第14話 名まで捧げても②
凰琳と兄はその後も宮城に住まざるをえず、母方の親族の援助で暮らした。凰琳は中堅貴族の崔家としては相応の、皇族としては随分質素な生活を送った。
皇太子である正鵠と結婚する際には、「結び金」が問題になった。
入宮に関わる諸支度および婚儀にかかる費用、通称「結び金」は、すべて妻側の持ち出しである。
妃嬪となる大貴族の娘は盛大かつ豪華に、そうではない娘は簡素な婚儀を挙げる。さらに家格や身分が下がって結び金が工面できない場合は、婚儀そのものが執り行われない。夜に通ってくる皇帝や皇太子と酒を酌み交わし、そのまま床入りである。
凰琳と崔家は、豪勢な婚儀を挙げられる莫大な結び金は用意できなかった。本来香宮に収めるべき持参金も用意できず、客人に振る舞う祝儀にも事欠いた。
林太博が金を出してなんとか身内だけの婚儀を執り行うことにし、家具や衣類などを支度したがそこが限界だった。むしろ困窮ぶりが伝わったのか、正鵠の方から後宮で生活するための援助があった。
凰琳はまともに入宮するのも難しい己の窮状を深く恥じた。皇太子の栄えある最初の結婚であるにも関わらず、自分は夫の面子を潰していると思った。正鵠もさぞかし落胆しただろうと思うと、胸が塞がる思いだった。
心痛の末に、彼女は自らの名を夫に奉ることにした。
大黎では、妻側の事情で十分な持参金や支度金を用意できない場合、妻は夫に「改名を申し出る」という風習があった。夫に好きな名前をつけてもらい、日々呼んでもらうことで、末長く愛されることを願ったのである。
凰琳は、本当は改名したくなかった。
逸琳は父がつけてくれた大切な名だった。
親からもらったものはすべて、何に代えても大事にしなくてはならない。それなのに、今や父の形見にも等しい名を捨てるなど親不孝の極みのように思われた。
何日も悩み苦しみ、思い詰めて、それでも名前しか捧げられるものがないと観念した後、彼女は自らのたっての希望であるとして正鵠に改名の儀を願い出た。
「何の取り柄もない私ですが、せめて殿下に愛される名となって気安く呼んでいただきとうございます」と阿った。
正鵠は喜び、数日考えた挙句、彼女に「凰琳」の名を与えた。
凰は一羽の雌雄同体、もしくはつがいの二羽で描かれる神獣・鳳凰の雌である。大黎皇家に好まれ、様々な意匠となって宮中を飾っていた。
正鵠は「大黎は鳳凰を神獣の王と崇めてきた。天子は鳳の化身とも称する。私はいずれ天子となる身。そなたは黎一族の生まれで同じ血を持つのだから、私の妻になるのなら凰がふさわしかろう」と言った。
凰琳は分不相応な名に驚き、恐縮もしたが、正鵠の思いやりを嬉しく思った。彼は凰琳を同族と見なし、黎氏の血筋を尊重してくれた。
一方、改名したことで兄との仲は拗れた。
兄は正鵠との結婚に反対し、婚儀にも出席しなかったが、改名を知ると烈火のごとく怒った。
「お前は父上からいただいた名を、あいつに媚びへつらうために手放したのか。序列一位の皇貴妃ならともかく、お前はお情けで叙せられた嬪なんだぞ。たかが凰の一字をもらったくらいで、骨を得た犬のように喜んで恥ずかしくないのか」
と詰った。
凰琳は兄の剣幕に怯え、泣きながら謝るしかなかった。改名は父を裏切り、兄を傷つける行為である自覚はあった。兄はすがる凰琳を振り切って出ていった。
父が去って以来、ずっと兄と二人きりで助け合って暮らしてきたのに、凰琳は結婚によってその絆も危うくしてしまった。その後も兄と顔を合わせる機会はあったが、他人行儀のようなぎくしゃくしたものとなった。兄は改名を認めず、あくまでも彼女を逸琳と呼び続けた。
凰琳はこみあげてくる悲しみを、淡々と文章にした。
文字という形で吐き出すと、少し気が楽になる。自分の心を、少し離れたところから見つめることができる。
夜が更けるにつれて正鵠のことも想った。
今夜も彼が来ないことはわかっている。
彼を慕うようになってから、凰琳の孤独な夜は一層辛いものとなった。
忙しいのは仕方がないが、別の嫌な疑念がよぎることもあった。もしや彼の臥所には別の女が侍っているのでは……と思うと、苦しくて仕方がない。
恋も知らないままに結婚し、結婚してから彼女は存在するかもわからない恋敵への狂おしい嫉妬を知った。
いや、女人だけでなく正鵠の限られた時間を占めるすべての事象に嫉妬していた。妬心にまみれた自分を浅ましいと思い、恥ずかしく感じている。最近の彼女の日記は、恋煩いにも似た深い懊悩で満ちていた。
寂しく孤閨を託つくらいなら、このまま朝まで起きていようか。それは腹の子によくないだろうか。また崔夫人に叱られてしまうだろうか……。
そんなことをつらつら考えながら、凰琳は文箱から薄桃色の紙を取り出した。
彼女は正鵠へ手紙を書くことにした。
音信不通の父や筆不精の兄とは違って、正鵠は凰琳が手紙を書くとすぐに返事をくれる。
返事はいつも短く、簡潔だった。余計な文言がなくさっぱりしている。
時には近侍らによる代筆にもなる。返事が出せない時も、必ず使いの者がやってきて手紙を受け取った旨や正鵠の近況を知らせてくる。とにかく何かしら反応をくれるのがありがたかった。
凰琳は紙を広げ、率直に自分の想いを綴った。
「あなたさまに逢いたい」と。




