第6話 李家の若さま②
「待って、おじさん」
蘭児の脳裏に浮かんだのは、通りを挟んで立つ李家の若さまである。
彼は毎日やってくる。一日中、自分を見ている。異様な執着を感じるし不気味で仕方ないが、同時に「男だから」と購入を迷っているような節もあった。
「このまま男だと思われていた方がいいかもしれない」
「なんでだよ」
「昨日から私のことをずっと見ている人がいる。李家の若さま、李子鳴とかいう人。一昨日は私の掛札を見て、男だと知ってがっかりしていた。けど、昨日も今日も朝から来てずっと見ている。勘違いじゃないよ、私だけを見ている」
「なんなんだ、そいつは。お前を買う気なのか」
ほら、と蘭児は壁に隠れながら、通りを挟んで立っている李子鳴を顎でしゃくった。
雷はちらちらと覗き見ながら確認した。
「あいつか。男前だな。着ているものも豪華だ。金持ちみたいだが、冠はかぶってねえ。官じゃないのか」
「冠をつけていると官なの?」
「下っ端は俺たちと同じような頭巾だけどな。官位を持っているなら、冠をかぶっている。色と形で分かれているんだよ。佩刀もしているな。なんでだ? 貴人でも剣を携えられる人間は限られるはずだ」
雷はあれこれと李子鳴の身分を推測したが、結局わからないようだった。
蘭児は、怯えたように呟いた。
「もし女で登録し直されたら、あの人は私を買うかもしれない。そうしたら私は……」
それ以上は声にならなかった。
雷も蘭児の気持ちを察した。丁は奴隷ではないとはいえ、その立場はとても弱く、一般の使用人よりも下に置かれる。女の丁は、主人の心一つでいかようにもなる。
「おじさん、お金のことはいいから私は男のままにしておいて。間違えたのは組合の人たちなんだから、おじさんは悪くないよ」
「あいつが嫌なんだな?」
「嫌」
蘭児は断言した。
「嫌なやつだと思う」
言いすぎたかなとも思い、柔らかめに言い直した。
「……わかった」
雷は大きく息をついた。
「隠し通せる自信はあるのか。女だとバレた時にどうなるかわからんぞ」
「自信なんかないよ。その時はその時だよ」
蘭児はやけくそ気味に答えた。
男と偽ることに不安を感じないわけではないが、性別を間違えたのは組合である。
自分にも雷にも非はないのだ。バレたところで、組合にはいくらでも言い訳できるだろう。それよりも女と知られて買われて、李子鳴に好きにされる方が恐ろしかった。
雷は心配そうだったが、蘭児の気持ちを尊重してくれた。通りには戻らず、裏手からそっと立ち去った。
蘭児は売り場に戻った。
すると、間髪入れずに男が入ってきた。噂をすればの張本人、李子鳴だった。
子鳴は蘭児の前に立ち、怒ったように言った。
「お前、今会っていた男は誰だ。父親か、兄か?」
売人にひと声かけるでもなく、いきなり詰め寄ってくる。
どうやら、子鳴は雷と蘭児が一緒に裏に消えたのを苦々しく思っていたようだ。
蘭児は、丁の規則通り返事をしなかった。
目を合わせずに下を向いた。妬心だかなんだか知らないが、馬鹿馬鹿しいにも程がある。父親や兄が一体どんな顔をして、捨てた家族に会いに来るというのだろう。的外れもいいところだし、雷のことを知られたくもなかった。
「答えろ。あいつはお前の何なんだ」
子鳴は声を荒げ、蘭児に触れようとした。
世甫がすっ飛んできた。蘭児を背後に庇うようにして笑顔を作った。
「若さま、お手を触れるのは勘弁ですよ。売りものなんですから。さっきのはただの仲介人でなんでもありません。どうやら蘭児がお気に召したようで何よりです。こいつは他の旦那からも声がかかっていましてね。値段も手ごろですし、決断するならお早めになすって――」
「うるさい」
子鳴は遮り、蘭児に向かって冷たく言った。
「お前、こっちを見ろ。顔を見せろ」
蘭児は仕方なく顔を上げて子鳴を見た。
人を見下す嫌な目をしている。
子鳴は蘭児の顔を正面から、右側から、左側から、下からとゆっくりと舐めるように見た。何かを確認するような仕草だった。やがて満足したように顔を離した。
「まだ少し痣が残っているが、見られる顔になった」
子鳴はなんらかの理由があって蘭児を見初めたようだ。
顔の腫れや傷が気になっていたのだろう。毎日市場に通って、傷が癒えるのを待っていたのだった。
子鳴は世甫に向き直ると、傲岸に言い放った。
「こいつを一晩貸してくれ。連れていきたいところがある。金は払う」
蘭児は驚愕した。心臓がバクバクと脈打つ。
一晩の貸し、組合はこれを承諾するのだろうか。卑しい丁であるとはいえ、そこまで粗略に扱われるのか。
世甫は客の無体には慣れているのか、まったく動じなかった。
「あ~そういうのはやってないんですよね。大事な商品を傷ものにされて返されても困りますしね。一夜の慰めをお求めでしたら、別のところへ行ってください」
「だめなのか」
「だめです」
世甫はにべもなく断った。
子鳴は途端に不機嫌になった。
「この木っ端役人が。この俺がお願いしているんだぞ」
「お言葉ですが、丁妓は国の専売、ここは国営の市場です。お上、すなわち皇帝陛下のお膝元で営業しているんです。法を破るわけにはいきません。丁の貸し借りは厳禁です」
「買い取れということか」
「はい。銀貨三百五十枚でお買い求めいただけます」
「三百五十? これにそこまでの価値はないだろう」
子鳴は冷笑した。
蘭児は胃がむかむかしてきた。値段ほどの価値がないなら放っておいて欲しかった。
貴人から見れば、丁など人間のうちに入らないのかもしれない。しゃべる家畜のようなものなのかもしれない。
それでも彼の言うことが理解できる以上はどうにも不快だった。不愉快な男だった。
「金満家でいらっしゃる若さまにとっては、はした金かと。手持ちがないなら、李夫人にお願いしてはいかがですか。買い取りさえすれば、これは今後五年間あなたさまのものです。売約が成立すれば、私どもは何も干渉しませんよ。煮るなり焼くなり、どこへ連れていくなりお好きになさればよい」
世甫は引き下がらず、子鳴への軽蔑の念も隠さなかった。
子鳴は押し黙り、世甫をきつく睨みつけた。
それから、拗ねたように顔を背けると足早に出て行った。
世甫は子鳴が雑踏に消えたのを見届けると「子供か」と吐き捨てた。
「女には不自由してないだろうに、遊び飽きてとうとう男に目覚めたのかねえ。迷惑なこった」
蘭児はその場に立ち竦んだ。
子鳴に買われなかったという事実を喜ぶまでにはしばし時間を要した。
市が終わるといつものように部屋に戻って夕飯を食べ、早めに就寝した。粗末な床に雑魚寝だったが、安心して眠ることができた。
翌朝もいつものように市が開いた。
蘭児が売り場に立った瞬間、待っていたように男が入ってきた。
李子鳴だった。彼は銀糸で縁取った豪奢な円套を羽織り、金色の帯を締めていた。馬でやってきて、従者を三人連れている。
子鳴は世甫の足もとに銀貨の詰まった革袋を投げた。
「はした金を用意してやったぞ。這いつくばって数えろ。三百五十枚きっかりある」
「若さま。まことにありがとうございます」
世甫は平伏し、革袋を拾うと両手で掲げるようにして事務所へ運んだ。子鳴と蘭児も事務所に入った。
半刻ほどして奥から世甫が出てきた。子鳴に紙の契約書を二枚差し出した。子鳴は契約書をざっと眺めると二枚ともに署名し、そのうちの一枚と割符を受け取った。銀郎が作った蘭児の売約板の右半分である。
この瞬間、子鳴は正式に蘭児の主人となり、蘭児は彼の所有物となった。
子鳴は腕を組むと、蘭児に向かって横柄に告げた。
「今日から俺がお前の主だ」
蘭児は目の前が真っ暗になった。
性別を偽ってまで買われたくないと思った男のものになってしまった。
「返事をしろ」
「はい、李家の若さま」
「旦那さまだ」
「はい、旦那さま」
蘭児は言われたとおりに彼を呼んだ。
「お前の一挙手一投足まで俺が管理する。俺が許すまで誰とも口をきくなよ」
蘭児は、緊張に身を固くしたまま神妙に頷いた。そうする以外にどうしようもない。




