1-6 フユによる解決
月曜日の昼休み、屋上扉に向かうハルを追いかける前に、わたしは〈H.N.〉が在籍する二年B組のクラスに向かった。
彼女を廊下に呼び出し、ハンカチを返す。
「あ、ありがとう。どこで拾ったの?」
「どこ、だったかな?」
〈H.N.〉は北山さんだ。土曜日、彼女が仲良さそうに話していた男――橋本は彼女の実の父だった。
橋本が北山さんに渡していた十万円。相場を知っているわけではないが、一回のデート代にしては高すぎる。でも十万円が養育費だったなら、納得がいく。
つまり――北山さんの両親は離婚したのだ。そして、橋本夏希は北山夏希になった。
二人の会話を思い出す。真相が分かってみれば、離れ離れになった互いを心配する内容でしかない。
――最近、学校は楽しいか?
――もちろん、楽しいよ。パパはどう? 寂しくない?
きっと二人は、定期的に会う約束になっているのだ。そのときに橋本は北山さんに養育費を渡している。
――そろそろ、時間だな。これ、今月の分。
――ありがと、パパ。来月も会おうね。
北山さんはハンカチを抱きしめて、
「これね、去年、カケルからクリスマスプレゼントで貰ったものなの。四月に両親が離婚して……イニシャルがそのままなんだけど、愛着があるんだ」
赤い薔薇の花言葉は、〈あなたを愛しています〉。桐山くんが彼女のために選んだのだろう。好きな人の想いを素直に受け取れる北山さんが羨ましい。
「このハンカチに思い入れがあるのは、自分がお父さんの娘である痕跡みたいに思えるからなんだろうな。大事なものだったから、拾ってくれてありがとね」
「次は落とさないようにね」
「うん」
「そういえば、北高校との練習試合は勝てた?」
「うん」
北山さんは嬉しそうに頷く。教室に戻ろうとする彼女は何か思い出したかのように振り返った。
「そうだ。お礼に今度、お洒落なカフェに行かない? 〈Spring〉っていう、バネのデザインの看板が可愛いところなんだけど――」
「いいね、行こう」
バイバイ、と手を振ろうとして、わたしはすんでのところで思い留まる。
そうだ、これは北山さんに頼んだほうがいい。
「北山さん。わたしから一つ、西宮さんへの伝言をお願いしてもいいかな」
屋上に続く扉の前で、ハルはストロベリージャムパンを齧っていた。わたしはハルの隣に腰を下ろす。
「結論から言うとね。〈H.N.〉は北山さんだったの。だから、バスケ部は崩壊しないし、桐山くんの浮気もなかった」
「それは良かった」
淡泊な反応である。それでも心の奥では、友人の疑いが晴れたことに安堵しているようだった。
わたしはビニール袋を破いて、今朝コンビニで購入したメロンパンにかぶりつく。野菜ジュースを飲んでいたハルは、意外そうにわたしの手元を見た。
「今日は、お弁当じゃないんだね」
「毎日作るのは大変なんだよ。ねえ、メロンパンを半分あげるから、ハルが食べてるパンを半分貰ってもいい?」
「ダメ」
「えー」
不満の声を早々に切り上げ、わたしは野菜ジュースのパックにストローを刺す。これも今朝、メロンパンと一緒に買った本日の昼食である。
「野菜ジュースって、独特な味がするよね。青臭いというか、青汁に近い?」
「青汁は飲んだことがないから、分からない」
ハルは空になったパンの袋に潰した紙パックを突っ込んで、話題を変えた。
「ところでさ、桐山の浮気疑惑は最初からなかったわけだけど……そうなると、金曜日の帰りに話してた、フユの推理は成り立たなくなる」
推理では、北山さんは恋人のスマホから浮気の証拠を探す時間を少しでも確保するため、試合時間を延ばしていた。
わたしはわざと惚けてみる。
「ふうん。浮気をしていなくとも、浮気を疑うことはあるんじゃない?」
「二人の恋が冷めていれば、俺もそう思ったかもしれない。でもあの日の昼、二人は人がいない場所を選んでキスをしているんだ。そんな二人が愛情に関して疑心暗鬼になるはずがない」
北山さんには、試合時間を延ばす理由がない。
ならば犯人は――
わたしは内緒話をするように、ハルの右耳に囁いた。
「西宮さんだよ」
「彼女が? 何の目的で?」
「西宮さんはね、バスケの試合を真剣な目で追っていた。ボールを追いかける桐山くんを見ていたんだよ。桐山くんと北山さんは恋仲で、冷めることのない二人の恋愛を見ているしかなかった」
恋する少女のような眼差しで、試合を眺める彼女の横顔を思い出す。
「西宮さんは――」
ハルが言い淀んだ続きを、わたしははっきりと言葉にした。
「桐山くんが好きだったんだ。でも絶対に叶わない恋だった。それでさ、叶わない恋だけど気持ちを抑えられなくて、でも近づいたら他のものを壊しちゃうとき、ハルはどうする?」
ハルは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
「ハルなら、いつか振り向いてもらえるように努力するんだろうね。でもね、それができる人はほんの一握りなの。叶わない恋だから、彼女はおまじないに頼ろうとした。おまじないは、願いを叶える手段じゃないよ。努力をしなくても済む言い訳なの」
もし、西宮さんの桐山くんへの好意が、北山さんに気づかれでもしたら、男子バスケ部は泥沼になる。片想いで済むように、彼女は恋のおまじないで妥協しようとした。
あるいは――本当に神頼みしたかったのかもしれない。
わたしも同じだ。だから西宮さんの想いが、痛いほど理解できる。
「西宮さんが欲しかったのは、桐山くんが使用した紙コップだった。口に触れた部分だけを切り取れば、御守り袋に入れられる」
「それが、おまじない?」
「そう、女の子の間で流行ってるの。片想い相手の唇に触れた物を自作の御守りに入れておくと、恋が成就するって」
「そう……か。恋を叶えたいけど、叶ってしまうと、北山さんとの友情が……バスケ部が壊れてしまうから」
だから――
「叶えたくても、叶えられない。でもおまじないなら、叶えるために努力しなかった自分に言い訳ができる」
飲み干した野菜ジュースのパックを床に置いて、ハルはわたしの推理に反論する。
「でも部員たちの紙コップは、体育館のごみ箱に捨てられていた。たくさんの紙コップの中から、桐山が使った物を判別することできないんじゃないかな?」
「桐山くんに渡す物だけ、前もって印をつけておけばいい。例えば、紙コップの底の突き出た部分に切れ込みを入れておくとか」
「桐山に紙コップを渡していたのは北山さんだった。西宮は渡してない」
「うん、私も見てた」
部活動中のさりげない行動が、いかにも高校生カップルらしい。とはいえ西宮さんからすれば、二人のカップルぶりを至近距離から見せつけられるわけで……その光景は溜まったものではないだろう。
「西宮さんは桐山に印つき紙コップを渡せない」
「できるよ。渡す方法がある」
わたしが本気なことを察して、ハルは静かに続きを促す。ハルの横顔を見て、わたしは頷く。
「マネージャーたちが部員に紙コップを配ったのは、ハーフタイム中と、試合終了後の二回。
それで、桐山くんの手に印つき紙コップを渡ったタイミングだけれど、ハーフタイム中でないことは確か。ハーフタイムで桐山くんは、ハルが飲む分も一緒に受け取った。桐山くんがどちらの紙コップに口をつけるのか、紙コップを渡す段階で判断できない」
「試合終了後の方も、桐山に紙コップを渡したのは北山さんだ」
「だからね、西宮さんは、重ねた紙コップの一番上が印付きになるよう細工していたんだよ。バスケ部員の中で一番体力があるのはキャプテンの桐山くんだから、試合終了後、倒れた部員たちの中から、彼が最初に起き上がる。北山さんは一番上の紙コップを取って、桐山くんに渡した」
ハルは目を瞑り、頭の中で推理を咀嚼する。納得してくれたようだ。
「本題の、試合時間を延ばした理由は?」
「使用済み紙コップを回収するため。そのために西宮さんは、桐山くんが紙コップを捨てる時間を、用務員さんが体育館のごみを回収する時間より遅らせようとしたの。金曜日午後五時三〇分のごみ回収さえ凌げば、北高との試合がある日曜日に、紙コップは回収できる」
練習試合の開始が午後四時二〇分。休憩を含めた試合時間は六四分だから、本来なら試合は午後五時二四分に終わる。
北山さんの発言から、試合後のバスケ部の休憩は五分だ。
――こんなになるまで、君たち、ずいぶんと走り回ったね。いつもの五分休憩で済む?
休憩後、紙コップを捨てる本来の時刻は午後五時二九分。ぎりぎり、用務員さんのごみ回収より前だ。
だから――試合時間はプラス四分すれば、ごみ捨ての時刻は午後五時三三分――ごみ回収の後になる。西宮さんは思惑通り、おまじないの媒介を手に入れられる。
一つのクォーターをそれぞれ一分増やしたのは、部員たちが気付かないギリギリのラインだと判断したからだろうか。実際、部員たちが気にしている様子はなかったから、彼女の見極めは完璧だった。
あるいは、気づいていても言わなかったのかもしれない。部活内の練習試合だ。長く試合ができるなら、彼らに文句はなかった。
「西宮さんは計画通り、おまじないを成功させたのかな?」
「成功したと思う。万が一失敗したとしても、彼女が恋心を表に出さない限り、いくらでもチャンスはある。いくらでもやり直せる」
ハルは俯いて、手の中のくしゃくしゃになったパンの袋を見つめていた。
わたしは立ち上がり、ハルに右手を差し出す。
「それ、捨てておいてあげるよ」
「いいや、自分で捨てるよ」
ハルはパンの袋を引き寄せて、盗られないようにする。
「そう? 遠慮しなくていいのに」
わたしは再びハルの隣に座って、彼の肩にそっと身体を寄せた。




