支配人の話 2
「大学時代に映画を撮ってたんだ」
そう言って俺にコーヒーの入ったマグカップをくれた支配人は、向かいの床に腰を下ろした。
――映画。
脳内で呟くと、いつも通りそれを読み取ったらしい支配人の頭が縦に揺れる。
「元々映像編集に興味があってさ、映研と演劇サークルが混ざったようなところに所属して、撮影に関する事を色々とやってた。再現性がいいってそれなりに重宝されてたんだけどね、なんとなく自分のが撮りたくなって。短いのばっかりだったけど」
――短い。ショートムービーってやつか。それって、例えばどんなのだろう。
「素人にありがちな退屈なやつだよ。抒情的って言えば聞こえはいいけど、ほとんどストーリーなんてなかった。当時付き合ってた彼女を主演にして」
「……」
支配人の過去が語られ始めたというのに、俺の思考力は大きく低下したままだった。
彼女というのが芸能人のニセカのことで、現在は近江さんの妻だということを、指先で手繰るように、なんとか理解する。
学生時代に彼氏の監督するショートムービーに出ていたなんて、役者が語るにはかなり出来のいい青春エピソードだ。けど、胸糞エンドを知った後じゃあポジティブだった彼女のイメージも、かなりぐらついてくる。
近江さんがどうやって支配人を騙したのか、ニセカがどうして支配人からあの近江さんに乗り換えたのか、俺の貧困な想像力では正解を導き出せそうにない。当人に語らせるのは大変申し訳ないけど、正直続きがとても気になる。
「あの、それで?」
好奇心に負けた俺が続きを欲すると、支配人はゆったりした動きで飴色のマグからカフェインを一口摂取した。
「何本か撮って、幾つかを門戸の広い映画祭に出した。当然なんにも引っ掛からなくて、代わりに近江さんが引っ掛かったんだ」
「おう、おう、近江さん?」
「ああ。賞には届かなかったけど、個人的にすごく気に入ったって言ってくれてさ、他にもあるなら是非見せて欲しいって。近江さんはその時すでにうちの会社に勤めてたから、なにかきっかけになるんじゃないかって、撮ったやつをぜーんぶ送ったんだ」
「そしたら?」
「返ってこなかった」
ははっと、ちょっとした失敗のように肩を上げる支配人に、俺の頭は疑問符でいっぱいになった。
展開が早すぎる。早すぎて説明になっていないとも言える。さっきアシカのように鳴いた俺は、今度はハシビロコウのような顔になって身動きもとれない。
「それで、諦めたんですか?」
「いや、もちろん会いに行ったよ。バカな事にマスターテープを渡してたからね」
「マスターテープ」
「データの完成品ってやつ。ちょうどその時期に彼女に振られてさ、データはスペックのいい彼女のパソコンにあって――」
「?」
言いさしで話が止まり、支配人の顔が上がった。
視線は俺の後方へ送られている。俺はつられて振り返りたい気持ちを堪えてじっとしていると、視線を俺に戻した支配人が、そんな俺を見てフッと笑った。
「始めはさ、彼女にはただ振られたんだって思ってた。これとそれとは別のことって思ってたんだ。だから、データを送った相手から連絡がないって彼女に言うのがちょっとカッコ悪くて、自分で取り返すしかないって、近江さんに会いに行った」
「そしたら?」
「そしたら、データを返す気はないって言われた」
「えっ!?」
「理由も言ってくれなくて、のらくら逃げようとするんだ。俺もいい加減腹が立って怒鳴りつけたよ」
「そしたら?」
「そしたら近江さん、もの凄くバツの悪そうな顔になってさ、『彼女に一目惚れした』って白状したんだ」
「ひとめぼれ……」
今の自分の顔面がどんな風になっているかは分からないけど、ビンタを食らったカンガルーに似ている気がする。
あの近江さんがバツの悪そうな顔になるのも想像できないし、一目惚れなんて台詞を吐くのも想像ができない。率直に言うとキモイ。でも続きは気になる。俺は素直にそれを目で訴え、支配人の頭がまた縦に揺れた。
「主演のニセカにバチッと打たれたんだって。それで俺に調子の良い事を言って、彼女が映った映像を持ってこさせたんだ。同時に彼女にも言い寄って、それが上手くいったんだろうな。そりゃ俺の連絡なんて無視するよ」
「えっと……」
待ってよ、それって、それってつまり――。
「つまり、初めからあの人の目当ては俺の作品じゃなくて、映ってたニセカだったってこと」
「く、クソじじい……!!」
思わず心の声を漏らすと、笑いを零した支配人が大きく頷く。
「俺も同じこと言ったよ。そしたら、『君には映画を撮る才能はないが、彼女の魅力を引き出す才能はあった。だからこうなったのは君のせいでもある』って言われて追い返された」
「……はぁ?」
唖然とする俺の眼前で、支配人の喉仏が「くっくっ」と上下に揺れている。どうやら本当に可笑しみを感じているようだ。笑い事じゃないと言いたかったけど、今俺が「くそじじいに復讐しろ!!」と叫んでも、支配人はただ笑うだろう。
結局この人は、撮った映画の全てと彼女を近江さんに取られてしまったのか。いや、これニセカも相当悪くない? 普通返すでしょ。映画がどんな風に作られるかは知らないけど、簡単じゃないはずだ。兄ちゃんの作った作品がそんな風に全部だまし取られたら、俺だって黙っていられない。
「難しい顔してる」
「だって……支配人は納得出来たんですか?」
「まあ、彼女は自分の世界を持ってる人だったから、いずれ捨てられるだろうって予感はあったし、ショックは薄かったよ。だからあの時の俺には、近江さんと連絡が取れなくなったってことの方がダメージがでかかった。そんなに期待外れだったのかってさ。本当は期待なんて一ミリもされてなかったんだけどね。それですっかり目が覚めたんだ。撮るのは楽しかったけど、才能はなかった。よくあることだろ? 人生の寄り道ってやつ。で、彼女にとっては俺がそうだった。それからあっと言う間に売れたから」
時刻は午後七時を過ぎて、ベランダの向こうに街の明かりがチラチラと揺れている。知らぬ間にぬくまっていた室温。コーヒーの香り。
飴色のマグカップに支配人の唇が添えられ、俺の口にも苦い風味が広がった。
自分のことでもないのに、自虐的な言葉が俺の胸をごりごりとえぐってくる。ここが何階かは覚えていないけど、黙ってしまうと怖いくらいの静けさがあって、自分の心がギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほどだ。
ニセカのポスターを見上げる支配人の眼差しが、時を戻ってあの頃を見つめている気がして、俺は堪らない気持ちになった。
「どうして、今も近江さんと?」
「成り行きだよ。大学を卒業して制作会社に就職して、五年で身体壊してフリーターしてたらさ、また近江さんが俺の前に現れた。で、罪滅ぼしなのかなんなのか、仕事を紹介してくれたんだ。始めは本社にいたんだけど、そこもあまりにハードで、また身体壊しそうだって言って今のところに移動させてもらった」
今の仕事だって十分大変そうなのに。社会人として働けるのか自信が無くなってくる。いやそんなことより。
近江さんなんて、どうせなんの悪びれもなく再登場したんだろう。彼女を奪っておきながら、彼女の映画やドラマが決まる度にポスターを寄こしてくるなんて、心はないのかあのくそジジイには。
この人はどういう気持ちであれを壁に貼ってるんだろう。本当になんの未練もないのかな。毎日誰かが作った映画を売って、時には映画の中で輝く元彼女を見て。
「もう撮る気はないんですか?」
訊ねた俺を驚いた色の目が見る。俺も驚いた。成り行きを聞いたばかりだって言うのに。でも、さっき支配人は怒っていた。近江さんに。『今更』って。
「俺を撮れって言われたんでしょ?」
ついに行きついた本題を俺が持ち出すと、それが合図だったかのように廊下で小さくエレベータのベルの音が鳴った。
「夕食が来たよ」
親が腰骨を折って書く時間が取れない。はよ直ってくれ~。でも無理はしないでくれ~。言うことを聞いてくれ~。




