第9話 女人禁制の宮③
「ここかよ。手間をとらせやがって」
子鳴が毒づきながら、男に近づいた。
「喜べ、義兄が来てやったぞ。世の中に見捨てられたお前に、忘れさられたお前に会いにくる酔狂は俺くらいのものだ。なあ、嬉しいだろ廃嫡殿下」
反応はなかった。聞こえていないのか子鳴の方を見ようともしない。
「おい、無視するな。こっちを見ろ」
子鳴は頬を軽く叩いた。それでも廃嫡殿下は瞬き一つせず、呆けたように固まっている。
「くそ、なんなんだこいつは」
子鳴は寧に振り返った。
「この木偶の坊はなんだ。痴呆と唖に加えて聾にもなったのか」
「医師からそのような報告は受けておりません」
「じゃあ聞こえてはいるんだな」
「と思いますが、断言はできません。殿下のご病状は一進一退です」
「こんな状態では来た意味がないだろうが」
「ですからご体調がすぐれないと申し上げました。強引に押し入ったのは李公子殿下ではありませんか」
「公子と呼ぶな」
子鳴は鬼のような形相で叫んだ。
蘭児は耳を塞ぎたくなった。罵声も怒声も聞いているだけで心が削られる。
子鳴は蘭児の襟首を掴むと引っ張り、廃嫡殿下の前に立たせた。
「どうだ、よく見ろ。俺からの贈り物だ。お前にくれてやる。生憎と男だがな」
廃嫡殿下は蘭児も見なかった。
左目は開かれているが、焦点が合っていない。眼球に蘭児を映しながらも、彼の視界は無関心という壁に深く閉ざされている。
「蘭児、挨拶しろ。直答を許す」
子鳴が苛々しながら命じた。
直答を許すのは、挨拶される側である。子鳴が許すのはおかしいのだが、何の反応もない以上は仕方がない。
蘭児は勇気を出して口を開いた。
「蘭児、と申します。丁です。李家の旦那さまに買われてここへ来ました」
それ以上は続けようがなかった。
蘭児の逃れようのない非情な現実である。
挨拶してもやはり反応はなかった。
廃嫡殿下の精神は肉体から乖離し、ここではない別の世界を浮遊しているかのようだった。
「この、気狂いめ」
子鳴はとうとう爆発した。
蘭児を前にしての、彼の無関心は到底許せなかった。後には引けなかった。飛び掛かるようにして胸倉を掴むと、上半身を持ち上げてがくがくと揺さぶった。
「貴様、見えているんだろうが。え? 見えているんだろ。見え透いた演技はやめろ。お前はこれを見てもなんとも思わないのか。何も感じないのか。お前が滅茶苦茶にした女だぞ。お前が殺した女だぞ。崔夫人はまだまともだった。これを見て嘆き悲しんだからな。夫人は人間だ。お前はなんだ。人の心を失った畜生だ」
子鳴は何かと混同しているのか、支離滅裂なことを叫んだ。彼自身が何か、狂想の渦のようなものに呑まれつつあった。
「お前が殺したんだ。お前が悪い。全部お前が悪い。お前さえいなければ……あいつは自由になれた。南へも行けた。積年の願いがかなったのに……。お前があいつの人生を台無しにしたんだ。俺からすべてを奪っておいて、お前だけが生き残りやがって。こんな腑抜けた白痴になりやがって」
子鳴はさっとこぶしを振り上げた。殴らせまいと寧が子鳴の腕を掴んだ。
「乱暴はおやめください。手をお離しください」
寧は声こそ必死だが、目は醒めきっている。
子鳴の罵倒や乱暴に驚いた様子はない。辟易しつつも「またか」という冷ややかな諦観が感じられた。このような修羅場は初めてではないのかもしれない。
子鳴は「触るな下郎」と一喝し、寧の胸に肘鉄をくれて突き飛ばした。
寧は壁に当たって倒れ、胸の辺りを押さえて咳き込んだ。蘭児は子鳴の狂態に圧倒され、その場を一歩も動けない。
子鳴は吠え続けた。
「畜生以下の外道め。あいつさえ、逸琳さえ忘れてしまったのなら、お前に生きる意味はない。生かしておく必要もない。死ね、さっさと死ね、死んでしまえ」
耳が腐るような罵詈雑言を吐きながらも、声は次第に疲れ、あてどない哀愁を帯びてゆく。
「なんで生きているんだ。なんでお前だけが……」
暴言の語彙が尽きてしまい、とうとう鼻声になると子鳴は手を離した。
廃嫡殿下は糸が切れた人形のように椅子からずり落ち、どうっと床に転がった。
「もういい」
と、肩で息をしながら子鳴は言った。
彼は蘭児に振り返った。
これに対しては、堪えきれない思いがあった。どうしようもない執着を覚えながらも、男を愛することはできない。同性の生身を慰めとする勇気はなかった。傍に置いておけないなら、振り捨てる覚悟を決めた。
「これは置いてゆく。戯れに買った玩具だ。どうせ人手不足なんだろう? なんにでも使うがいい」
子鳴の口元が卑猥に歪んだ。
「愛玩してもいいぞ。もっともお前の一物は役に立たんだろうが」
嘲笑しながら廃嫡殿下を蹴り上げようとしたが、足はすんでのところで止まった。
「そうやっていつまでも床を舐めていろ。虫けらめ」
最後に捨て台詞を吐くと、子鳴はさっと身を翻した。
そのまま部屋を出ていこうとした。
「お待ちください」
起き上がった寧が、出口を塞ぐように立ちはだかった。
「この者は丁なのでしょう。出自不詳の卑しき者を宮に入れることはできません。そもそも丁の譲渡は禁じられているはずです。お連れ帰りください」
「譲渡が禁じられている?」
「丁妓に関する法をご存知ないのですか。譲渡厳禁の旨は、契約書にも書いてあるはずです」
子鳴はバツが悪そうな顔をした。本当に知らなかったらしい。
「ならばこれは預けておく」
「なりません。連れ帰ってください」
「黙れ。お前に指図されるいわれはない」
子鳴は乱暴に寧を押しのけて出ていった。
寧は床に転がった廃嫡殿下に呼びかけた。
「殿下、すぐに戻ります。お待ちを」
寧は子鳴を追いかけていった。尚も二人の言い争う声が聞こえ、徐々に遠ざかっていく。
蘭児は、そろそろと廃嫡殿下に近づいた。
見知らぬ人、それも殿下と呼ばれる大層身分の高そうな貴人に触れてよいものか迷ったが、とにかく助け起こさなくてはいけないと思った。
蘭児が膝を折って、そっと手を伸ばしかけたその時だった。
廃嫡殿下が動いた。
まず右腕が円を描くように床をなでた。ずりっと布地が擦れる音がした。次に緩慢ながらも、しっかりと右肘が立った。それから頭が持ち上がった。右腕に体重をかけながら注意深く上半身を起こした。
彼は壁を伝うようにして床に座り込んだ。
窓辺に立てかけてある白檀の杖を見た。杖を使って立ちたいのかもしれない。
蘭児は咄嗟に杖を取り、両手で掲げるようにして廃嫡殿下に差し出した。そうしなければいけない気がした。
廃嫡殿下がようやく蘭児を見た。
いや、子鳴に続いて部屋に入ってきた時から、彼の左目は蘭児を視認していた。驚きもしたし、懐かしくもあった。けして忘れてはいなかった。ただあえて焦点を合わせなかった。
蘭児も廃嫡殿下の目を見た。小さいが強い光が宿っている。
目の光はその者の意識であり、意志でもある。蘭児は直感した。……この人は正気だ。




