第21話 天国幽閉①
蘭児が隆善の指導を終え、恐ろしく長い一日を締めくくったのは深夜の日をまたぐ頃だった。
朝一番に子鳴に買われ、都を連れ回され、円華宮に入り、廃嫡殿下なる貴人に会わされたものの主人の子鳴に置き去りにされた。急遽、寧の弟ということになって宮を回り、料理長の隆善に託された。怒涛の一日だった。
疲労困憊で北の住居房へ戻ると扉の前には火が焚かれ、室内の手燭にも灯りが点されていた。
蘭児は着の身着のまま寝台に潜り込んだ。まぶたが重くて眼球に貼りつきそうだ。
以依が届けてくれたのか、新品の寝具が寝台の脇に積んであったがそれを敷いている間も惜しかった。横になると目を閉じ、泥のように眠ってしまった。
深夜、人がいるような気配がして目を開けた。
卓上の灯りはついたままで、火に照らされた室内の壁に黒く細い影が揺れている。誰かが寝台の傍まで来た。横になった蘭児に影がさしかかる。
「……兄さん?」
寝ぼけながら蘭児は声を発した。
寧が戻ってきたのだと思った。影はその場で少しじっとしていたが、やがて部屋を出ていった。遠ざかる足音と共に、蘭児も深い眠りに落ちた。
……と思った瞬間、頭が割れそうなほどの胴間声が響いた。
「おい、起きろや小僧。朝だぞ」
蘭児は飛び起きた。声がした方を見ると、窓の外に隆善が立っていた。
「明日からは来ねえからな。日の出前にてめえで起きろよ」
蘭児の顔を見ると、隆善は大股で去っていった。
仕事は夜明け前から始まる。
空は墨を撒いたように黒々としている。蘭児は急いで身支度すると部屋を飛び出し、御膳房へ駆けていった。
御膳房では、料理人たちが総出で早餐の支度をしていた。
皇族には一日二回、華餐と呼ばれる正式な食事が供される。上六ツ刻(午前六時)ごろから始まる早餐、下二ツ刻(午後二時)ごろから始まる午餐である。
その他の時間は、皇族が所望したときに間食という軽食を出す。
底冷えする朝だったが、御膳房は暖かかった。
湿った熱気が充満している。
ここは、二十四時間いかなるときも対応できるように火を絶やさない。料理人たちは昼勤、夜勤の二交代で常に御膳房に詰めている。高価な食材や器、陶器類を置いているため、常に人がいるようにしている。
賄い用の鍋には、常に湯が沸いている。
蘭児は白湯を飲んで喉を潤すと、御膳房に隣接する器部屋に入った。
四方の造り付けの棚に何十という小皿や染付大皿、器、椀、酒器、茶器、調味料を入れる小壺、金の王龍や鳳凰、麒麟、霊亀の四瑞が彫られた重箱、金物類、布巾などが整理されて並んでいる。
蘭児は昨日隆善に教わったとおりに、食器類の準備を始めた。
銀盆を乾いた布で磨き、清潔な木綿の布を敷き、象牙の箸を一膳、縞黒檀の箸を三膳、予備の銀の菜箸を三膳、れんげや大小の匙といった食卓用の金物を並べた。
料理人が顔を覗かせて言った。
「おい、薬味ができたぞ」
「はい」
蘭児は木の盆に、薬味用の小皿や小壺を乗せて調理部屋に戻った。まな板の上に刻んだばかりの葱や、すりたての生姜、大蒜が並んでいる。
蘭児は小壺に塩、胡椒、沙糖、醤油、酢、ごま油などを詰めた。小皿に薬味の葱、生姜、大蒜を盛る。
器部屋から薬味用の銀盆を持ってきて、小壺や薬味皿を慎重に並べた。壺や皿の配置もすべて決まっている。
準備が終わると、食器を乗せた銀盆を持って内院へ入った。
寧が待っていた。彼は蘭児が持つ盆を確認すると、進膳房という皇族が食事をするための部屋へ連れて行った。
中庭の池のほとりには樒や沙羅双樹、紅葉などが植えられており、進膳房からはそれらが一望できた。
庭に面した扉を開け放てば、美しい庭園を眺めながら食事ができる。華餐はこの部屋で供する。
進膳房へ入ると、正面に長方形の大きな黒檀の食卓と背もたれのある椅子が置かれていた。机に向かって左手に黒檀の低い平台がある。
蘭児は食卓の上に食器の盆を置いた。
殿下が使う食器と予備のものを分ける。予備は平台に置く。寧が逐一、配膳の作法を教えた。蘭児は言われた通りにきっちりと配膳した。
寧はひととおり教えると部屋を出ていった。
蘭児は御膳房と内院を何度も往復し、薬味の盆や白湯の入った鉄瓶、水の入った瓶、手洗い用の桶などを運び込んだ。
警邏鐘が上六ツ刻を告げて少しした頃、進膳房に殿下が入ってきた。
黒絹の長袍に、毛織の上衣を羽織っている。顔周りともみあげ以外の後ろ髪を上下にわけ、上の部分を輪結びにしていた。顔がすっきりして見えた。
杖を使い、不自由な右足を引きずりながら一歩一歩進む。
蘭児は食卓を回り込んで椅子を引いた。殿下が着席した。寧も入ってきて、殿下の左隣に立った。
「殿下、本日から蘭児が御膳番を務めます」
蘭児は食卓の正面に立った。
殿下は寧から聞いたのだろう、うつけの振りはしていない。無表情のまま蘭児を見た。
蘭児は、何度見てもきれいな顔だなと思った。
右半面は一見するとおどろおどろしいが、皮膚が赤く見えるだけで慣れるとなんてことはない。むしろ、左半面の美質をより引き立てているような気さえした。
「どうした、始めろ」
寧の鋭い声が飛ぶ。蘭児は教えられた通り膝を屈めて拱手した。しきたり通りに挨拶をした。
「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、我らの偉大な香宮殿下。下臣が、おはやう始まる華餐の御膳番を務めさせていただきます」
午餐の場合は、「おはやう始まる」が「陽だまりうつろう」になる。
蘭児は御膳房へ行き、前菜の盛り合わせの大皿を持った。殿下に出す皿は、銀の深い盆に入れられ必ず蓋がしてある。進膳房へ戻ると、平台へ置き、蓋を開けた。
中には六つの小皿が入っていた。
煮卵、くらげと鶏肉と胡瓜の酢醤油あえ、牛と羊と山羊の乳で作った三種類の乾酪(チーズ)、蕪と大根の香のものが乗っている。
乾酪は早餐に必ず出る。どれも初めて見る料理だった。食材もかろうじて、卵や鶏肉、野菜がわかるくらいである。




