1-4 カフェ〈Spring〉で
土曜日の午前は、カフェ〈Spring〉で勉強することにしている。シェードランプの薄明かり。哀愁をまとう、ゆったりとしたピアノのメロディが、店内には流れていた。
コーヒーの苦みがゆっくりと口の中を支配する。初恋がレモンの甘酸っぱさならば、失恋はエスプレッソのように苦いに違いない。
〈Spring〉は叔父、夏木雅春の店だ。叔父は姉――母とは十以上年が離れているので、年の離れた兄のように感じることもなくはない。セツカちゃんは叔父と気が合うらしく、一昨年の冬まで店を手伝っていた。
客はわたしだけだった。叔父はカウンターで食器を拭きながら、楽しそうに鼻歌を歌っている。いつも通りの光景に、わたしは店の経営が心配になる。
(この心配は、余計なお世話?)
再びマグカップに口をつけて、わたしは顔を顰める。
「雅春さんはさ、いつからブラックコーヒーが飲めるようになったの?」
「ブラックが飲めるからといって、大人とは限らないし、大人だからといって、ブラックが飲めるわけじゃない」
叔父の答えはどこかズレていて、少なくともわたしが聞きたかった答えではなかった。不満そうに頬を膨らませるわたしに、叔父は続ける。
「無駄であることこそが、カフェでの会話の本質なんだ」
母が言うには、彼の頭では、常に何かしらの議論が行われているのだという。その結果として出力されるのが、このズレた回答らしい。
少なくとも叔父の中では、理屈が通り、話が繋がっているようだ。わたしにはその繋がりがさっぱり理解できないけれど。
「昼食なら、サンドイッチがおすすめです」
叔父に言われて、スマホに表示された時刻を確認した。十二時――お腹が減ったことを自覚する。
「それじゃあ雅春さん、おすすめをお願いします」
「承りました」
叔父は楽しそうに鼻唄を歌いながら、厨房に消えていった。
ぼんやりと窓を眺めていると、紺のスーツを着こなしたビジネスマン風な壮年の男性と、群青の襟付きワンピースの少女が並んで歩いている姿が目に飛び込んできた。二人は楽しげに会話しながら、〈Spring〉の入口に向かっていく。
わたしは、少女の顔を知っていた。短く結んだボブポニーテール、天使のような微笑み、北山夏希。
タイミングを合わせたように、叔父がサンドイッチをテーブルに置く。
わたしは頭の位置を低くして、ソファの背凭れに隠れる。
「食べないんですか?」
「静かにして。後で食べるから」
カラン、とベルがなる。北山さんと男性が店に入ってきた。
「予約していた、橋本です」と男性。
叔父は気にする様子もなく、
「お待ちしていました。お好きな席にどうぞ」
橋本なる男と北山さんは、空いている席に向かい合って座る。メニューを見ながら、談笑している。
北山さんはオムライスとアールグレイを、橋本はパスタとブレンドコーヒーを注文。食後のデザートは二人とも、ショートケーキ。
わたしは離れた席で、聞き耳を立てていた。
会話の詳細は聞き取れなかったが、いくつか判明したことがある。北山さんが橋本を「パパ」と呼んでいること、橋本が北山さんを「ナツキちゃん」と呼んでいること、そして二人がとても親しげなこと。
橋本が尋ねる。
「最近、学校は楽しいか?」
北山さんが答える。
「もちろん、楽しいよ。パパはどう? 寂しくない?」
二人はしばらく会話を交わしていた。
「そろそろ、時間だな。これ、今月の分」
「ありがと、パパ。来月も会おうね」
わたしは背凭れから、顔を覗かせる。
橋本が渡した封筒は、僅かに厚みがある。
二人は席を立ち、会計を済ませる。
「ねえ雅春さん、二人はいつから来てるの?」
「今年の四月からかな。一か月置きに、律儀に予約してくる」
「男の人、女の子にお金渡してたよね? 厚さから、どのくらいか分かる?」
「お札なら、十枚くらいかな」
一万円札なら――十万円。
大金に、肩の力が抜ける。
「サンドイッチ、食べないの?」
「食べるよ。色々考えて、お腹空いた」
わたしはテーブルに置きっ放しだったサンドイッチを、無理矢理頬張った。
落ち着け、わたし。コーヒーを飲む。
――苦い。
叔父は慌てず騒がず、わたしを眺めている。
「雅春さん、あの二人は――」
「放っておいて、大丈夫ですよ」
むう。相変わらずのズレた回答。わざとやってるんじゃないの?
叔父は微笑んで。
「僕はね、ずっと気になっていたことがあるんだよ」
「意外。雅春さんも、気にすることあるんだ」
「高校生になってからかな。フユさんは最初のコーヒーをブラックで飲み切るんだ。顰め面でね。僕はいつも、砂糖とミルクを入れたらいいのに、なんて思いながら、それを眺めている」
叔父は新しいコーヒーをわたしの前に置く。わたしは彼の指摘に従って、砂糖とミルクを突っ込んだ。
「最初にブラックコーヒーを飲むのはね……」
わたしはわざと勿体振る。叔父は答えにきょとんとした。
「失恋の予行練習だよ」
初恋がレモンの甘酸っぱさならば、失恋はエスプレッソのように苦いに違いない。わたしは甘ったるいコーヒーに口をつけた。




