第10話 謀反人の娘①
宮城を出たい。
南へ行きたい。
お父さまに会いたい。
……それが彼女の願いだった。
「珂家の姫君のお越しにございます」
婢の来客を告げる声に、崔凰琳は化粧する手を止めた。
鏡に顔を近づける。映る顔は青白く陰鬱で、まぶたは腫れぼったい。凰琳は困ってしまった。こんなひどい顔で人前には出たくないと思った。
昨夜は寂しい一人寝だった。いや、ここ二ヶ月ほど彼女は後宮のしきたりで孤閨を託っていた。
懐妊がわかってからも、正鵠は優しかった。時間ができると凰琳が住まう香雪殿へ通ってきて、限られた時間を彼女と過ごした。無聊の慰めにと宮城の外で得た珍しいものをくれ、悪阻に苦しむ凰琳の身体を労わってくれる。
正鵠が来ると、凰琳の心は喜びで満ちた。
二人は顔を突き合わせて語らい、茶や菓子をつまみ、美しい絵巻物を広げたり詩集を読んだりした。中庭を散策し、花や月を愛でた。
正鵠は侍従や警護の兵、女官、家臣などいつも大勢の人に囲まれている。香雪殿でもなかなか二人きりにはなれなかったが、目ざとい正鵠は隙を見ては人を払った。
二人は灯篭や屏風の影、寝台の垂れ衣に隠れるようにして抱き合い、口づけを交わした。
手を握り、頬をすり寄せてお互いの体温を確かめ合った。夜が更けて御寝の時間になると、正鵠は別れを告げ、住まいである香宮へと帰っていった。
彼が泊っていくことはなかった。懐妊した妃は御寝に侍ることを許されない。無事に出産を終えるまで、房事は固く禁じられていた。殿下に無用な刺激を与えてはいけないという理由で同衾もできなかった。
さらさらと絹ずれの音がして崔夫人が入ってきた。
崔夫人は凰琳の母の姉で伯母にあたる人である。
凰琳の母は、今上帝の異母兄である黎一徳、通称黎大公の側室だった。崔家から女官として出仕した際に、大公に見初められたのである。母は凰琳を出産してすぐに亡くなった。現在は、崔夫人とその夫である林太博が、凰琳の後見となって面倒を見ていた。
崔夫人は子に恵まれず、姪の凰琳を我が子同然に可愛がった。これまでは宮城に通ってきていたが、凰琳の結婚を機に彼女の女官となり、同じ香雪殿で暮らしている。目上の伯母が姪に仕えるのは異例であるが、崔夫人はそうまでしても凰琳の傍にいたかった。愛しいのはもちろんだが、それ以上に心配だったのである。
「珂家の姫君がいらっしゃったようね」
崔夫人は客間の方を振り返った。
「はい、すぐに支度します」
凰琳は背筋を伸ばした。
伯母の顔を見ると、しっかりしなくてはと思う。自分は正鵠の一番目の妃である。しかもすでに子を身籠っている。
「いいのよ、待たせておけば。挨拶とはいえ、いきなり押しかけてくるなんて失礼だわ。あなたはゆっくり支度なさい」
崔夫人は凰琳の背後に立った。
そして鏡に映った凰琳の目が赤いことに気がついた。夫人は嘆息した。
「また泣いていたのね。お腹の子に障りますよ」
「違うの。昨日はなかなか寝つけなくて……」
凰琳は寝不足が原因と言いかけたが、伯母の目は誤魔化せないとわかっていた。
凰琳は昨夜泣いた。人目があるところではさすがに堪えたが、寝所に入り、広い寝台に横になると涙が出た。
彼女は密やかに泣いた。声を噛み殺して泣いた。どうにも寂しかった。夫の正鵠に逢いたかった。毎朝毎夕、彼の傍に侍りたかった。彼の腕に抱かれ、彼の高い体温を感じながら眠りにつきたかった。けれども、それは正鵠が大黎の皇太子であり、凰琳が彼の妻(の一人)である限りはかなわないことだった。
凰琳は白粉の入った箱を手にとった。
気が進まないが、客が来た以上応対しないわけにはいかない。白粉を小指に少しとり、赤くなった目のふちをなぞるようにしてのせた。
支度を終えた凰琳が客間に入ると、珂麗麗は卓付きの椅子に上品に腰かけていた。
珂家の当主で、丞相補である珂道元の十二番目の娘である。凰琳とは比べるべくもない豪華な絹の衣を身にまとい、耳には重そうな純金の耳飾りをつけ、髪にも翡翠や真珠、珊瑚を散りばめていた。容貌優れ、勝気な瞳をしている。同じく飾りたてた婢を二人連れていた。
麗麗は立ち上がって挨拶を述べ、凰琳もそれに応えた。二人は円卓を挟んで向き合った。
崔夫人が茶と果物を運んできたが、麗麗は口をつけなかった。
「このたびは入宮おめでとうございまする」
凰琳はまずは礼儀として麗麗の婚姻を祝福した。
麗麗は来月、入宮することが決まっていた。正鵠と婚儀を執り行い、彼の二番目の妃となる。
「ありがとうございます、崔一嬪さま」
麗麗は、凰琳を官位で呼んだ。
「一嬪」にわざとらしくいやらしい響きがあった。
さりげない挑発に、凰琳は顔が強張るのを感じた。初対面ながら麗麗は好戦的である。ふふふと妖しく笑った。
「ああ、でも香宮殿下の後宮は始まったばかりでしたね。今はあなたさましかいらっしゃらないのですもの、ここは崔妃さまとお呼びしましょう。なにせ元は郷主さま、尊いご身分でいらっしゃいますものね」
鈴を転がすような可憐な声に、あからさまな敵意を込める。
香宮殿下とは正鵠のことである。皇太子は宮城の東側にある香宮に住んだので、香宮殿下とも呼ばれた。
郷主は皇族の女子に与えられる称号である。
皇帝の娘は公主、その他の女子は郷主に叙される。黎大公の娘である凰琳は当然郷主であったが、六年前にその地位と称号を失っていた。
麗麗が言うとおり、正鵠の後宮は彼の成人と共に拵えられたため、まだ日が浅い。成人の儀と結婚は同時に行われるのが大黎皇室のしきたりだった。




