第8話 女人禁制の宮②
林家を出た後、子鳴はいったん中央の大路へと戻った。今度は右へ曲がり、西の大路に入った。
「それにしても……お前を見たときのあいつらの顔。大驚失色とはこのことだな」
子鳴は薄笑いを浮かべたが、声はどこか空回っている。無理に虚勢を張っているようにも見えた。
蘭児は気が重かった。
子鳴は伯母と呼ぶ女性に自分を見せた。夫人は驚き嘆き、卒倒した。
そして、これから「殿下」なる人物のところへ行き、会わせようとしている。自分の存在が誰かを傷つけるのなら行きたくはない。
自然と足がのろくなった。
気がついた子鳴から「早く歩け」と叱咤される。
一行は西へ進み、やがて都の南西に位置する円華宮へ到着した。皇帝一族が使う別荘である。
広大な敷地は白亜の頑丈な石壁に囲まれていた。壁の内側に沿って杉や檜が植えられており、中の建物は見えない。
子鳴は迷うことなくまっすぐ正門へ向かった。
門の前には検問所のような小屋が建てられ、武装した兵士が立っていた。
子鳴の顔が険しくなった。聞き取れないほど小さな声で「太后の狗め」と呟いた。
兵士たちは子鳴を視認すると、一斉に拱手した。
子鳴は小屋の前で馬を下りた。
林大人の屋敷と違って馬では入れないようだ。隊長らしき男が進み出た。
「李家の若さま、御剣をお預かりいたします」
子鳴は腰から剣を外して、隊長に渡した。馬も預けた。
兵士たちは蘭児を含む従者たちを取り囲み、武器を持っていないか調べた。
蘭児も服の上から身体を探られた。服が綿入りなのが功を奏したのか、懐の割符は見つからずに済んだ。
隊長が子鳴に言った。
「この者は初めて見る顔ですな」
「最近雇った」
「都の貧民ですか。若さまが関わるような人種ではありませんよ」
「お前には関係ない。放っておけ」
隊長は蘭児の顔を覗き込んだ。蘭児はヒヤリとした。
「男だ」
咎めるように子鳴は言った。
「わかりました。それではどうぞ」
と隊長は言い、兵士たちに門を開けるように命じた。中へ入ると、背後で門扉が音をたてて閉まった。
まず目に入ってきたのは高い杉の林だった。
無数の杉が天に向かって屹立し、邸内は清涼な空気に満ちている。整備された小径が林の奥に向かって伸びている。
子鳴を先頭にして小径を歩く。
敷地内もあちこちに兵士の姿が見えた。
林を抜けると漆黒の瓦屋根と乳色の壁を基調とした壮麗な宮殿があらわれた。入り口の朱塗りの扉の前で、子鳴は振り返った。
「ここで待て。蘭児、お前は来い」
子鳴は蘭児のみを連れて宮に入った。
勝手を知っているのか、彼は迷うことなくずんずんと奥へ進んだ。
長い回廊を渡り、幾つもの廊下を曲がり、大小の部屋を通り抜けた。宮はその広さに反して、殆ど人を見かけなかった。時々、使用人らしき男たちがこちらを窺っているのが見えたが近づいてはこない。宮殿内に兵士の姿はなかった。
小門をくぐり、内院へと入った。
皇族の私的な居住空間である。
正面に大きな鉄扉があった。左面に神獣の鳳、右面に凰が彫られている。扉を閉めると、二羽でつがいの鳳凰となる。
鳳凰は三百六十種の鳥類の頂点に立つ鳥王であり、聖なる天子や聖者の象徴である。理想的な君主が出現する際に、天帝の使いとして地上に舞い降りるとされる瑞鳥である。
鳳凰の鉄扉を抜けると、若い男が跪いていた。子鳴を見ると顔を上げた。その表情は硬かった。
「李公子殿下、このような突然のお越しは困ります。この宮の事情はご存知のはず。せめて前日までにご連絡か、当日でも先触れをいただきませんと」
丁寧だが棘のある口調である。子鳴は男を冷たく一瞥した。
「嫌味なやつだ。この国に李公子などという者は存在しえない。それを知りながら愚弄するか」
「ですが、その奇矯なご身分を行使されない限り、あなたさまはこの宮にお入りにはなれません。殿下に拝謁することもかないません」
男は怖じることなく、堂々と言った。
「寧、貴様」
子鳴は唸り、こぶしを握り締めた。
蘭児は寧と呼ばれた男が殴打されるのではないかと危ぶんだ。
予想に反して、子鳴はすぐにこぶしをほどいた。
暑くなったのか、円套を脱いで放った。寧をそのままにして歩き出した。
「どこだ、どこに隠れている。あのうすのろ馬鹿は。さっさと出てこい」
歩きながら、わざとらしく大声をあげる。寧は立ち上がり、子鳴に追いすがった。
「お待ちください。殿下はご体調がすぐれず、今はお休みになっておられます。どうか別室でお待ちを」
子鳴は寧を無視し、内院を巡った。途中で蘭児を呼んだ。蘭児も後を追うしかない。
子鳴は乱暴に扉を開け、各部屋を見て回った。
中に誰もいないとわかると舌打ちし、次の部屋に移る。幾つ目かの部屋を覗いたところで、足を止めた。確信したように中に入ってゆく。寧がため息をついた。
部屋は昼間だというのに薄暗かった。しんと静まり返っているが、人の気配がした。誰かいる。
蘭児は室内に目を凝らした。中庭に面した格子から、細い陽光が差し込んでいる。
光を受けて輝くものがあった。
取手の部分と先端が金で装飾された白檀の杖だった。一目で高価なものだとわかる。杖は壁に立てかけてあり、すぐ傍に椅子があった。
椅子に目を移すと、そこには男が座っていた。
光沢のある黒絹の長袍を身にまとし、長い髪をそのまま後ろに流している。全身が漆黒に覆われる中、白い顔と首だけが宙に浮かんで見え……たところで、蘭児は息を呑んだ。
最初は面をかぶっているのかと思った。そうではなかった。
それはなんとも美麗で奇怪な面貌だった。
左半分は驚くほどに端正である。繊細な眉の下にある瞳は切れ長だが眦は少したれて、優しく柔和な印象を受ける。
その横にすっきりとした鼻梁、下には形のよい唇が、天の配剤とでもいうべき正しい位置に収まっている。
細身ながらがっしりとした体つきから男とわかるが、顔だけなら女と見間違う者も多いだろう。
左の秀麗さに対し、右半分はおどろおどろしかった。
頬の皮膚は赤茶色に変色して筋状に隆起し、こめかみに向かって引きつっている。眉は抜け、眼球は灰色に濁っている。明らかに失明している。
首も顔同様、右側の皮膚が赤く変色していた。額から下を左右に分けて、赤と乳白で塗り分けたかのようだった。
男は人が入ってきても微動だにせず、ぼんやりと虚空を見つめている。




