1-3 帰り道での推理
ハルと眺める夕焼けは綺麗だった。橙と藍のグラデーションの空に、紫の雲が靡いている。清少納言曰く、夏は夜、秋は夕暮れらしいけれど、夏の夕暮れだってそんなに悪くない。
「惜しかったね」
「うん」
素っ気ない返事から、抑えきれないハルの悔しさが伝わってきた。
一点差の惜敗。最後、桐山くんのボールを止められたなら、ハルのチームは勝っていた。
あるいは、試合時間が少しでも短ければ――
「ハルはもう、バスケの試合に出たいとは思わないの?」
わたしの質問にハルは、うーん、と唸る。
「思わないかな。今は学業に専念したい」
「そっか。バスケをしているときのハル、かっこよかった。でも、もう見れないんだね」
「そうだね。あいつらは本気で練習してるから、また試合に呼ばれたとしても、ボコボコにされるだろうな」
そんなことないよ、と言いたかったけれど、ハルが彼らを尊敬していることが分かっていたから、わたしは吐き出しそうになった言葉を、ごくりと喉の奥に押し込む。代わりに別の話題を出した。
「ハルはさ、桐山くんと北山さんが付き合ってることって知ってた?」
「去年から、だったかな……桐山が付き合ってることは聞いてたよ。相手が誰なのかは知らなかったけど」
高校生の恋愛が長く続くことは、かなり稀だと思う。恋に恋する青少年たちは、付き合って初めて現実を見ることになる。三ヶ月も続かなかった例を、わたしはたくさん知っている。
踊り場のあのキスは、付き合ってどのくらい経ってからするキスなのだろう?
「昼休みの――」
「その話題はナシ」
「そうじゃないって。昼休み、踊り場にいた背の高い男子生徒は桐山くんだった。ハルも見てたでしょう?」
「間違いないね。高校生であの高身長は滅多にいない」
わたしはスカートのポケットから薔薇柄のハンカチを取り出した。
「これね、あの踊り場で拾ったの。ほら、ここに〈H.N.〉って刺繍されてる。女子生徒のイニシャルだよ。でも北山夏希のイニシャルは――」
ハルは額を押さえた。わたしと同じ想像が頭を過ったのだろう。
踊り場の光景、桐山くんのキスの相手が北山さんでないなら、彼は北山さんに不誠実を働いていることになる。
「〈K.N.〉だね。でも、キタじゃなくてホクと読めば〈H.N.〉になるよ」
「キタヤマをホクヤマやホクサンとは呼ぶとは思えないよ。友達からホクちゃんやホッちゃんと呼ぶことはあっても、あだ名のイニシャルを刺繍することはない」
「うん。今のは無理があった」
最初に友人を信じようとするところが、いかにもハルらしい。
「ハルはイニシャルが〈H.N.〉の女子生徒に心当たりはある?」
「探せばいるんだろうけど、桐山の周りでは知らないな」
「〈N.H.〉でもいいよ」
「すぐには思いつかない」
「男子バスケ部のサブマネージャー、西宮さんは?」
「西宮さんは〈N.F.〉だろう? 名前なら発音を重視してヘボン式で書くんじゃないかな?」
Nishimiya Fumi――〈N.F.〉。
踊り場で桐山くんとキスしていた女子生徒は、西宮文美ではないのか?
「でも、桐山くんに一番近い〈H.N.〉は西宮さんだよ」
疑いは晴れない。踊り場で〈H.N.〉の顔は、桐山くんの大きな背中でほとんど隠されていた。それから、バスケの練習試合を眺める西宮さんの横顔を思い出す。
――とんでもない物を拾ってしまった。
もし桐山くんが二人のマネージャーと二重交際していて、それが表沙汰になってしまったら……最悪の結果、部活動自体が崩壊してしまう。
このハンカチは男子バスケ部を粉々にする爆弾だ。
「どうしたらいいと思う?」
「忘れ物として、職員室に届ける」
そんなことをすれば、先生がハンカチを拾った場所と時間を尋ねてくるだろう。〈H.N.〉が先生を経由して、わたしがハンカチを拾ったと知ったら――〈H.N.〉は気づく。柊木冬が踊り場の二人を見ていたことに、〈H.N.〉と桐山くんの秘密を知っていることに。
ハルはこの秘密を黙っていられるだろうか。男子バスケ部がなくなったら、ハルがバスケを楽しむ姿は、二度と見られないかもしれない。
(考えすぎ、だろうか。
最悪の場合、わたしとハルに危害が及ぶかも……)
「バスケ部がなくなったら、ハルのせいだからね」
指の間をぬるい空気が通り抜ける。今日も一歩ずつ、ハルとの別れが近づいていた。
「手、繋ぎたい」
「ダメ」
無情にも、ハルはきっぱりと断る。小学生のときの登下校では、毎日のように手を繋いでいたのに。
まだ話していたかったので、わたしは寄り道を提案してみた。
「昔さ、よく近くの駄菓子屋でお菓子買ったよね。寄っていかない?」
ハルは首を横に振る。
「行かない。それにね、フユ。あの試合は何を言い訳にしたって俺の負けだったよ」
寄り道も、会話の引き延ばしさえも、許してくれないらしい。
わたしが試合結果に不満があることを、ハルは鋭い勘で察している。
「それでも、さっきの試合はハルが勝ってた」
再びハルは首を横に振る。
「駄々っ子みたいなフユ、久し振りに見るよ。でも、いくら騒いだって結果は変わらない」
「変わるよ。ハル、バスケットボールの試合って全体で何分なの?」
ハルは怪訝な表情をしながらも、教えてくれる。
「試合は一〇分のクォーターを四回。一回目と二回目、三回目と四回目の間の休憩が二分。二回目と三回目の間、ハーフタイム――休憩が二〇分」
「一〇×四+二×二+二〇は?」
「六四分」
「試合が終わった後に時計を見たら、五時三〇分だった。試合終了から一、二分後のことだよ。始まったのっていつからか覚えてる?」
「逆算したら、四時二五分くらいか」
「でも、実際に始まったのは四時二〇分だった。一分くらいなら、針のずれや読み間違いかもしれない。コートに並ぶ準備時間もある。でも、それだけなら五分もずれない」
「フユは、自分の記憶に自信ある?」
「意地悪。そういう風に聞かれたら、自信があるって言いづらいじゃん」
わたしはタイマーが始まる瞬間を見ていた。だから、時間が増えていた、と証言すればハルは頷くしかない。でも、それでは、本当はハルが勝っていたことを納得させられない。
ハルの悔しさは治まらない。
わたしは続けて。
「でもさ、試合時間が密かに五分増えていたなら、ハルの時間感覚がずれていた説明になる」
試合を終えたハルは、体力の限界に達していた。わたしに時間を指摘されてから、彼は体育館の壁時計を見た。
――十分、休ませて。そうしたら、五時三五分くらいだろ。
――今は五時三〇分だから、十分後は五時四〇分だね。
実際の時刻は五時三〇分だったのに、試合後のハルは五時二五分と勘違いしていた。なぜ勘違いしてしまったのか? それは、実際に行われた試合時間が、六四分ではなく、約七〇分だったからだ。
わたしはハルを納得させようと、試合時間が延びていた証拠を探す。
「それから試合が終わった瞬間、コートにいた人たちは皆倒れたでしょう? 久し振りにバスケをするハルなら、体力が切れて倒れるのも仕方がないと思う。でも普段からトレーニングしているバスケ部の人たちが、それも全員が倒れ込むことってあるかな?」
「四〇分間全力で、ボールを追いかけるんだ。おかしなことじゃないよ」
ハルの言い分は間違っていない。県大会では、バスケは一チーム十二人。コートに出る五人を交代しながら、試合を進めていく。
それでも、わたしは食い下がらなかった。
「四〇分間が知らないうちに四五分間になったから、体力の配分がおかしくなって、あんなふうになったんじゃないの?」
死屍累々という表現が似合う試合後のコートの光景を、わたしは思い出す。
ハルは自分の勝利を認めない。
「それでも……試合時間が人知れず五分延びていたからといって、俺のチームの勝ちにはならない」
「勝ってたよ。だって最後の桐山くんのシュートがなければ、ハルのチームは勝っていた」
試合時間が延びていなければ、桐山くんのシュートはなかった。
「平行線だね」
「わたしが寄り添っても、ハルは傾くでしょ」
ハルはふっと吹き出した。わたしもつられて笑ってしまう。
(君は誠実で、正しさを信じている。わたしと違って。
だから、惹かれたのかな)
ハルはふと、疑問を口にした。
「どうして、試合時間は増えていたんだろう?」
わたしは立ち止まる。掌に汗をかいている。
「ハルは、何が原因だと思っているの?」
「桐山はタイマーをセットするとき、保存されていたプログラムを呼び出していたんだよね。誰かがプログラムを変更して、試合時間を増やした。そうして犯人は、一つのクォーターだけを十五分にした」
「それだと、他クォーターとの差で、気づきそうだけど」
一つだけクォーターだけが十分から十五分に時間が増えていたなら、誰かが時間の差に違和感を持ってもおかしくはない。
「それなら、それぞれのクォーターを十一分にする。部員たちはボールに集中しているはずだから、一分くらいなら気づかない。それぞれのクォーターの時間差もない。一分が積み重なって、試合時間は全体で四分増える」
この増やし方ならば、試合時間は六八分になる。時刻を確認したのは、試合終了の一、二分後だから時刻の辻褄は合う。
「ハル、誰が何の目的でそんなことをしたのかな?」
「フユだったら、するかもしれない」
「答えになってないよ。わたしだったら……そうだな。バスケをしているハルを、四分も長く観ていられる」
まだハルと一緒にいたい。このまま会話が続く限り、ハルは立ち止まってくれるだろうか。
「もしかして、犯人は君?」
「実はそうだったりして、なんてね」
誰が何のために試合時間を増やしたのか。
「タイマーのプログラムを組めるのは、マネージャーだけだよ。北山さんが言ってたから」
桐山くんがタイマーをセットできず、北山さんを頼ったとき、彼女は言っていた。
――相変わらず、うちの部の男たちは、機械音痴だね。
――西宮ちゃんはこの前、説明書とにらめっこして、プログラム機能使えるようになったんだよ。
彼女の言葉を信じるなら、男子バスケ部の選手は総じて男子だから、プログラム機能を使えるのは女子でマネージャーの北山さんか西宮さんだけ。
わたしは記憶を辿る。
「桐山くんはタイマーを倉庫から出していた。タイマー普段は倉庫に置かれている。片付けの後、体育館倉庫の鍵をかけていたのは北山さん。だから倉庫の鍵を支配してるのはマネージャー」
「支配って、フユは大袈裟だな。職員室に取りに行ってるだけだよね」
「うん――倉庫にあるタイマーのプログラムを改竄できて、その機会があるのは北山さんと西宮さんだけだよ。マネージャーなら倉庫に入っても不自然じゃないし」
インターバルプログラムは、倉庫で変更されたはずだ。北山さんが桐山くんにタイマーのセットを教えているとき、二人とも複雑な操作を行っていないことは、わたしが見ている。
「犯人は『自分は倉庫整理するから、あなたはウォーターキーパーの掃除をお願いね』と提案したのかもしれないね。北山さんも西宮さんも、簡単に倉庫で一人になれる」
ハルは細い顎を人差し指で搔いた。
「どんな動機があれば、試合時間を延長しようなんて考えるのかな?」
ずっと考えていた。犯人はなぜ、そんなことをしたのか。
わたしはハルの耳元にそっと呟く。
「例えば、時間稼ぎ」表情を伺って、言葉を続ける「もしかしたら、犯人は北山さんじゃないかな?」
ハルは一瞬、目を見開く。すぐに言葉が返ってきた。
「動機は?」
「桐山くんが浮気をしているかもしれないって、勘づいたんだと思う」
踊り場での〈H.N.〉とのキスが、頭の中から離れない。
女の勘なのか、それとも何か怪しい兆候があったのか。北山さんは、桐山くんが他の女の子と関係を持っていることに気づいた。
「桐山が浮気をしていたら、どうして北山さんが犯人になる?」
「浮気の証拠といえばスマホだよ。北山さんは桐山くんが浮気している証拠を探していた。恋人ならパスワードを知る機会はいくらでもある。バスケの試合時間を延ばしたのは、スマホに触れる時間を増やすためだった」
今回の四分間で浮気の証拠が見つからなかったとしても、塵も積もれば山となる。
試合を終えた部員たちに向けられた、北山さんの女神のような笑顔を、わたしは思い出した。
あの笑みの裏には、ようやく浮気の証拠が見つかり、桐山くんを追い詰める準備が整ったという般若の表情が隠れされていたのではないか。そんな想像をわたしはしてみる。
ハルが口を開いた。
「部活中、桐山はスマホを男子更衣室に置いてる。北山さんが男子更衣室に入ったとは思えないな」
「どうして?」
「用務員さんが体育館のごみを回収しに来るのは、決まって午後五時半だから。試合終了は午後五時二八分、男子更衣室から出てきたところを鉢合わせする危険がある」
「たしかにそうだ。それなら、用務員さんのごみ回収を遅らせる、というのはどうかな。そうすれば、午後五時半に鉢合わせなくて済む」
「どうやって?」
「例えば、洗面台を水浸しにするの。用務員さんは掃除しないといけないから時間を稼げる」
恋する乙女は盲目である。彼氏の浮気の証拠を得るためなら、北山さんはどこまでの手段が取れるのだろう?
拾ったハンカチが、ずしんと重く感じた。
もしこのハンカチが男子バスケ部を崩壊させたなら、北山さんや西宮さん、他の部員たちはわたしを恨むだろうか。それがたとえ逆恨みだとしても、恨まれるのは怖い。
「家に着いたね」とハル「また、月曜日に」
「うん」
ハルが軽く手を振る。名残惜しくはあったけれど、わたしは大きく腕を振って返した。
帰宅して、階段を上がる。自室の勉強机に向かう。
(高校を卒業しても、ハルの隣に――)
わたしは問題集を広げ、ノートにペンを走らせる。ハルと同じ大学に行くために。




