支配人の話 1
支配人に言われた通り、家には『夕ご飯を食べて帰る』と連絡を入れた。あえて相手は言わなかった。まあ聞かれもしないんだけど。
いたずらに気分を盛り上げて乗り込んだ黒い車が自宅とは反対の方向へ走り出したとき、なにか新しい物語が始まったような気がした。
どんな所に連れていかれるんだろう。ファミレス? ファストフードかも。
支配人がものを食べてる姿はあまり見ない。コーヒーを飲むくらい? あ、前にうちの店でクレープシュゼットを食べてたっけ。俺と同じものが好きだって知って、ちょっと嬉しかったんだよな。
呑気にそんなことを考えてから、ちらと黒目をずらして、ハンドルを持つ手を盗み見る。
あの時は何も思わなかったけど、なかなか綺麗な所作だった。ナイフの銀色の背に掛かる、すっと伸びた人差し指。
食事には、エロティシズムがあるとなにかの本で読んだ。多分そうなんだろう。だって俺は今、もう一度あの手がフォークとナイフを握るのが見たい。
よし、もし何が食べたいか聞かれたら洋食と答えよう。
俺が本題を忘れてそんなことを決心していると、マンホールを踏んだらしい車が短く上下に揺れた。
「始めから分かってたんだ。あの人が森口くんに目を付けたのは」
黙ったままだった支配人が口を開き、俺の脳内に、『あの人』がはっきりと浮かび上がる。途端、無邪気な期待で膨らんだ風船が、しゅぶぶと音を立てて彼方へと飛んでいった。
「目を付けたって、どういう意味ですか」
「あ~、気に入ったなって」
「そんなこと、言ってくれなかったじゃないですか」
「言わないよ。怖いだろ」
「怖いですよ!」
「気に入っただけで、なにもないかもしれないし」
「あったじゃないですか。休日に呼び出されて、空白の括弧って言われたんですよ?」
正直、近江さんに言われた時は『確かに』と思ったけど、自分で言ってみると途端に腹が立ってくる。
「人のことを空っぽ人間みたいに言って、実際そうだから本当にムカつく」
唇を尖らせると、支配人から軽い笑いが飛んでくる。
「平凡で片付けるよりは希望がある気がするけどね」
「ええ?」
さっきは近江さんに対してあんなに戦闘態勢だったのに、どうしてもういつも通りなんだろう。今の言い方じゃ、近江さんの言うことに賛成しているみたいだ。
希望のある、空っぽ人間? なにそれ。
「近江さんの話、支配人はどう思ってるんですか?」
「君はまだ話を聞いてないだろ」
「そうだけど!」
「俺は森口くんじゃないから判断はできないよ」
返ってきた言葉に、俺の勢いはあっさりと萎えた。
そりゃそうだけど。なんだよ。さっきあんなに怒ってたくせに、結局俺がどうするかは俺に決めさせるんだ。
「はあ」
俺があからさまにため息を吐くと、支配人がこっちを窺うのが視界の端に映る。
「結局両親と同じことを言うんですね」
つい口に出してしまって、またため息が出る。
決めるのは俺だってわかってる。支配人は身内じゃない。けど、ちょっと堪える。
この人はもう少し俺の近くにいてくれてるって思っていた。俺のことも、一緒に考えてくれるのかなって。理由は分からないけど、あんな風に近江さんに言ってくれて嬉しかったのに。
「近江さん、いつうちの店に来たんだろ。俺の周りでいったい何人が暗躍してんだか」
気持ちを切り変えるために話題を変えると、「盗撮犯と、近江さんだけだよ」と支配人がポジティブな口ぶりで言うから、俺は鼻息を飛ばした。
「十分不穏です」
「かもな」
車外はすっかり日が暮れて、馴染みのない街並みが滑るように去っていく。カリッと音がして、支配人がガムを噛んだのが分かった。
前回とは違う甘い香りをそっと吸い込むと、もたれた窓に自分の顔が映り、俺は一時的に忘れていたもう一つの目を思い出した。
「今日、仲のいい友達に話したんです。盗撮のこと」
ウインカーが鳴って、車が右へと車線を移動する。
「なんて言ってた?」
「色々言ってましたけど、そういう訳だから、しばらく外で会うのはよすって言ったら怒ってました」
「うん」
「支配人は怒ってます?」
「俺が? なぜ」
「この車が写ってたし、書き込みもあったから」
目の前をバスの車体が通り過ぎ、車がまた元の車線に戻る。
「そんなのはどうでもいい」
「ほんとに?」
「ああ。書き込んだ本人だってもう忘れてるだろ」
「そうかな。そうかも。俺の写真もそうならいいのに」
「それよりも――」
支配人が言いかけて、間が空いた。運転席を振り返ると、酷く嫌な臭いを嗅ぎつけたみたいに鼻梁に皺が寄っている。それを見た俺の胸にも不快な皺が寄った。
「……それより?」
「いや、近江さんの話を聞いたら君は、目を丸くして、それから三角にして、それで四角にもするだろうなって思って」
「そんな変な話なんですか?」
「人によって捉え方は違うだろうけどね。ま、俺はよく考えずに失敗したから、アドバイスくらいはするよ」
減速した車が左折して、遠心力が身体に掛かる。
「その失敗談も教えてもらえるんですよね?」
「知りたいのか?」
「参考までに」
「もう十年も前の話だぞ?」
今度はハンドルが右に切られ、再びの遠心力が俺の脳を揺すった。
十年。
正直に言うと、さっき話を聞いた時、近江さんが支配人を騙したってことより、この二人の関係がそんな昔から始まっていたんだってことにショックを受けた。俺と支配人の関係はたかだか三ヵ月程度。人が騙されたって言うのに、そんなところにフォーカスしてしまう自分に呆れる。呆れるけど、詳細が凄く気になる。
シートベルトに頬を預けて好奇心と戦っていると、減速した車が古びた雑居ビルの駐車場に吸い込まれた。車は白い矢印のある壁面のすぐ脇に収まり、なにを言うでもなく車から降りる支配人に倣って自分も下車する。
ドアを閉める音が薄暗い空間に響いて、車のロックが無神経な鋭さで鳴り、周囲を威嚇するように赤いライトが光って消えた。
不安な色味の蛍光灯。あまり綺麗とは言えないビルだ。築年数もかなり古そう。
大きな通りではないけど、飲食店の明かりは幾つかある。このビルにはなにがあるんだろうと鼻をヒクつかせながら、支配人を追って狭い階段を一階分登り、ドコドコと妙な音を立てて扉を開くエレベーターに乗り込むと、支配人の指が最上階のボタンを押すのを見届けた。
チン
佇まいにそぐわない涼やかなベルが鳴って、再びドコドコと妙な音を立ててエレベーターの扉が開く。そこには突如、桃源郷が! 現れるわけはもちろんなくて、薄暗い廊下と四つのドアがあるきりだ。
ひとつは突き当りにあって、非常口のマークが掲げられている。そして右手にふたつ、左手すぐにひとつ、すりガラスと丸ノブの付いたドアがある。
飲食店らしい看板も暖簾もなく、なんなら明かりもついていない。当然いい匂いがしてくるわけもなく、いったいどこに連れて来られたんだろうと脳内で狼狽えていると、キーケースから鍵を取り出した支配人が、それを左のドアの鍵穴にずぷっと挿し込んだ。
「え」
声を上げた俺を支配人が振り返る。とぼけた顔をしているが、その顔をしたいのは俺だ。
「あの、ここって?」
「俺の家だけど」
「はえっ!?」
びょっと跳び上がった俺を見て、支配人はくたびれた表情筋を失笑に任せた。
「外だと君は盗撮されるかもしれないから」
なるほど、それはそうだ。そうだけど、まさか自宅に招かれるとは。
俺はテンションをどうするか迷って、一先ず息を止めてニュートラルを保つことにした。ところがそうしてみると、大変失礼な感想が零れそうになった。
『こんなしみったれた雑居ビルに住んでいるからくたびれているんじゃないの?』
さすがに脳内で思うに留めたものの、実際そうに違いないだろうという俺もいる。
古い、暗い、辛気臭い、うすら寒い。自宅にたどり着いた時に感じられる『安堵感』ってやつが、この建物から得られる気がしない。
俺は背中に妖怪でも乗っかったような心地でドアが開くの待った。
パチッと音がして、三つ足のフロアランプにオレンジ色の光が灯る。恐る恐る足を踏み入れた俺を出迎えたのは、二つのアンティークなワードローブだった。
家具職人の孫という育ちのお陰で、草花の彫り込まれたそれらが海外製の年代物だと分かる。角に欠けがあるものの、状態は良く、サイズも大きい。
背の高いそれを見上げると、天井がさらに高いことに気が付いた。広めのワンルームだろうか、家具の背面には壁が無く、これで空間を区切っているらしい。
「靴はここで脱いで。スリッパはないよ」
「はい」
どうやら足元に敷かれた広めのマットが土間代わりになっているようだ。背後でドアが閉まり、おまけみたいな鍵を一応回しておく。
先に革靴を脱いだ支配人は、それを小さな木の丸椅子に載せ、くたびれたタオルでさっと撫で拭き、履き口に乾燥剤を入れた。鞄が下ろし、右のワードローブの扉を開くと、着ていた上着を木製のハンガーに掛けて中へ。迷いのない動きから、これが日々のルーティーンだと分かる。
「ん」
「あ、はい」
俺は慌ててジャケットを脱ぎ、ハンガーを持った支配人に渡した。
もぞもぞとスニーカーを脱ぎ、壁に沿って並べられた二足の革靴を見つける。どちらにも見覚えがある。初見なのは紺色のスニーカー。ダブルストラップのベージュのスエードサンダル。サンダルには小さなトルコ石が付いている。
たったそれだけのことで、俺の心は再びふつふつと沸き立った。
ここにこの人の生活がある。きっと職場の誰も見たことがないはずだ。そしてこれから、この人の過去も幾つか明らかになるだろう。
つい顔がにんまりとしてしまう。たちまち近江さんの優先順位は下降し、話がなんにせよ、断ればいいだけだとお気楽な俺が降りてくる。
ついさっき車内で覚えた気持ちをあっさりと忘れた俺は、支配人を追ってよく伸びた観葉植物の葉をくぐった。そして支配人の手でまた別のランプが灯されると、露になった部屋の全貌を見て、堪らず声を漏らした。
「わあ」
学校の教室か、それよりも少し広いかもしれない。丁度黒板がある位置の壁面が、大量のDVDやブルーレイの背表紙でぎっしりと埋め尽くされていた。
「すごい」
あれはビデオテープだろうか。一角には雑誌も並んでいる。どれも映画の専門誌だ。
真ん中には大きなテレビ。床置きされた高そうなスピーカーに、天井にはロールアップされたプロジェクターのスクリーンまである。
「映画、好きなんですね」
物量に圧倒されてとぼけたことを言った俺に、支配人は「俺の仕事知ってる?」と笑った。
これまで一度も支配人の私生活を想像したことはなかったけど、うっすらと抱いていた印象とは全く違った。映画のコレクションはもちろんだけど、部屋全体の趣味がいい。
点在する家具は恐らくヴィンテージで、欠けや剥げはあるけど、木製の仕立てのいいものばかりだ。そこにこだわりがあるのかと思いきや、キッチンのラックは黒のアイアン。ウォーターサーバーがあって、お掃除ロボットがいて、植物の細工が施されたショーケースには、どこかで見たことのあるエイリアンやドラゴン、可愛らしいクマのフィギュアが並んでいる。
インダストリアル、ミッドセンチュリー、クラシックラグジュアリー、インテリア雑誌でお馴染みのワードがポコポコと浮かんでは、どれにも一致しない。スタイルじゃなくて、好きな物だけがバランスよく収められてるんだ。
両親ほど雑多ではなくて、兄や友人たちより迷いがない。完成された、この人の世界。
「なにか食べたいものある?」
支配人が言うのが聞こえて、ほんの少し寂しい気持ちで天井を見上げていた俺は、「なんでもいいです」と返事を返した。
「じゃあ適当に座ってて」
テレビの正面に置かれたソファーに腰を据えると、左側の一面に窓がある。教室と同じ腰高窓には日焼けを防ぐためかきっちりと遮光カーテンが閉めてあって、コレクションから離れたベランダがある掃き出し窓のカーテンは開いたままだ。夜景と言えるほど街の明かりに賑わいはないけど、昼間ならそこそこいい景色だろう。
ベランダのそばには円形のローテーブルが置かれている。上にはノートパソコン、マグカップ、パンくずの載ったお皿、丸めたティッシュ。ここだけ真っ当な男の一人暮らしを醸していて、なんだか愛しい。そして、部屋の至る所に小さくない鉢植えがある。
「植物が好きなんですか?」
「生き物がね。動物も飼いたいけど、あんまりかまってやれないから」
「ここってお風呂とかは?」
「あるよ。シャワーしかないけどね」
「へえ」
後ろ姿の支配人が、料理をする気がなさそうなちんまりとしたカセットコンロにシルバーのケトルを掛ける。電動のコーヒーミルの蓋が開き、香ばしい香りが漂ってきた。
ソファーの後ろにはベッドがあった。座っても寝転んでも映画が見られる仕様だ。眠くなればソファーを乗り越えてベッドに飛び込める。ちょっとやらしい。
ベッドの背面には映画のポスターが幾つか貼り付けてあった。大切ではないのか予備があるのか、日に焼けていくつかは褪せている。
どれも邦画だけど、見たことがあるのは、ひとつ……ふたつ。あとは聞いたことがあるのと、聞いたこともないやつと……。
「あれっ?」
声を上げて振り返り、コーヒー豆の袋を持った支配人と目が合う。
「なに?」
「この飾ってあるポスター、全部映画のかと思ったら、あれはテレビドラマですよね?」
「そうだよ」
透馬が好きな脚本家のドラマだ。確かホラーで、女優のニセカが出てるって荒木が。……ん?
よく見るとあれも、これも、それにもニセカの名前がクレジットされている。待てよ、これってもしかして……。
無碍に見渡したポスターをもう一度目で辿り、確信を得た俺は、再びキッチンの支配人を振り返った。
「あの、飾ってあるポスターってもしかして、女優のニセカが出てるやつですか?」
「そうだよ」
あっさりと認められて喉がグッと押されたようになる。
「好き、なんですか?」
「好き? あー好きっていうかー」
曖昧な言葉尻を軽い笑いで繕った支配人の視線がポスターに向けられて、俺の心中はますます複雑になった。
そうだよな、支配人とニセカは同世代だ。俺だって結構好きだし。荒木なんてかなりファンだ。映画好きなら、推しの女優の一人くらいいて当然――。
「持ってくるからさ。近江さんが」
「…………は?」
なぜここで近江さんが出てくるんだろう。あ、近江さんがニセカのファンなのか!
「芸名はニセカだけど、本名は近江ニセカ。近江さんの奥さんだよ」
「!?」
ケトルがきゅーと小さく鳴いていた。室温が微かに上がっている。
思わぬ答えに言葉を失った俺は、すべての感情を顔面にのせてポスターと支配人を何度も往復し、その何度目かで、支配人が堪らずというように身体を折って笑い出した。
「あっはははははっ!! なんだその顔!!」
笑われて動揺がますます深まる。
「だっ……だって! あの人ニセカと結婚してるんですか!? あの、あの人と!?」
「あの人ってどっちのことだよ!」
腹を抱えて笑い続ける支配人に、俺は言質を取りたくて必死に何度も「本当ですか!?」と訊ねた。勢いづいてソファーの上で膝立ちになると、ラムレザーの柔らかさに耐えられず横倒しになった。
「うわっ!」
それを見た支配人はさらに笑って、飴色のマグカップに指を引っ掛けたまま顔を覆う。
ニセカが既婚者なのは知っていた。見た目に反して年齢が三十代半ばなのも知っている。それでも俺たちの世代で、男女問わずニセカのファンは少なくない。なのに、こんな、こんなことがあっていいのか!!
「なんであの人が女優と結婚できるんですか!! どうなってんだ世の中!!」
俺が世の不条理を嘆くような気持ちで頭を抱えると、
「もっと、驚くかもしれないけど」
と、笑い交じりに支配人が言葉を絞り出す。
「これ以上なにがあるんですか!!」
「あの人は――ニセカは、俺の大学時代の元恋人」
「えっ……」
「取られちゃったんだよね、近江さんに」
そう言った支配人は、笑い涙で濡れたまなじりを親指で拭った。




