第13話 名まで捧げても①
夜を告げる警邏鐘の音で凰琳は目を覚ました。
外はすっかり暗くなっている。
重い身体を起こすと、婢を呼んで湯を運ばせた。顔を洗って化粧を落とし、身支度を整えた。食欲はなかったが、食べないと身体に障る。簡単な食事を運ばせて食べた。
食事を終えると文机の前に座った。
引き出しから日記を取り出した。毎日ではないが、彼女は日記をつける習慣を持っていた。今つけているので五冊目になる。
日記を見つめていると、父が南へ行ってしまった六年前のことを思いだした。
その日、凰琳は出立する父をなんとか見送りに出たものの、別れが辛くて仕方なかった。
父の足にしがみついて泣きじゃくった。
黎大公は泣き続ける凰琳を困った顔で眺めていたが、やがて腰を落として、一冊の冊子を差し出した。
「逸琳、お前はあまりにも素直すぎる。大黎の皇族たる者、軽々に自らの心を周囲に知らしめてはならぬ」
逸琳、それが凰琳の本当の名だった。
父がつけてくれた名である。かつての名を思い出す時、凰琳は懐かしさと誇らしさと父恋しさで胸がいっぱいになる。
大公は言った。
「慶事があればおおいに喜び、愉快な時は笑えばよい。だが、負の感情は表に出してはならぬ。不安、憤懣、悲哀……これらに圧し潰されそうな時はぐっと堪え、努めて平静に振る舞うのだ。募る思いは日記に綴れ。字に、文にすることで心が整理され、落ち着きを取り戻せる」
凰琳は冊子を受け取った。
パラパラとめくったが、縦の行線が引かれた真白の紙が続くだけである。
「お父さまも日記をお書きになったの?」
「ああ。わしも子供の頃からつけてきた」
大公は頷いた。彼の場合、前日にこれまでつけてきた日記をすべて燃やしてしまっていたが。
「お父さまはいつ帰っていらっしゃるの」
凰琳は尋ねた。大公は答えなかった。
「またお父さまと一緒に暮らせるのですよね。私と兄さまとお父さまと三人で暮らせるのですよね」
凰琳は尋ねた。大公は答えなかった。
ただ置いてゆく娘をじっと見つめて言った。
「忍従せよ、逸琳」
号令が出た。大公を乗せた車が出立した。
馬と徒歩で大勢の供がつき従う。車が遠く、小さくなっていくにつれて凰琳はたまらなくなった。大好きな父と離れたくなかった。
父母は誰よりも大切に敬い、孝行しなくてはならないと教えられてきた。
母と死別した以上、孝を尽くせるのは父しかいないのに、どうして父と別れなくてはならないのか。
感極まると、崔夫人の手を振りほどいて車を追いかけた。声の限りに叫んだ。
「お父さま、行かないで。連れて行ってください。私も南へ行きとうございます。どうか私もお連れくださいませ」
日記帳を抱えたまま、涙を振りまきながら追いかけた。
凰琳の声は大公に届いていたはずだ。
けれど、車が止まることはなかった。凰琳は必死に駆けたが、とうとう裳袴を踏んで転んでしまった。
「逸琳、大事ないか」
追ってきた兄が凰琳を助け起こした。
凰琳は兄の手を振り払うと立ち上がった。
尚も走って追いかけようとしたが、あっけなく女官たちに取り押さえられた。
車が遠ざかっていく。父とはそれでお別れだった。
凰琳は人生で一番悲しかった日を思い出しながら、硯に水を入れ、墨をすった。日記帳を開き、日記を書き始めた。
父に似て筆まめな彼女は日記をしるすこと自体はまったく苦ではなかったが、内容は日々あった出来事を記録するというよりは、不平不満、悲憤、愚痴など鬱屈する負の感情を吐露するものとなっていた。
凰琳は自らの境遇を嘆き、これまでもかなわぬ願望を切々と書き綴っていた。
宮城を出たい。
一度も見たことがない大都を見物して回りたい。
都やその郊外にあるという別邸や城を訪ねたい。
地方の都市や町や村にも行ってみたい。
兄と共に南へ行きたい。
南黎にいる父に会いたい。
父と一緒に暮らしたい。
父に孝を尽くしたい。
特に宮城を出ることは一番の願いだった。
彼女は生まれてこの方、一度も宮城を出たことがなかった。宮城の外の世界を知らなかったし、知るすべもなかった。
父が南へ行ったあと、兄と凰琳はやむなく皇籍を離脱した。
父は南黎に発つ前に、異母弟である今上帝に我が子を皇帝の養子とし、皇位継承権を持たない準公と養女の位である準公主に叙して欲しいと願い出たが、皇帝は拒否した。
兄は公子、凰琳は郷主の地位を失った。
それは皇族に配分される収入、すなわち領地や城、化粧料、皇帝一族を名乗ることで受けられる様々な恩恵をも失うことを意味した。表向きは大公の皇籍離脱に伴って地位を返上した形になっていたが、事実上の剥奪であった。
凰琳たちは、黎氏を名乗ることも許されなかった。
皇籍を離脱しても、通常は黎姓を名乗ることができるにも関わらずである。父が南黎の高家の養子となり、黎姓を失ったからとされたが納得するのは難しかった。凰琳は母の実家である崔氏を名乗るほかなかった。
崔夫人は凰琳を宮城から連れ出し、夫と暮らす自分たちの屋敷で養育しようとした。
だが、皇帝は大公の子供たちが宮城を出ることを許さなかった。黎姓を名乗ることができず、もはや皇族ではない甥と姪をあえて宮城にとどめたのである。
崔夫人は「皇帝陛下は大事な姪御である姫さまを心配なさっておいでなのです」と言って慰めたが、凰琳には理不尽な仕打ちに思えた。
毎年新年を迎えると、兄と共に皇帝へ挨拶に行ったが、親族の中でも一番後に回され、拝謁の時間も短かった。
皇帝は意図して兄妹に冷淡だった。
罪人でも見るような蔑みの視線を投げるだけで、一切声を発しなかった。皇帝が大公の子を毛嫌いしていることは、その他の皇族や臣下にも否応なく伝わった。
皇帝の不興を買いたくないと、二人から人は遠ざかった。
凰琳は何度も南黎の父に手紙を送った。
使いの者は手紙を確かに届けたが高家に入り、高一徳となった父に会うことはできなかった。いくら待っても返事は来なかった。
父は高家の娘と結婚し、すでに新しい家庭があった。妻の高氏に遠慮したのかもしれない。
凰琳は、男である兄からなら返事が来るかもしれないと考え、兄の名で手紙を書いたり、兄に書かせたりもした。それでも返事は来なかった。




