装が終わったらしいからさ」
口の端にケチャップを付けた荒木が言って、すぐに透馬が嬉しそうな顔になる。
「行きたいと思ってた! 文具フロアの改装楽しみにしてたんだー。ボールペンの替えインクも買いたいし、四階のポップアップストアにハチワレパンダのグッズが――」
早口で情報量の多い透馬の話を聞きながら、荒木にティッシュを渡して口を拭くようマイムする。
『あ・り・が・と』
透馬の話を遮らないよう、口パクでお礼を言う荒木に頷いて、自分の持ち物でなにか不足しているものがあっただろうかと考えるも、特に思いつかない。
正直に言うと近年文房具の類を買ったためしがない。新しもの好きでこだわりの強い兄の友人らが、好みにそぐわなかったものを置いていくからだ。本や雑誌、謎のおもちゃや服なんかも巡ってくる。かつてはアダルトなDVDなんてのも流れて来たけど、それをヒントに作った作品までセットで渡されて、あまりのインパクトに別の感動を抱いたのは懐かしい思い出だ。
「で、聡太郎は?」
「え?」
「一緒に、行ける?」
二人の視線とかち合って、俺はしばし時を止めた。
二人に「距離を取りたい」と言ってから、幸い盗撮の報告はない。新たな写真が上がっていないのか、健介の元カノとヒナが報告をくれないだけかは分からない。
人間っていうのは不思議なもので、あんなに次々と色んなことが起こって、しかもいいことだったわけでもないのに、こうして唐突に凪いだ状態が訪れると、なぜだか物足りなく感じてしまう。おまけに支配人に放置までされているから、俺は少し焦れていた。
「行く」
「いいね!!」
「行こ行こ!」
二人があまりにも嬉しそうにするから、俺はますます前向きになった。
盗撮なんて、そもそも知らなければ憂慮することもなかったんだし、相手は一応俺以外のプライバシーは守ってくれている。おまけに元はアイキのファンたちだ。
急に全てを馬鹿らしく思った俺は、気付けば「行きたい喫茶店があるんだよね!」と、二人をトオルくんに教わった店に誘っていた。
放課後、一時間半ほど改装された書店内をうろうろしてから喫茶店にたどり着いた。
「あー物欲を抑えられなかったー」
ぱったりとソファーに身体を預ける透馬の横で、荒木が板チョコのチャームの付いたペンの先に鼻に寄せている。バレンタイン向けの商品だったのか、チョコレートの匂いがするらしい。
「そんなにいい匂いする?」
「うん。妹にあげようと思ったけど、自分のにしようかなー、授業中に腹減ったら嗅ぎたい」
「余計にお腹が空くんじゃない? あと見た目普通に変な人だよ」
透馬の忌憚のない意見が刺さったらしい荒木は、熱が冷めたようにペンを袋に戻した。
「で聡太郎、あれからどうなったんだよ盗撮は」
ちょうど届いたプリンアラモードのてっぺんから、真っ先にサクランボを摘み取って荒木が言う。盗撮と言われたのに、俺の頭に浮かんだのは支配人の顔だった。
「なにもないよ、だからこうして二人と出歩いてる」
ひと月放置されている理由をあれこれと探しているうち、俺はもしかしたら支配人は怒っているのかもしれないと思うようになっていた。
やりたくないことに巻き込んだのは明らかで、もしも支配人になにがしかの未練があるとして、それを近江さんの計画に乗って再開させるのは今思えば酷い話だ。そんな後悔の一方で、支配人が俺にやらせたい様子だったことも気に掛かる。まさか俺がニセカさんみたいになるわけないのに。
「取り合えず落ち着いたってことなのかぁ?」
「……あ、うん。もとはアイキのファンだしね」
「なんでもいいよ。日常が戻ったなら」
返事が遅れた俺に、フォークを寄こした透馬が笑顔をくれた。俺は、上げようとした口角がうまく動かなかった。
あの日、俺は支配人の家で、凡人の自分を捨てて冒険に飛び出したつもりだった。近江さんの話に乗っかってでも、支配人をくたびれた毎日から救い出したい、そんな烏滸がましい思惑もあった。もしかしたらそれがバレていたのかも知れないな、あの人は考えを読むし。
だとしたら、単純に嫌われたのかも。
また一つネガティブな答えを見つけて、胸がキリキリとねじれていく。日に焼けた壁一面のニセカのポスターがフラッシュバックして、フォークを持つ手に力が入らない。
俺は支配人が映した唯一の相手がニセカってことに納得がいかなかったけど、むしろあの人がそれを望んでたとしたらどうだろう。大切な思い出として取って置きたいんだとしたら。俺がしたことは、最低だ。
「ね、モンブランひと口頂戴」
見ると荒木のフォークが俺のモンブランの頂で待機している。俺は鬱々とした思考の奥に思いやりを見つけ、なんとか頷いた。
「では君にメロンをやろう」
「でた、ウリ科嫌い。写真にメロン付いてんのにどうすんのかなーって思ってた」
「だってプリンアラモード食いたかったんだよ! 透馬はこのメロンの接触部分食べていいぞ」
「腹立つー! でも食う」
「食うのかよ! ありがとう!」
友人の平和なやり取りに、陰っていた気持ちに温もりが差し込む。二人に話を聞いてもらいたい。でもきっとまたどこまで話すかで迷うだろう。ニセカのことは言わない方がいいだろうし。
「そーたろー、スマホ光ってるぞ」
「え?」
荒木に言われてテーブルに置いたスマホを見ると、支配人からの着信だった。
「柿崎さんって誰?」
思わず腰を浮かせた俺に透馬が訊ねたが、俺はそれを無視して、
「ちょっと電話してくるっ」
そう言って、上着も忘れて店の外に飛び出した。
「もしもし!」
心臓がうるさい。こういう理性では管理できない身体の反応が一番煩わしい。性欲とか。
「今大丈夫?」
支配人の声を聞いて、なぜか喉が鳴る。俺は慌てて喉を抑えて「はい!」と大仰に頷いた。
「森口くん、今週の木曜日のシフト、朝から入ってるよね?」
「はい、学校が休みなので」
「その日さ、もっと早い時間から予定取れる?」
「え?」
「出来たら日の出前。五時とかー、いや、四時かな」
四時と聞いて目を見張ったが、すぐにパッと覚めた気持ちになった。
「それって、コンペの関係ですか?」
「そうだよ」
あっさりと肯定されて、力の抜けた身体を喫茶店の壁に寄り掛けた。タイル張りの外壁は冷たかったが、身体を支えてくれてありがたい。
「ずっとなにもないから、中止になったのかと思ってました」
「待たせてごめんね。中止にもなってないし、夢でもないよ」
また心を読むようなことを言われて、今さっき起こったネガティブな感情が大波に呑まれたように全て攫われていく。
「じゃあ四時に家に迎えに行く。まだ冷えるから、あったかい格好でね」
簡単に上がっていく体温に、俺はまた一つ、恋というものの仕組みを学んだ。
「わかりました」
通話を切って、スマホを胸に空を見上げた。
「なにをするのか聞くの忘れたー……」
当然を忘れるほど頭の中は大騒ぎだった。本当に支配人が俺を撮ってくれるんだとか、なんだかデートの約束みたいだったなとか。何時に起きようとか。なにを着ようとか。ほぼ百パーセント浮かれた感情が埋め尽くしている。
「ああ駄目だ……」
支配人には悪いけど、俺の動機は完全に不純だ。一生懸命にはやるから許して欲しい。なにをするのかは全くわからないけど。
なかなか緩んだ顔が元に戻らなかった。通り過ぎる人たちの笑顔が目に付いて、世界に争いごとなど一つも存在しないような錯覚を必死に否定しながら理性を留める。いよいよそれも危うくなって下唇を齧ったところで、
「そーちゃん」
覚えのある声に呼ばれて、そっちへと顔を向ける。
「……朔くん」
そこには朔くんが右手を上げて立っていた。何時ぶりだろう。今年に入って会ったっけ、思い出せない。つまりそれくらい久しぶりだ。髪型も変わって、ちょっと痩せたようにも見える。
「久しぶり……!」
「なにが久しぶりーだよ、ニヤニヤしちゃって」
朔くんの目が、俺の足先から頭のてっぺんまでを探るように見つめてきて、上がりかけた口角を慌てて唇を齧って阻止する。
「ニヤニヤなんてしてた?」
「してたしてた。コントみたいだった」
「朔くんはなんかー……色々変わってるね!」
変わらず優しい朔くんは、俺の下手くそな話題変えをくすっと笑っただけで受け止めて、自分の短髪頭をくしゃくしゃにした。
「切って黒に戻しただけだよ」
「凄く似合ってる」
「ありがとう」
「まだ忙しいの?」
「まーね、バレンタインパーティーには行くつもりだったんだけどさ」
ポンと頭に手を置かれ、流れるようにぷにっと頬を摘ままれて、去年なら嬉しく思っていたんだろうけど、今はそんな気は起こらない。
トオルくんとはどうなってるんだろう。例の彼女は? 話を聞いた時はあんなに驚いたのに、その後の出来事でうやむやになっていた。まあ俺なんかがか首を突っ込んでいい話じゃないのは確かだ。トオルくんにもあんまり会えてないし。
「この喫茶店、トオルから?」
頭にあった名前が朔くんの口から出てきて、心臓が飛び出そうになった。
「えっ、あっ、そう!! 友達と来てて!!
「気に入った?」
「うん!! 朔くんもここに!?」
「そ。ちょっと一息つきたくてさ、ここ落ち着くから」
「わかるわかる!! あ、入ろ!?」
我ながら挙動不審な言動に顔が引きつりそうになりながら、喫茶店のドアに手を掛けた。すると、
「いいの?」
「え?」
つんつんと胸のスマホをつつかれ、再び探偵みたいな眼差しを送られる。
「あ、うん。もう要件は終わったから!」
「そっか!」
変わらず朔くんは朗らかで、あからさまにもじもじとする俺にそれ以上を聞かない。俺の代わりに喫茶店のドアを開けてくれ、背中を押して先に入れてくれる。
「背中冷たいよ、寒かったんじゃない?」
優しく訊ねられて、朔くんに恋人が二人いようが三人いようがどうでもいい気になってくる。もしかすると、トオルくんもこんな気持ちなのかもな。わかんないけど。
荒木と透馬に愛想よく自己紹介をした朔くんは、俺たちの視界に入らない、一番遠くのボックス席に消えていった。




