平凡なねずみの決意
気の良さそうな中年のおじさんが届けてくれたのは、洋食でもなんでもなくて、二人前の親子丼だった。近所の行きつけのお蕎麦屋さんらしい。
おじさんは俺を見て、「ついに彼女でも連れ込んだと思ったのに」と、支配人を肘で突く真似をした。
「できたら店に連れて行くよ」
「いつになるんだか」
初めてでもなさそうな二人のやり取りを聞いて、俺はつい、このおじさんに俺の支配人への想いを教えたら、どんな反応をするだろうと想像を巡らせた。でもすぐに、ニセカが学生時代の恋人だったってことの方がずっと驚くだろうと分かって、つまらない気持ちになった。
「盗撮のことを近江さんに話したらさ」
ベランダの前の丸テーブルに着き、どんぶりの蓋を開けるや否や盗撮のことを思い出させられても、なんの感情も起こらなかった。さっきの勝手な妄想で、すっかり平凡なねずみの気持ちを取り戻していたからだ。
俺の数枚の隠し撮りなんてどうでもいいと思えるほど、支配人の過去が、そして現在が気になる。
「君を主演に、会社のプロモーションビデオを撮りたいって」
卵を纏った白米が喉を滑り落ちていく。作り方によっては、親子丼も飲み物の部類に入りそうだ。いやそうじゃなくて、
「プロモーションビデオ?」
「広報部主催の社内コンペがあるんだよ、劇場に足を運んでもらうための広報戦略とかなんとか」
「はあ……いや、どうしてそれに俺が?」
「君がコンセプトに合致するから。ほら、アイキの映画の件で」
大きな口に親子丼を詰め込んだ支配人が、もぐもぐとやりながら窓のそばにあった紙袋に手を伸ばし、中から薄い冊子を一部取り出す。テーブルに置かれたのは、例の支配人とアイキが載った広報誌。
「君は渋ってた映画の売り上げを伸ばして、うちの知名度を上げ、アイキを広報誌に載せた。この話は本社でも有名らしいよ」
「ええっ!?」
「君の存在は全国のアイキファンに認知されてる。そこも近江さんは加味してるみたいだ」
思わぬ話に目が丸くなって、力の抜けた箸から米と親子が滑って落ちた。
「そ、それって、アイキのファンを俺の知名度とみなしてるってことですか?」
「そういうこと」
「そんなの駄目ですよ!」
「どうして? 言い出したのはファンたちだし、君は有名税として迷惑まで被ってる。もちろんアイキの真心だなんて大々的には謳わない。こういうのは勝手に広まるものだからね。盗撮犯によって特定された真心が、ローカルからグローバルへ。まあコンペに通ればの話だけど」
とぼけた顔で明後日の方を見る支配人に、俺は顔のパーツがガタガタとずれていくのを感じた。
「この話を受けるなら、近江さんが芸能事務所を紹介してくれるらしい。君は研究生として所属して、そしたら肖像権もそこが守ってくれる」
ちょっと待ってよ。なにを言ってるんだこの人。
あまりにも話が突飛だし、情報が多すぎる。なんで盗撮を止めたいって話が芸能事務所にたどり着くんだよ。研究生ってなに!?
処理が追い付かず身動きができない俺をよそに、支配人は親子丼を大口で食らい、いつも通りの味なのか満足そうに頷いている。
「驚いた?」
くすっと笑われて、俺の目はすぼんで三角になった。
「そりゃそうですよ。俺は盗撮を止めたいだけのに……そんな」
さっきの話のどれを論えばいいのかわからず、言葉を詰まらせた俺を支配人がまた笑う。
「近江さんはさ、いわゆる直感型のギャンブラーなんだ」
またおかしな言葉が飛び出して、俺の目はいよいよ四角になった。
「ぎゃんぶらー?」
「湧き上がるアドレナリンに従って、思いついたことを何でもやる。あの人はそうやって成功してきた人なんだ。上も慣れて、今じゃかなり自由にやらせてる。今回のコンペだって、本来は選ぶ側のはずなんだ。それでもやってみたいと思ったら躊躇わない。そういう人なんだよ」
なんだそれ。ちょっとかっこよく聞こえて腹が立つ。
確かにアイキを連れて来た時はただの得体の知れないおっさんだった。でも手段を選ばず手に入れたのがニセカと分かった今は、それくらい出来て当然な気がする。
「今の時代、一度目立ってしまったら、なかったことにするのは難しいらしい。それなら利用する方がいいだろうって近江さんは言ってたよ」
「真面目な話とは思えないんですけど」
「まあとりあえず、ご飯を食べなよ」
冷めてしまうからと手のひらを向けられて、俺は混乱を一つも落ち着けられないまま、渋々箸を握り直した。
懸命に口を動かしても、さっきの話が引っ掛かって中々食事が喉を通らない。ところが脳の全く別のところでは、親子丼を咀嚼する支配人の口元や、箸を持つ手にエロティシズムを覚える。俺の脳はストレス緩和が上手いみたいだ。
汁気を足そうと持ち上げた味噌汁椀が空っぽなのを見つけてテーブルに戻すと、それを見ていた支配人がおもむろに立ち上がり、キッチンのアイアンラックからグラスを二つ取ってウォーターサーバーのスイッチを押した。
「調べたけど、アイドルファンのコミュニティは山のようにあったよ。オープンなのもあれば、パスワードが必要なのもあった。君の写真が載せられてるのはどこかわかってる?」
「いいえ。例のヒナって子と、友達の別れた彼女が参加してるってのは分かってるんですけど」
あと、美大にもいたってアイナさんが言ってたっけ。
「二人に頼んで削除要請をしてもらうことは出来そう? もしくは管理元を教えてもらうとか」
「どうだろ」
健介の元カノは厳しいだろう。ヒナだって、そんなことを頼める間柄ではない。でも管理元なら? 連絡先を交換したんだし、ダメ元で頼んでみようか。
支配人から水の入ったグラスを受け取り、グラスの縁に唇を付ける。すると、ひんやりとした水が上唇を覆って、さっき自室で透馬たちに言ったことを思い出した。
変にファンを刺激して、また支配人や映画館が悪く言われるのは避けたい。だから身を潜めて収まるのを待つ。そう三人に言った。そうだった、だからやっぱりこんな話には乗れない。
「断ってもいいんだ」
変わらず静かな室内で、俺を見下ろす目が優しく細まる。
「君が嫌がりそうな話だってのはわかってた」
「そうなんですか?」
「まあ」
「じゃあ、どうして?」
「君の、凡人って言葉が気になってさ」
支配人の手が、空になったどんぶりに味噌汁椀と漬物の小皿を重ねていく。
「君は言うだろ? 自分のことを凡人って」
「はい」
「俺、あれを聞く度、鬱陶しいなーって思ってたんだよ」
「えっ!?」
ぎょっとなった俺をそのままにして、再び立ち上がった支配人は、食器を持ってシンクへと向かった。食器に水が溜まっていく音を聞きながら、俺は思わず胸に手を当てた。
驚いた。好きな人に鬱陶しいって言われると、心にこんなに大きな穴が空くものなのか。
「凡人なんて誰を基準に言ってんだ? って思ってさ。おまけに君は自分を凡人と口では卑下するくせに、振る舞いにネガティブさはない。誰に対しても臆さないし、それに始めから図々しかった」
「ず、図々しかったですか俺?」
「まあ、馴れ馴れしいって言った方がいいかな」
「どっちも悪口じゃないですか!!」
「あははっ」
振り返った支配人は笑ったが、俺の胸は抜き尽くしたクッキー生地みたいになって、呼吸が怪しい。
鬱陶しいうえに図々しい? しかもファッションネガティブみたいに言われた気がする。この人にそんな風に思われていたなんて。
堪らない気持ちで箸を握りしめていると、戻って来た支配人が元居た場所に腰を落ち着け、飲みかけのグラスに手を伸ばした。そしてそれを飲むでもなくゆらゆらと傾けながら、「君は分かってないようだけどさ」と話を続けた。
「な、なんですか」
これ以上何を言われるんだ。俺は怯える心を猫背で守り、奥歯を噛み締めた。
「君はコミュ力があって仕事の覚えもいいし、働く意欲もある。いい子が来たなって思ってたら、いきなりお客を集め始めた。しまいにはアイドルをうちに呼びつけて、今なんてそのファンに盗撮までされてる。たった三ヵ月の間に」
今度は褒め言葉を並べた支配人の指が、さっき持ち出された広報誌にトンと置かれる。
「これも始めは君の予定だった。この時から近江さんは君を表に出したかったんだ。つまり今回で二回目。近江さんの目を引く魅力が君にはあるらしい」
「魅力……」
「近江さんが目をつけたニセカはどうなった?」
ハッとした俺を見逃さないと言うように、支配人の口角が動く。
「近江さんは君を凡人だとは思ってない。だから勧めてる。凡人ってのは、俺みたいなのを言うんだよ」
「…………」
じりじりと追い詰められていた心が、支配人の言葉でその緊張を解いた。
俺に鬱陶しさを感じた支配人と同じ……かどうかわからないけど、自分を凡人と卑下した支配人に反抗的な気持ちが湧く。
こんな話、断ればいい。答えは簡単なのに、この家に来てどうしてか気が乗らなくなった。
恐らくそれは、近江さんが別れ際に放ったあのセリフのせいだ。
――君に好奇心はあるか?
好奇心のままに支配人の過去を掘り返したら、まんまと疑念が生まれた。
いつもそばにいる兄らのお陰で、大学時代の支配人の姿が易々とイメージ出来た。あんな風に壁一面を埋めるほどの映画のタイトルも、彼らを鑑みれば理解できる範疇にある。と同時に、未だにあれほどの情熱を持っているのにも関わらず、あっさりとそれを手放せたと言われたのが納得できない。
だって彼らはそういう人種じゃない。作りたい人間は、ずっと作りたいはずなんだ。自分を表現することを覚えた人間が、それをすっぱり辞めたのを、俺はまだ見たことがない。
「支配人は、どうして撮らないんですか?」
そっと話題を変えると、後ろ手に身体を支えて天井を見上げていた支配人の目線がこちらに来る。
「怒ってましたよね、近江さんに」そう言って動揺しないよう唇にたくあんを押し込み、右の奥歯で音を立てないよう噛み締める。
「近江さんがまた調子のいいことを言うからだよ。わざわざ染谷くんまで連れてきて」
「あの人はどうして?」
「染谷くんは、幾つも映像作品を作ってるプロだ。近江さんは俺のサポートに付けるなんて言ってたけど、実際は彼に撮らせるつもりなんだと思う。小賢しいことしないで、素直に君を説得してくれって言えばいいのに」
「撮らせるから、俺を説得しろって言われたんですか?」
音もなく頷かれて、そりゃ怒るよなと納得しかける。
「――でも染谷さんに撮らせるつもりなら、わざわざ連れてきたりしないんじゃないですか?」
「なに?」
「だって、代わりがいるって思ったから支配人は怒ったんですよね? 俺を説得させてから事実を言えばよかったのに。前みたいに」
「…………」
沈黙と表情の読めない支配人を前に、再び近江さんの言葉が蘇る。
あの人は、俺の好奇心をわざと刺激した。俺に自分の悪行を知られることも構わずに。その結果どうなることを狙ってたんだろう。俺にどう思わせたかった? 俺は、どう思った?
「俺だけが目当てじゃないのかもしれませんよ」
支配人の眉の間に皺が寄るのを見つけて、自然と頬が上がる。
「コンセプトに合う俺だけじゃ、コンペには勝てないです。アイキファンはあくまでもアイキファン。俺はただの一般人。注がれるのは監視の目です。推しの真心がやらかさないかっていう」
じっと動かない支配人に、俺は前がかりになった。
「俺のことをよく知らない染谷さんが撮るとなったら、そうとう苦労するはずです。ただでさえ俺はど素人で、近江さんには少し敵意もあります。でも俺に言うことを聞かせられる支配人なら、上手くいくかもしれない」
俺の言葉に支配人の片眉が高く持ち上がり、俺は頷いた。
「凡人だって言いながら、空白の括弧って言われて腹を立てる十七歳。おまけに図々しくて馴れ馴れしい」
そうでしょう? と笑って見せると、支配人の目に驚きが灯り、俺の頬がまた上がった。
「それに近江さんは支配人の撮った映画を何本も見てる。人を魅力的に映す才能はあるって言ったんですよね? 実際、一目惚れまでした」
考えを言葉にするたびに確証が得られた。近江さんが狙っていたのはきっとこの筋書きに違いないと。
「近江さんは、支配人に撮らせたいんですよ。一目惚れはニセカさんにしたけど、支配人のことも目はつけてた」
「なんでそんな風に思う?」
ついに声を発した支配人に、俺はぎゅっと下唇を噛んだ。
「だって、五年も経ってるのにどこからともなく現れて、自分の会社に就職させたんでしょ? めちゃくちゃ贔屓ですよそんなの」
「俺が近江さんに目を掛けられてたって?」
「絶対にそう。支配人にしては若すぎるって誰かも言ってましたもん。手元に置いて、ずっと機会を窺ってたんです。そしてようやくいい機会が訪れた」
間違いない。妻の元カレなんて、普通ならずっとずっと遠くへ飛ばす。俺なら海外に飛ばしちゃう。
「事実だとしても、あんまり嬉しくないけどね」
嬉しくないと言いながら、支配人の落ち着かない右手が左の頬をぽりぽりと掻いている。食事をしたせいか、顔が少し脂っぽい。ティッシュで押さえてあげたい、なんて余計なことを考えながら、自分も同じだと気が付いて、指先で鼻を拭った。
「支配人は凡人なんかじゃないです。みんなくたびれてるって言うけど、それは働きすぎなのを心配してるからだし。俺だって――」
うっかり『好きだし』と言いかけて、鼻をつまんでなんとか思いとどまった。
明らかな言いかけに、支配人の眉が歪む。
「俺は?」
「俺は――」
ああ。近江さんの目論みに気付いてテンションが上がっていたけど、この話には俺も不可欠だ。
やる気がない支配人と俺に、お互いを巻き込ませるよう仕組むなんて、あの人怖すぎる。
兄ちゃんや透馬たちは面白がるだろうな。なにをやらされるにしても、考えただけで顔から火が出そうだ。でも……。
「俺、支配人が撮るならやってもいいです」
深く息を吐いた支配人の手が自身の額を覆った。心の声が全身から溢れ出ている。
「君が俺を巻き込むなんてね」
「すみません。図々しいもんで」
「もう十年も撮ってない。格好がつかないよ」
「それは、サポート役の染谷さんがなんとかしてくれるんじゃないですかね。プロだから」
ゆっくりと額から撫で下りた手が口元を覆い、現れた目が俺を捉える。
困っているような、怒っているような、ちょっと面白がっているようにも見える。
「どうしてやる気になった?」
「んー、空白の括弧だから? 特に将来の展望も無いし、駄目なら表には出ないんだからダメージもない。お互いに」
「なるほど」
本当に本当のことを言えば、恐らくは嫉妬心。
支配人が撮ったのは、手酷く振られたニセカだけ。しかも二度と見ることも叶わず、なのに彼女は芸能界で輝き続けている。そんなのは、この人に片想いをするゲイとして、もの凄く遺憾だ。
コンペなんてどうでもいい。俺は是が非でもこの人の作品になって、あの棚にならんでやる。




