1-7 ことの顛末
六限目の授業が終わると、周りの生徒たちは部活動や下校の準備を始めた。学生鞄を担ごうとしたハルに、わたしは声をかける。
「ハル、少し時間いいかな」
わたしはハルの腕を掴んで、例の踊り場に向かった。ハルには奥の壁を背にして立ってもらう。
高校生の男子を引っ張るのは、想像以上に大変だった。吐く息が苦しい。スカートの上から膝を押さえて、呼吸を整える。
「フユ、大丈夫? いつもと様子が違うけど」
「大丈夫だから、ちょっとだけ待って。ここなら誰にも邪魔されない」
肺に詰まっていた空気をようやく吐き出した。顔を上げて本題を告げる。
「セツカちゃんからの伝言。ハルも聞きたいでしょ?」
一瞬でハルの目の色が変わった。
わたしは角度を気にしながら、ハルの左耳にスマホを当てた。ストラップの御守り――わたしの恋のおまじないが揺れている。
ハルは録音音声を聞こうと耳をスマホに近づけた。わたしは踵を持ち上げて、左手をハルの肩に添える。
親指で録音を再生する。
――受験は来年だけど、勉強は頑張ってる?
――それから……夏祭り、三人で行こうよ。みんなで浴衣を着てさ。
もう一度、再生。同じ音、同じ言葉のはずなのに、ハルは一瞬も聞き漏らさないよう集中している。
慎重にスマホを離すと、ハルは照れ臭そうに前髪を掻いた。
「分かった。楽しみにしてる」
「うん、わたしも楽しみ。今日は用事があるから、先に帰ってて」
ハルは少し困惑しながらも、素直に頷く。普段通りを装っていたつもりだったけど、いつもと様子が違うわたしに違和感を持ったのかもしれない。
わたしは踊り場に一人、ぽつんと立っていた。
階段を一段、また一段と登っていく。
もちろん、屋上は開放されていない。
屋上に繋がる扉の前、行き止まりの階段で、女子生徒がわたしを見下ろしている。
彼女は今にも泣きそうに瞳を潤ませていた。誰かを睨んでいないと、涙が落ちてしまうのだろう。唇を一文字に結んで、食いしばっている。
林檎みたいに、耳まで真っ赤だった。
震える声で、わたしに問う。涙が、ぽつりと落ちた。
「あなた、どういうつもり?」
彼女の反応から、ハルに話さなかったもう一つの推理が正しかったのだと、わたしは理解した。
「呼び出したのに、待たせてごめんね。フミちゃん」
◇
昼休み、北山夏希からのメッセージがスマホに届いた。
――今日の放課後、屋上で待っててくれない?
――柊木さんが、話したいことがあるんだって。
他ならぬマネージャーからの連絡だ。西宮文美は待ち合わせ場所を不思議に思いながらも、夏希からの伝言に従うことにした。
放課後、彼女は屋上扉のドアノブを掴む。当然のように扉は開かなかった。
◇
わたしたちを馬鹿にするように、どこかでカラスが一声、鳴いた。
「フミちゃんも、手を出すつもりはなかったんだよね。そうじゃなきゃ、おまじないのために、片想い相手の使用済み紙コップを手に入れようなんて真似しない」
西宮さんは涙が落ちないように両目を右手で擦る。
「あなた、それが分かって、あんな、見せつけるようなことをしたの?」
「うん。あれを見ていたなら、嫌でも分かるでしょ? 万が一、いや億が一でも、フミちゃんにはチャンスはないよ」
「そんなこと、分かってるって!」
重苦しい叫びが階段に木霊した。
わたしは彼女の、恋する少女のような横顔を思い出す。彼女が本当に見ていたのは、桜町春だった。
西宮さんが本当に好きな相手はハルだった。
もし西宮さんの片想い相手が桐山くんだったなら、わざわざ、用務員さんがごみを回収する金曜日に計画を実行する必要はなかった。別の曜日に、北山さんから印付きの紙コップを桐山くんに渡させて、その後にゴミ袋から使用済み紙コップを回収すればいいのだ。部員の桐山くんなら、紙コップに口を付ける瞬間はいくらでもある。部活動があるごとにチャンスはあるのだから、根気強く粘り強く機会を窺えばいい。金曜日でなければ、試合時間を四分延ばす必要すらない。
あの日だけ、男子バスケ部はいつもと違っていた。ハルが練習試合の助っ人に入ったのだ。
だから西宮さんは、用務員さんがごみを回収する午後五時三〇分より後に、部員たちに紙コップを捨てさせなければならなかった。
彼女が試合時間を延ばすという手段を取ったもう一つの理由――休憩時間ではなく、試合時間を延ばした動機。
わたしには、想像ができてしまう。
練習試合に参加した日、ハルは水筒を持っていた。同じクラスの西宮さんはそのことを知っていた。試合後、もしハルの体力が少しでも残っていたなら、彼は部の備品を使うことを遠慮して、所持していた水筒で水分補給するかもしれない。目的の物のために西宮さんは、その可能性を考慮しなければならなかった。この日を逃せば、次はいつハルが来てくれるか分からない。
だからハルが紙コップから飲む確率を少しでも上げるために、彼女は試合時間を延ばすことで、ハルの体力は確実に減らした。
西宮さんは、ハルを疲れさせて水筒の選択肢を奪い、そして彼が紙コップから飲むようにわたしを誘導した。
彼女は、試合終了後わたしに。
――柊木さん、桜町くんにこれ、持っていってよ。
そう言って、ポカリスエットが入った紙コップを渡した。
本当に些細なこと。でも西宮さんの想いは、これを些細だと切り捨てないくらいに、抑えられなくなっていた。
(それが、あなたを無視できなかった理由)
彼女の目的は延ばした四分で果たせる――はずだった。
第四クォーターの後、西宮さんはわたしに印つきの紙コップを渡した。あのときのわたしは、誰から見てもハルの付き添いだった。彼女は、わたしの手からハルが飲むことを確信していた。
西宮さんからは、わたしがハルの恋人に見えている。そのためにわたしはハルにお弁当を作ったり、一緒に下校したり、好意を伝えたりしていたのだから。そう勘違いされなければ意味がない。
わざわざ踊り場で、ハルにセツカちゃんの伝言を聞かせたのは、屋上の扉の前で待機していた西宮さんに、わたしとハルがキスをしている姿を見せつけるためだ。死角から踊り場がどのような角度で見えるかは、桐山くんと〈H.N.〉のキスが見本になった。
ハルはセツカちゃんのことになれば、盲目的になる。
最も注意を払ったのは、目撃者からは見えないように、スマホをハルの耳に近づけることだ。これがバレてしまうと、偽装にならない。
残りは体勢や身体の角度の問題だった。爪先立ちで、ハルの顔が自分の頭と被るように調整する。ダメ押しに、左手を肩に添えた。
いつものハルなら嫌がったかもしれないが、そのときの彼はセツカからの伝言を聞くのに夢中だった。
本当はもっと長い時間、見せつけたかったけれど、録音の再生を二回――三十秒が限界だろうと判断した。
どうしてわたしは、偽装をしてまでハルとキスしている姿を見せたのか?
きっとわたしは――西宮さんの想いの強さが怖くなったのだと思う。
フミちゃんに、心の奥底からハルを諦めさせる――あの行為の目的は、ただそれだけの意味しかない。
万が一、いや億が一でも、彼女とハルが恋仲になるということはないだろう。
それでもわたしは、彼女がハルに好意を抱いているということを、ハルに知ってほしくない。もしハルが姉のことを諦めて、別の誰かと付き合うことになったとして、その候補にわたし以外の誰かが名乗り出てくることが、どうしても許容できなかった。
ハルが誰を好きになるかなんて、わたしが決める権利は一ページの紙の幅すらもない。自分でもそれは分かっている。わたしの行動は本当に自分勝手だ。自覚しているから、なおさら悪い。
ふと、気付く。わたしは無意識のうちに、北山さんとフユちゃんを呼び分けている。呼び方でラベリングしている。この恋敵は取るに足らない存在なんだって。
「フミちゃん。わたしを利用して、おまじないを実行しようなんて――許すわけ、ないでしょう?」
練習試合の後、西宮さんが片付けを呼びかけたとき、わたしは西宮さんから渡された紙コップをくしゃくしゃに握って捨てなかった。
「あなたには、恋の成就だって願わせない」
本心だ。でも、決して言ってはならない言葉だった。
言葉にしてしまったら、わたしはもう、元には戻れない。
姉と違って、わたしは自分のためなら平気で嘘が吐ける。夕焼け空の帰り道、わたしは嘘の推理を語って、試合を四分間延長した犯人を北山さんに押しつけた。
その翌日、わたしはカフェ〈Spring〉から北山さんを見てしまった。〈H.N.〉の正体が分かったとき、わたしの嘘は音を立てて崩れ去った。だからハルが真実に気づく前に、新しい嘘を用意した。西宮さんが桐山くんに恋をしているという嘘を。
すべて、ハルがわたし以外の人の好意を知らないままにしておくため。
わたしは呪いをかけるように、
「フミちゃんはいい子だから、絶対にわたしからハルを奪えない。ねえ、そうでしょう?」
「わたし、あなたが嫌い」
思い切り、頬を叩かれた。西宮さんの目の端には涙が溜まっている。
「そこまで分かっているなら……」堪えていた涙が溢れ出す。「最後に縋りたい物まで奪わなくたっていいじゃない!」
嗚咽を漏らしながら階段を駆け降りる西宮さんの後ろ姿を、わたしは静かに見届ける。
ようやく姿が見えなくなって、わたしは一人、小さく呟く。
「痛ってえな……」
痛みがじんわりと広がって、頬が熱くなる。
階段に舌打ちの音が響いた。




