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不機嫌な支配人



「こんにちはー」

 自転車をとばして事務所にたどり着くと、俺の挨拶に気付いた高橋さんが、壁に掛かった出勤者ボードに目をやった。

「あれ、そーちゃん今日出だっけ?」

「あ、いえ――」

 否定しようと口を開いたら、知らない男性を見つけて発声を忘れた。


 黒いスニーカー、細身のブラックデニム、濃紺のアウトドアメーカーのフード無しジャケット、そして癖の強い黒髪が、黒のニット帽から這い出て来たみたいに素っ気ない表情を覆っている。

 その人とは間違いなく初対面だったけど、その風貌に()()()()はあった。


「あの、もしかして染谷さんですか?」

「あ、どうも……」

「やっぱり! はじめまして、フロアスタッフの森口です」

 深く頭を下げながら、噂にだけ聞いていた、『映写技師の染谷さん』というレアキャラとの遭遇に胸が沸く。思っていたよりもずっと若い。

 デジタル化が進んだ昨今、大きな劇場でもないうちには常勤の映写技師はいない。保守点検や、うちのスタッフでは手に負えない不具合が出た時にだけ来てくれる人と聞いていた。それも、大抵は俺のいる時間ではないから、この先も会うことはないんだろうと思っていた。


「そめちゃん、この子がそーちゃんだよ。やっとそめちゃんそーちゃんの対面だ」

 高橋さんがふふふと笑いながら、俺と染谷さんのリアクションを期待する眼を送ってくる。迷った俺が染谷さんを窺うと、口元が笑っている。それを見つけた俺はホッとして、高橋さんのいじりに乗っかった。

「そんな漫才コンビみたいに呼ばれてたんですか」

「そーだよ。佐伯くんも二人が揃うの楽しみにしてたのになあ。今下に行ってるんだよねえ」

 同情するように高橋さんが言って、染谷さんの口からも小さく笑い声が零れた。表情筋はあまり動かさない主義のようだけど、小さく上向く口角には親しみを感じる。

「染谷さんが来たってことは、なにかあったんですか?」

「私も今それを聞こうとしてたとこ」

 高橋さんと俺の視線を受けた染谷さんは、やっぱり口角をくすっと上げて、そばにあったオフィスチェアを引いて静かに腰を下ろした。

「俺も君と同じだよ。近江さんに呼ばれて」

「え!?」

 思いもよらない答えが来て素っ頓狂な声を出すと、それが聞こえたのか、奥の部屋から支配人が顔を出した。

「あ、来たか。森口くんおいで」

「あ、はい」

 手招きされて支配人室へと向かう。名前を呼ばれていないからか、染谷さんはその場から動く様子はないようだ。俺は染谷さんと支配人を交互に見ながら、すぐ先にいるだろう近江さんを想像して、重たい足を運んだ。



「やあ森口くん。久しぶりだね」

 観葉植物の向こうから近江さんが顔を出し、隙のない眼差しが俺を捉える。その瞬間、俺は完全に染谷さんの存在を忘れてしまうほどの憂鬱に飲み込まれた。

「……こんにちは」

 背後でドアが閉められて、思わず横を通る支配人の背中をねめつける。ついさっき着信に喜んでいたはずが、今は俺を陥れる悪役の参謀のように感じる。


 たったの二回会っただけなのに、どうして俺は近江さんにここまで敵意を抱いてしまうんだろう。

 ヒナに対峙した俺や支配人に真っ当な労わりの言葉がなかったから? 行き過ぎたファンを肯定したから? 満ち溢れる自信の根拠を知らないからだろうか。

 再会を喜んでいるとは言えないだろう俺の顔を見ても、近江さんは関係ない表情だ。その()()()にあてられた俺は、まだ呼ばれた理由を聞かされていないのに、すでに敗戦の可能性を感じ始めている。俺に片棒を担がせる準備は万端に整っていて、俺には選択肢がないと分からせるだけ、といった状況に置かれている気がしてくる。

 何を言われるのかは分からないけど、四度目に会った時には、なにも持たない俺に利用価値を見つけてくれるこの人に逆らえなくなっているのかもしれない。あの人みたいに。

 心の中でセリフを吐いた俺は、支配人を見て、吐いたセリフを撤回することになった。

 電話での疲れた口調の通り、支配人はひどくくたびれていた。まあそれならばいつも通りだけど、今日は珍しい感情が加わっていて、明らかに機嫌が悪い。

 むっと閉じられた唇。シャツが捲られた腕は胸元でがっちりと組まれて、ブルーライトカット加工の眼鏡レンズの向こうで細められた瞳は、近江さんがなにを言い出しても受け入れる気がなさそうだ。

 これからどんな話が始まるのか、俺を呼んだ支配人は分かっているはず。さっきは参謀と言い捨てたけど、支配人は俺の隣で近江さんと対峙する態勢だ。

 意外な見方を得た俺は、ようやく近江さんの向かいに腰を下ろした。


「それで、今日は何か」

 気を抜くと挙動不審になりそうで、視線を近江さんの眉間に固定して訊ねる。

「君の話を聞いてね、隠し撮りをされてるとか」

「はい……そうです」

 支配人が話したんだろうか、そうだろうな。

 子どもが親の反応を確かめるみたいに、つい支配人を見上げそうになって、なんとか堪える。

「かなり盛り上がってる?」

「えっ? いえ、そこまでではないと思います。ここら辺のファンだけですし……」

「ふうん」

 なんだ? なにが言いたいんだろう。またなにかさせられるんだろうか。でももうアイキの映画の上映は終了したし。

「この間ね、君のご両親の経営する喫茶店に行ってみたよ」

「はっ!?」

 なんだって!?

「サーモンのムニエルがとても美味しかったね、いいバターを使ってる」

「は……そ……」

 驚きのあまり変な声しか出ない俺を構わず、近江さんは思い出すように顎先に手を掛ける。

「お兄さんも多彩な人なようだね。毎年なにかしらのデザインコンテストで賞を取ってる」

「……」

 そうだったんだ。兄ちゃんはいちいち報告してこないから知らなかった。

「それと、おじいさんは森口家具の代表だね? 知り合いに数人顧客がいるよ。とてもいい作り手だと聞いた。駅前の清川ビルのオーナーが、家の家具を一式注文したと自慢していてね、一度見に来いと言われてるんだが――」

 近江さんはいいながら、思い出したように横にあった鞄から一冊の雑誌を取り出した。

 見覚えのあるその雑誌には黄緑色の付箋が付いていて、近江さんはそれに手を掛けて目当てのページをパッと開き、テーブルに置いた。

「これは君の家族だね」

「……」

 なんだろうこの気持ち、覚えがある。

 これは健介に嘘を暴かれた時と同じ焦りだ。別にこれは秘密でも何でもないけど、こんなタイミングで、しかも近江さんに引っ張り出されると思っていなかったから、完全に虚を突かれてしまった。

 なんだよ、どうしたいんだこの人は。俺の家族のことなんか調べて、なんの布石にするつもりなんだ。ローカルのファンにいじられているくらいでビクビクするなと笑いに来たんだろうか。まさか、そんな暇な人じゃない。

「で、これが君だ」

 近江さんの指が、小学五年生の俺を見つける。

 にこにこと笑う家族達の中、あまりにも凡庸な表情で刷りだされた俺。語るべきことは今なお無く。ちょっとしたきっかけでアイドルファンの暇つぶしに消費され、息をひそめるしか術のない今の俺と完全に一致している。

「そうですけど、なにか」

 変わったのは、少し反抗的になったくらいだ。それも、一体あなたになんの関係があるのかと、眼差しで返すくらいの微々たる反抗心で、当然近江さんは意に介さない。

「俺はね、こういうのが大好きなんだよ」

 突然胸を膨らませるように言った近江さんに、俺はソファーに身体を押し付けた。

「……こういうの?」

「そう。まだ誰も答えを埋めてない、空白の括弧」

 近江さんは前のめりになり、両腕を開いた膝に載せ、手をぎゅっと握り込む。

「ここにどんな文字が入れば、この写真の主役は君になるんだろうってね」

「俺が、空白の括弧?」

「そう」

 いよいよ言われている意味が分からなさ過ぎて、目がしぱしぱする。催涙成分が近江さんから発生しているんじゃないかと思えるほど、目の奥が痛くてはっきり開けていられない。

 答えを持っていると言いたいんだろうか。この人の出す答えなんて知りたくない。なのに、確かに空白を抱えている自覚もある。

「今日はね、そういう話をしに来たんだ」

「……」

 押し入れに積まれた布団のような深層心理の隙間から、凡人だと気付く前の俺がちょこっと目を出す。そんなものはもう、懐古するだけの存在だと思っているのに、このわけのわからない自信に満ちた男ならば、俺には想像もつかないようなやり方で、せめて圧迫感のないところへは出してやれるんじゃないかという気がしてくる。

 その時、ふーっと深く吐き出される息が聞こえて、支配人が声を上げた。

「もういいです、俺が話します」

「どうして、俺じゃだめか」

 近江さんの片眉が、ぞっとするほど高く持ち上がって、支配人に圧を掛ける。

「だめですね、なんかもう聞いてるこっちがぞっとしてくる。未だにこうやって人をいいようにしてるんですかあなたは」

 近江さんの圧を払いのけるように支配人の手が自らの髪を掻き上げ、眼鏡がカチッと鳴った。支配人はまた気だるげな息を吐きながら俺の隣に腰を下ろし、俺はスペースを開けようと反対側にずれたものの、間隔を見誤って半身がぴったりと支配人にくっ付いて、心臓を高鳴らせてしまった。

「彼はまだ高校生ですよ、あなたはまだ早すぎる」

「まだ早いって、どういうことだよ」

 くっくっと笑う近江さんに、触れる支配人の体温にドキドキする俺、いや今はそういうのはいいから! ええと……確かに、どういう意味なのか分からない。

「俺は大学四年だった。それでも騙されましたからね」

 騙された? 大学生の時に? そんなに前から知り合いだったのか。

「まだ根に持ってるのか」

「持ってません。でも忘れたりもしません」

 なんの話をしているのか分からない。でも前々から、支配人が近江さんに好意とは真逆の眼差しを向けていたのには気付いていた。

 うずうずと俺の中の透馬と荒木が顔を出してくる。知りたい。なにがあったのかめちゃくちゃ気になる。黙っていた方がいいのか、思い切ってたずねてみようか。いや、それよりもそもそもの話はなんだったのか、順番はどうでもいいから早く教えて欲しい!

「ちゃんとご両親には話を通してきたぞ? 二人は息子の好きにさせると言っていた」

「森口くんのご両親はそういう教育方針なんです。一貫しているのは尊敬しますけど、どんな時もそれが正しいとは俺は思わない」

「かといってお前に口を出す権利はないだろう」

「森口くんはうちで預かっているんです。俺にはそれなりの責任がある。あなたのような人に言いようにさせないっていうね」

「いいや、お前は彼のためじゃなく、自分のために立ちふさがる気なんだろう? 臆病な自分のために、若い子に与えられたチャンスをつぶす気か?」

「なら染谷に撮らせればいいでしょう? なんで俺なんですか! 今更っ……」

 空間にスパイスがぶちまけられたみたいに、皮膚の表面がピリピリと刺激にまみれた。思わず俺は身を低くして、二人の視界に入らないよう息をひそめる。

 どうやら二人にはなにか過去があるらしい。会話の断片を繋ぎ合わせても、それらしい形にはならなくて、俺はまだ黙っている以外にない。

「とにかく俺のことは抜きにします。それが嫌なら諦めて帰って下さい」

 きっぱりと言った支配人に、近江さんは変わらぬ表情でただ黙った。そして、少ししてから俺に目を向けた。ぎょっとなる俺を悪い魔女みたいな目つきでじろじろと見た後、

「君には好奇心はあるか?」

 と、近江さんは問うた。俺は困惑の極みを味わいながら、「人並みには……」と頷くと、それが欲しかった答えだと言わんばかりの満面の笑みに変わった近江さんは、「それならいい」と、さっとソファーから立ち上がり、「じゃ、どうなったか連絡をくれ。コンペにはまだ時間はある」

 そう言ってあっさりと支配人室から出て行ってしまった。



 俺はしばらく黙っていた。支配人も黙っていた。

 それが五分、十分と過ぎた辺りで内線が鳴り、ようやく立ち上がった支配人が、ドアの向こうの高橋さんと喋っているのを俺はじっと待った。

 カチャとプラスチックの受話器が置かれ、ようやく気が向いたのか、支配人が俺の方を見る。

「じゃあ、さっきの話を続けるよ」

 吐く息交じりの言葉には、どう考えてもさっきのやり取りの名残があって、俺の中にも大いにいあった。

「あの」

「ん?」

「俺には好奇心があります」

 正直に言うと、支配人の目が細くなった。

 俺の考えていることをこの人は読み取ることができるはずで、そう思っていることもこの人は分かっている。もうため息を吐かせたくはないし、この人をもっと知ることで、俺の浮ついた気持ちがどう転ぶかもわからない。でも、本題だけでは物足りない。

「わかったよ。今日は五時に上がるから、君は家に連絡して」

「えっと、なんて?」

「夕飯は食べて帰るとか?」

 なるほど、ここでは話したくないということか。

「わかりました。時間まで俺が出来ることはありますか?」

「休みなんだし、映画でも見て待ってな」

「はい」


 支配人室を出ると染谷さんは居なかった。高橋さんも居なくて、変わりにいた佐伯さんに、そめちゃんそーちゃんコンビが見られなくて残念だと嘆かれた。

 俺は佐伯さんを慰めるために、今から戦隊シリーズの劇場版を観てくると告げた。すると大喜びした佐伯さんに盛大なネタバレを食らって、やらかした佐伯さんは机に伏せって泣いた。




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