第16話 最後の昼餐②
それにしても、と正鵠はおもむろに肘をつき、右手を口元に当てた。
「そなたからの文は驚いた。そなたがここまで情熱的なおなごであったとは思わなかった。私に果たしてそこまでの魅力があっただろうかと考えてしまった」
ふいと目を逸らし、少年らしい初々しさで頬を赤らめた。
年の割には落ち着き、大人びているようでも妻からの熱烈な求愛はさすがに気恥ずかしかったようだ。
凰琳もつられて頬を赤らめた。
「年甲斐もなく、はしたないことを申し上げたかもしれませぬ。ですが、文に書いたことは私の偽りない正直な気持ちでございます。一目でも殿下のお姿を拝見しとうございました。本日もお時間が許す限り、お傍にいとうございまする」
「それは構わん。私も夜までここにいるつもりだ」
と言いながら、正鵠は近づいてくる衣擦れの音に振り返った。
香宮付きの女官がやってきて、正鵠に耳打ちした。
彼は満足そうに頷き、凰琳に向き直った。
「さて、腹がすいたな」
凰琳は慌てた。そういえば昼を過ぎて午餐の時間だったかもしれない。
「でしたら、一度香宮へお戻りにならなければ。お見送りいたします」
いや、と正鵠は立ち上がりかけた凰琳を制した。合図のように悪戯っぽく笑った。
「ここへ運ばせる。実を言えば、都に戻る途中で御膳房に使いを出しておいた。支度が整ったようだ」
「……ですが、華餐は」
と凰琳は一応は諫めた。彼の企みはわかっている。
「午餐ではない、少し手の込んだ間食だ」
食事ではない、おやつであると正鵠は主張した。
「そうですか、間食ならば問題ございませぬ。私もお叱りを受けずにすみまする」
凰琳は、周囲にも聞こえるように少し大きな声で言った。
「そなたは食べたのか」
「いいえ……」
正鵠が来るとなっては、迎え支度に大わらわで、食事どころではなかった。
特に腹は空いていなかったが、それを言っては正鵠の気持ちを台無しにするとわかっていた。
「では仕方ない。腹をすかせた妃の前で、私一人が間食するわけにもいくまい。そなたも相伴せよ」
「はい、お供いたしまする」
凰琳は神妙に頷いた。変な癖をお持ちではあるが、夫の命とあらば従わないわけにはいかない……という風に振る舞った。
正鵠は凰琳のところへ通ってくると、なぜかともに食事をしたがった。
皇族は、食事は必ず一人でとるのがしきたりである。皇室典範でも明確に皇族とその家族の共食は禁じていた。いかなる場合も、親子や兄弟姉妹、夫婦で食卓を囲むことはない。後宮では、皇帝も皇后もその他の妃も子女も遵守しなくてはならない厳格な掟だった。
凰琳も皇族としての規範を厳しく躾けられて育ったから、ものごころついた時から食事はいつも一人だった。
父や兄と暮らしていたときも食事時になると自室へ戻り、使用人が運んでくる料理を一人で食べた。兄も必ずそうしていた。父には夫人が何人かいたが、妻妾らと共に食べている様子はなかった。孤食を疑問に思うことはなかったし、むしろ皇族として当たり前の気品ある振る舞いだと信じていた。
だから、正鵠が初めて共食しようとしたときは本当に驚いたし、止めようともした。官民の模範となるべき皇太子が、規範を破ろうとするのは恐ろしくも感じた。
けれども、今は彼の好きなようにさせていた。
正鵠は凰琳とは違って、宮城を出た外の世界を知っている。案外、宮城の外では、孤食の掟はあってないようなものかもしれない。行事や祭事、地方においてはとうの昔になあなあになっており、皇族も複数人で食卓を囲んでいるのかもしれなかった。
そもそも家臣らの歓待や宴は禁じられていないのだから、皇族が二人以上招かれた場合は孤食にならない。
宮城では多くの人の目があるゆえに、正鵠も規範を守っているが、それも食事でないと言い張ればどうにでもなる。
しばらくして、間食を装った午餐の料理を捧げもった行列が香雪殿へやってきた。
後宮であるため、男たちの大半は入り口で待機し、料理は中の女官に引き渡された。
例外もあった。三人の御膳番が露台までくると、正鵠の後ろに控えた。いずれも健康な若い男である。
彼らは毒見役だった。皇帝と皇太子に供される食事の毒見は徹底されており、省くことはできなかった。御膳番は料理が冷めてしまうのを防ぐため、複数人で担当する。
まず火腿(ハム)や高菜の胡麻あえ、鶉の卵の粕漬け、塩豆腐、鹿肉の膾、香のものなどが乗った大皿が出てきた。
御膳番はそれらを少しずつ小皿に取り、口に入れた。よく咀嚼して呑み込んでから、少し間を置き「大事ございません」と言った。その間にも二人の御膳番が酒や果汁を絞った水などを毒見している。
いずれも問題なく、凰琳と正鵠の食卓へ運ばれてくる。給仕の女官が酒を注ぎ、大皿から料理を取り分けて二人の前に置いた。
食事が始まった。正鵠は本当に腹が空いていたようで、品よくも旺盛に食べた。
凰琳は袖で口を隠すようにしながら少しずつ食べた。衆人監視の中、それも正鵠付きの女官や、御膳番の男たちもいる中で食事をするのは恥ずかしい心地がする。一挙手一投足をくまなく見張られているようで落ち着かない。
だが、目の前で様々な料理に舌鼓をうつ夫は、本来ならけして見ることができない貴重な姿である。何か眩しいもののようにも感じられて凰琳は目を眇めた。
料理は進行具合を見ながら、御膳房から一品ずつ運ばれてくる。
前菜が終わると主食で、沙糖と醤油で甘辛く煮込んだ豚肉と春菊を挟んだ肉包(点心)が出た。
次は羹である。白菜豆(白いんげん豆)と鶏肉の湯(スープ)が出てきた。
鶏ガラでダシをとり、鶏肉と白菜豆を煮こみ、葱、紹興酒、生姜、大蒜、塩で味つけした素朴な湯だった。正鵠と食事する際、この湯はよく出てきた。
以後は、主菜が続く。
干しあわびと卵の煮込み、羊肉と白菜の炒め物、あひるの丸焼き、鯉の姿揚げ、鴨肉の薄切り餡かけなど趣向をこらした料理が毒見を経て次々と出てくる。
円卓は皿や椀で埋め尽くされた。主菜の合間に、羹と主食がもう一品ずつ出てくる。正鵠はいずれもよく賞味した。
ひととおり味わうと、白菜豆と鶏肉の湯をおかわりした。女官もよく心得たもので、熱した炭を用意し、その上に湯の鍋を置いて冷めないようにしていた。
「殿下は本当に白菜豆の湯がお好きですね」と凰琳が笑うと「うん、まあ、そうかもしれぬ」と正鵠は曖昧に濁した。
彼は普段から、人にしても物にしても好悪を明らかにしない。好みがないわけではないのだろうが、公平を期するために発言を避けている節があった。
内心はどうであれ、表面上は何ものも贔屓せず、何ものも憎まない。それが天子となる者の正しき振る舞いであると教え込まれて育っている。
正鵠に仕える者たちは、彼の好みを推しはかりながら、試行錯誤を繰り返すしかない。




