第17話 最後の昼餐③
正鵠が箸を止めた。心配そうに凰琳を見た。
「崔妃、もっと食べよ」
「はい」
「気分が悪いのか」
「いいえ、そうではありませぬ」
すでに悪阻は収まっている。
凰琳は己の食事よりも、ただひたすら夫を見ていたかった。
「腹には子がいるのだ。そなたは私よりもよほど多く食べねばならぬ。油の多いものや甘いものは辛かろう。酢の物なら食べられそうか」
「はい」
「塩が効いたものはどうか」
「はい」
正鵠は女官に命じて、凰琳の皿に柚子(文旦)で香りづけした酢の物と塩豆腐を入れさせた。さらに自分の皿にあった香味野菜を入れた塩味の菜包を半分にちぎると、凰琳の皿へ入れた。
「やはり共食するに限るな。食べるものこそが、そなたを雄弁に語ってくれる。そなたを知らねば、案じてやることもできぬ」
としみじみ言った。
凰琳は胸がいっぱいになった。正鵠の優しさが身に染みて、息が苦しいくらいだった。
彼女は確信した。今が、この瞬間が、おそらく自分の人生の絶頂なのだと。こんな素晴らしい人を、半年も占めていられたのは本当に類まれな奇跡だったと。
彼の優しさは、これからは他の女人にも与えられる。
公平に、平等に分け与えられる。来月には珂麗麗が、再来月には劉丞相の孫娘が、冬までには夏民部相の娘と姪が入宮する。他の貴族たちも先を争って一族の娘を送り込む。貴族の娘だけではない、いずれは東遼公の息女も……。
もし郷主が入宮したら、皇族の出自であることだけが誇りの凰琳は到底太刀打ちできない。子を産んだとしても、ただの嬪の一人として落ちぶれていくだけである。
後宮に妃嬪は増え続ける。妻は大勢いても夫はただ一人、正鵠が妻たちに誠実であればあるほど、凰琳への訪いは間遠になってゆく。
凰琳は頑張って酢の物を食べ、塩豆腐や菜包も食べた。正鵠からの愛情だと思った。いずれは失ってしまう儚い幸福であると思った。舌の上で酸味と塩味が混ざり合って塩辛くなった。
主菜が終わると、果物や菓子が出た。
凰琳はいつものように茶を煎れさせようとし、そこで先日珂麗麗にもらった白牡丹茶のことを思い出した。彼女の訪いは不愉快だったが、茶自体は大層美味だった。
「殿下、実は先日、珂家の姫君が挨拶にいらしたのです。その時にお茶をいただきました。皇后さまからの下賜のお品だそうです。折角ですので喫しましょう」
凰琳は崔夫人に命じて、茶器一式と白牡丹茶を持ってこさせた。凰琳に届いた物は、崔夫人がすべて厳重に管理している。
茶は凰琳が手ずから淹れることにした。茶壺(急須)に茶葉を入れかけたところで、彼女ははたと手を止めた。
この茶は珂麗麗と自分が喫している。
何も問題はない代物だった。とはいえ皇太子の口に入るものは、例え杞憂であってもしきたりを守り、万全を期すべきだろう。
凰琳は箱に入った茶を、御膳番に向けて差し出した。
「これも頼む」
御膳番は取次ぎの女官から茶を受け取り、茶葉をひとつまみ口に入れた。よく咀嚼して呑み込んでから言った。
「大事ございません」
凰琳は安心し、茶壺に茶と白湯を入れた。茶碗に茶を淹れると正鵠に差し出した。それから自分用にも茶を淹れた。
正鵠は一口、二口とゆっくり茶を啜った。
凰琳は塩辛いものを食べて喉が渇いていたので、茶碗一杯をするりと飲み干した。茶はこの前飲んだ時よりも、苦味が強く感じられた。
「珂氏か。珂氏が入宮すれば、そなたは辛い思いをするな」
正鵠は顔を曇らせた。
「いいえ、辛い思いなどいたしませぬ」
凰琳は首を振った。嘘だった。
「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、私たちの偉大な白鳳殿下。珂家の姫君が入宮すれば、この世に幸せな女人が一人増えるだけでございまする。殿下のような素晴らしい方と連れそえて、幸せにならぬ女人がおりましょうか」
凰琳は悲しみを隠しつつ、正鵠を見つめて微笑んだ。
女に生まれて、この人と出会って結ばれて、何をどうして愛さずにいられようか。いくら愛してもけして占められぬ人と知りながら、どうして……。
「私は殿下と結婚できて、本当に幸せでございまする。殿下が娶ってくださらねば、今頃はきっと尼寺で泣き暮らしておりましたでしょう。寄る辺なき私を殿下は拾ってくださり、救ってくださって……」
そこまで言ったところで、凰琳は咳き込んだ。
胸の辺りに鋭い痛みが走った。痛みは強烈な熱となって彼女の喉を灼いた。凰琳は胸を押さえたまま、よろよろと立ちあがった。また激しく咳き込んだ。椅子が倒れて大きな音を立てた。
「崔妃、いかがした」
正鵠が跳ねるように立ち上がった。
凰琳は手で口を押さえた。鉄さびたどろりとしたものが、口内に充満する。堪えきれず吐き出した。
手を離すと真っ赤なものが視界に映った。大量の血だった。
「え……」
凰琳は血まみれの手を茫然と見つめた。
あふれた鮮血が指の間から滴り、腕にだらだらと流れてゆく。どこからか悲鳴が聞こえた。
何が起きたのかわからないまま、正鵠の方を見て彼女は驚愕した。
正鵠は真っ青な顔をして口を押さえていた。彼の口からも血が滴った。がくがくと全身を震わせて床に突っ伏した。
四つん這いになりながら、必死の形相で口の中に指を突っ込んだ。飲んだものを吐き出そうとしている。辺りは爆発したような騒ぎになる。
「でん、か……。そ、んな」
凰琳は真っ赤な手を差し伸べてふらふらと歩いた。円卓を回り込んで倒れた正鵠に近づこうとした。
「崔妃さま、逸琳、逸琳……ああああああ」
崔夫人が叫びながら駆け寄ってくる。
夫人の腕に抱きとめられた瞬間、身体の力が抜けた。
凰琳はのけぞって天をぐるりと仰ぎ、その場にくずれ落ちた。視界が暗転した。彼女の瞳は大きく見開かれたまま、この世ではない永劫の闇を映した。




