第18話 円華宮の同僚①
蘭児は途方に暮れていた。
助け起こそうとした廃嫡殿下は白檀の杖を使って自力で起き上がり、倒れ込むようにして再び椅子に腰かけた。
そのまま部屋に入った時と同じようにぼうっとしている。
続く沈黙に耐えかねて、蘭児は思いきって声を出した。
「あの、何か私にできることはありませんか」
返事はなく、反応もなかった。
蘭児に視線を向けることもない。許容も拒絶もない。元からそこに存在しないもののように、まるっきり無視を決め込んでいる。
蘭児は困ってしまった。黙って突っ立っているほかなかった。
ようやく寧が戻ってきた。
蘭児を見ると戸口を指差して「出ろ」とだけ言った。蘭児が回廊へ出ると、寧は戸を閉めた。
蘭児は、壁に隠れてそっと中の様子を窺った。
「殿下、まいりましょう」
寧が小さな声で囁いている。
廃嫡殿下は再び杖を使ってゆっくり立ち上がった。寧に支えられながら、奥の間へ消えた。
蘭児は壁から離れた。彼女は確信した。少なくとも、廃嫡殿下の耳は聞こえている。
寧が回廊へ出てきた。
柱の影に立つ蘭児を見つけるとつかつかと寄ってきた。
「旦那さまは?」
蘭児が尋ねると、寧は顔を顰めた。
「李公子は帰った」
「帰った……?」
「お前を置き去りにしてな。信じられん」
寧は蘭児を上から下まで眺めた。
「こうなってはどこへなりと行け、と言いたいところだが……」
大仰にため息をついた。とっとと追い出したいがままならないという苦渋が滲んだ。
「この宮に入った者は外へは出られない。そういう決まりだ。出られるとしたら、死体になってからだ」
恐ろしく物騒なことを言いだした。
蘭児は唖然とした。壮麗な宮殿のように見えるが、ここは死刑囚が入る牢獄のようなところなのだろうか。
「えっと、出られないっていうのは……」
「そのままの意味だ。ここには入れはしても、出られはしない。逃げようとすれば兵士に斬られる。そのための兵だ」
「寧さんも?」
「そうだ。俺も長らくここに閉じ込められている」
「旦那さまが出られたのはなぜ……」
「あの方は法の外におられる」
意味がわからない。蘭児は困惑するばかりだった。
ここから出ようとして兵士に斬られたくはないし、死にたくもない。それに、もし宮を生きて出られたとしてもどこにも行く当てはない。
「じゃあ私はどうすれば」
「……それを今考えている」
寧は苦虫を噛み潰したような顔をしつつも、何事か思案している。
蘭児は子鳴の言ったことを思いだした。
確か彼はこの宮を人手不足と言っていた。自分を好きなように使えとも。ならばと、蘭児は言った。
「ここから出られないなら、私を雇ってください。ここで働かせてください。なんでもやります」
「必要ない」
寧の声はそっけない。
「旦那さまは人手が足りないと言っていました」
「丁を使うほど落ちぶれちゃいない」
寧は怒ったように言った。ゾッとするほどの冷たい階級意識と差別感情が滲んでいる。
「ここは宮殿だぞ。誰がお住まいになっていると思っている」
「……廃嫡殿下」
それしかわからないので、蘭児は仕方なく言った。失礼な呼び方であることくらいはわかる。
「皇太子殿下だ」
「皇太子……」
蘭児は驚いた。あの方が皇太子とは。本来なら一生お目にかかることはない、お声も聞くことはない雲上人ではないか。
「皇太子がどういう方かくらいはわかるだろう」
「次の天子さまになられる方です」
「そうだ、皇帝陛下に次ぐこの国で二番目に偉い方だ。ここは仮の香宮、皇太子殿下がお住まいになっているところだ。殿下は重病であらせられる。先ほどの有様を見ただろう。今ではこの世の何もおわかりにならない。殿下のお世話をするのが宮の者の務めだが、お世話には特別の技能と経験が必要だ。お前のように卑しく無能の者の手には負えん」
「確かにお身体は不自由そうでした。……でも殿下は正気ですよね」
蘭児は寧の目をまっすぐ見て言った。
「旦那さまの前ではうつけのように振る舞っていたけれど、本当はうつけじゃない。目に光がありました」
「……」
寧は押し黙り、蘭児を睨みつけた。
殺意じみたものを感じて、蘭児は身を竦ませた。重い沈黙が流れた後、寧は言った。
「お前……飲食回りのことはできるか」
「できます」
蘭児は即答した。炊事はできるのかと問われている。
料理ならできる。村では毎日のように食事の支度をしていた。稗や粟の粥を作り、野鳥や川魚、蛙に串を刺して焼いた。
「入浴の介助は?」
「できます」
幼い弟妹を風呂に入れるのは蘭児の仕事だった。
二人いるため手間も二倍で大変だったが、弟妹を溺れさせたことは一度もない。
「洗濯も掃除もできます。他のことも教えてもらえれば全部覚えます」
「洗濯や掃除はいい。別の者がやる」
寧は腰に手を当て、仕方ないとでもいう風に首を振った。
「とりあえず、まずはそのみすぼらしいなりをなんとかしろ。見苦しいにもほどがある」
蘭児は自分の着ているものを見た。
父の冬服だがそんなにひどいものだろうかと思った。これでも蘭児の家では一番いい服だった。
「内院を出て左にある東屋、そこの被服房へ行って制服を一式貰え」
と寧は言った。制服を貰ったら風呂に入って身支度しろとも。
蘭児は喜んだ。言葉はきついが、どうやらここに置いてくれるらしい。仕事ももらえるようだ。寧の気が変わらないうちにと早速にも歩きだす。
数歩進んだところで、寧が「待て」と呼び止めた。
「いいか。お前の素性、この内院で見聞きしたこと、殿下に関するいかなる些細なことも他言無用だ。誰にも話すな。もし話したら」
蘭児は背を向けたまま、息を呑んだ。
「お前を殺す」
寧はあっさりと言い放った。
蘭児は戦慄しつつも、彼ならばやるだろうと思った。声は静かながら、鬼気迫るものがあった。




