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廃嫡殿下の御膳番  作者: kiyoaki
一、最初から存在しないもの ‐蘭児‐

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第5話 李家の若さま①

 組合に戻ると、早くも売り場用の掛札ができていた。

 小さな板に簡単に蘭児の紹介文が書かれている。板の端には穴が開いていて紐でつるすようになっていた。

 さすがに裸足ではみすぼらしすぎるという理由で、掛札と共に草鞋も与えられた。蘭児は履物を得てホッとした。これで足が汚れなくて済む。

 蘭児は掛札を首からかけ、その日いっぱい組合の市に立った。売り場は外から見えやすいようにと木の支柱を四本立て、上に布を張っただけの簡単な作りである。

 通りを向いて立ち、往来する人々に自分を見てもらい、買い手がつくのを待つ。

 売り場には、蘭児の他にも数人の少年が立った。

 若いが、蘭児と同じく特に技能を持たない、健康なこと以外に取り柄がない者たちである。特技や専門知識を持つものは別のところへ連れていかれ、少しでも高値になるよう競りにかけられる。

 丁を求める客の大半はそちらへ行くので、蘭児の周囲は寂しいくらいに閑散としていた。人の流れは途切れないものの、売り場まで入ってくる者は滅多にいない。

 冷やかしで来る者は、すぐに売人に追い払われる。ここは一応、官製市場であり、官吏が売っているため、売人の方がどことなく偉そうにしている。客との交渉はすべて売り場担当の売人が行い、丁は口をきいてはいけない決まりだった。

 世甫(せほ)という売人が蘭児の担当だった。

 彼も客が来ないので暇そうにしていた。同僚と話すか煙草を吸って時間を潰している。

 蘭児は、長い午後を売り場に立って過ごした。水は飲めるし、世甫に断れば厠(かわや)にも行ける。辛くはないが、ひたすらに退屈だった。

 日が傾き、夕刻を告げる警邏鐘が鳴り響く。

 家路を辿る人々の足が早まり、空が真っ赤に染まる頃合いだった。

 売り場の前を、馬に乗った男が通りかかった。白絹の長袍をまとい、腰には佩刀(はいとう)している。髷(まげ)にも同じ白絹を巻き、余った布は後ろに垂らしていた。徒歩の従者を二人連れていた。

 男は馬上から蘭児を見下ろした。

 蘭児は視線を感じ、男を見上げた。

 逆光で男の顔はよく見えない。男はそのまま馬で通り過ぎた。が、しばらくすると馬首を返し、ゆっくりと道を戻りながら再び蘭児を見た。蘭児も再度馬上の男を見上げた。男は去っていった。

 半刻半ほどして、蘭児はまた視線を感じた。

 振り返ると、先ほどの男が馬を止めてこちらを見ている。何回も同じところを往復しているからか、従者は困惑の表情を浮かべていた。

 とうとう男は馬を降りた。

 蘭児の前までやってくると、顔をずいと近づけて、彼女の顔を穴が開くほど見た。

 男は、雷よりは若く見えた。

 背が高く整った顔立ちだが、不躾な視線に高慢の気配がする。上衣の襟元がはだけている。目のふちがほんのり赤くなっており、酒の匂いがした。酔っているのかと、蘭児は顔を背けたくなった。男のねっとりと絡みつくような視線に、生理的な嫌悪を感じた。

 男は視線を下に向けた。

 蘭児が首から下げている札を読んだ。そして驚いたように「男かよ」と呟いた。

 ようやく客が来たかと、世甫が一足飛びでやってきた。

「おや、李家の若さまじゃないですか。丁をお求めですかい」

 李家の若さまと呼ばれた男は、興が醒めたかのようにフンと鼻を鳴らした。

 世甫を無視すると、くるりと踵(きびす)を返した。従者に手伝わせて馬に跨ると去っていった。

 世甫はなんでもないとでもいうように、蘭児の肩をぽんと叩いた。酔っぱらいが来て売りものを冷やかしていった、ただそれだけのことのようだ。


 日が暮れると市場は店じまいとなった。

 蘭児たち丁は組合の二階の部屋に連れていかれた。床には薄い寝具が置いてある。ここに寝泊まりするらしい。

 雷は男と女は別の部屋で寝泊まりすると言ったが、他の少年たちも同じだった。一緒くたにされたことを残念に思ったが、致し方のないことだった。

 夕飯は饅頭二つと白湯が配られた。それを食べてしまうと、蘭児は早々に寝具を敷いて横になった。

 丁同士が会話することも禁じられている。

 部屋の戸は常時開け放たれたままで、警邏鐘が鳴るたびに世甫やその他の売人が見回りにやってくる。

 一番安い商品とはいえ、逃亡や丁たちが不必要に親しくなることを警戒しているのだった。売れるまでは組合で寝起きし、毎日市に立つことになる。蘭児は寝てしまうことにした。寝てしまえば、余計なことを考えずに済む。


 翌日も蘭児は市に立った。

 相変わらず客は少なく、売り場に入ってくる者もまばらだった。

 昼近くになって、蘭児は視界の端に見覚えがあるものを認めた。

 昨日やってきた男、李家の若さまが通りを挟んだ向かいに立っている。従者は連れず一人だった。身だしなみはきちんとしており、日よけのためか笠をかぶっている。

 彼は何をするでもなく腕を組んで、ただ通りを挟んで市に立つ蘭児を見ている。ただ見ているのだ。飽きもせず、じっと見ている。まるで彼女を厳しく吟味するかのように。

 晩秋にしては珍しく暖かな日だったが、蘭児は背筋が寒くなるのを感じた。売りものなのだから見られて当然であるし、咎められることでもないが、得体の知れない視線が不気味だった。

 若さまは時々姿が見えなくなったが、しばらくすると戻ってくる。彼は日がな一日、市が閉まるまで蘭児を見ていた。


 その翌日も、李家の若さまはやってきた。さすがに三日目ともなると、世甫や他の売人たちも蘭児が目的と気づいた。異様な関心を持っていることを気味悪がった。

「また来ているのか、李家の馬鹿坊は。営業妨害てわけじゃないが、どうにも気持ち悪いな」

「しっ、声が大きい。聞こえるぞ」

「構うもんか。何もできやしねえよ」

 とひそひそ話している。

 蘭児は彼らの話から李家の若さまの名を知った。

 李子鳴(りしめい)というらしい。その後も乱暴者、酒乱、色情狂、寝取り魔、トンチキ野郎といかがわしい単語やろくでもない噂ばかりが聞こえてきた。どうやら彼は悪い意味で有名人のようだった。

 蘭児は憂鬱になった。

 自分の何を気に入ったのかわからないが、早く興味を失って欲しいと思った。

「蘭児」

 不意に大声で名を呼ばれた。

 声の方へ顔を向けると、先日別れた雷が必死の形相でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。彼は次の仕事を得るため、都にとどまっていた。

 雷は売り場に飛び込むと、世甫に断って蘭児を売り場の裏手へ連れ出した。組合から離れることはできないためだ。

「おじさん、どうしたの」

 周囲に誰もいないのを確認すると、雷は堰(せき)が切れたようにまくしたてた。

「おい、一体どうなってんだ。たまたま通りがかっただけだが、お前を見て目が飛び出るかと思ったぞ。売り場も違うし、意味がわからん。お前、お前は……男として売られているじゃないか」

「男? なんで?」

 蘭児も寝耳に水である。雷は、蘭児が首から下げている掛札の一点を指さした。

「だって、お前……それ『男子也(だんしなり)』って書いてあるぞ。蘭児、男、齢十五、東南生まれ、身体頑健……」

 読みあげる雷の声は動揺から震えている。

 蘭児は掛札をまじまじと見た。そこで初めて彼女は「男」という字の意味を知った。

「ああ、だから……」

 蘭児はようやく合点した。世間を知らないゆえに組合での暮らしはそういうものと思っていたが、実は根本から間違っていたのである。

 自分は衣類すら満足になく、父の服を着ている。

 顔は殴られて腫れていた。都へ来てみれば丁になるのは男ばかりで、組合の売人たちも少年たちをさばくうちに蘭児も男だと思いこんだ。

 男で登録されてしまったので、売り場も寝泊まりする部屋も少年たちと同じだったのだ。

「妙に買い叩かれておかしいと思った。女の丁なら男より高く売れるはずなんだよ。あいつらお前を男だと勘違いしたんだ。ありえねえ。どうやったら男と女を間違えるんだよ。杜撰(ずさん)にもほどがある」

 雷は呆れたり怒ったりしたが、こうしていても埒があかない。意を決して言った。

「今からでも遅くない。お前は女だと言って再度登録し直してもらおう。このままじゃお上を謀ることになるし、お前は相場より安く売られちまう」

 と行きかけた雷の袖を、蘭児は慌てて掴んだ。


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