1-2 男子バスケ部の助っ人
洗面台を掃除していたら授業開始のチャイムが鳴った。メイクを直したかったが、化粧ポーチは教室の鞄の中だから今は取りに行けない。
ハルを心配させるわけにはいかないので、スマホでメッセージを送る。
――眠いので保健室で仮眠を取ります。先生に伝えておいてください。
スマホに提げた御守りを眺めていると、ハルからOKの返事が来る。
保健室では養護教諭の悦子先生がデスクで作業をしていた。
「いらっしゃい、柊木さん」
「ベッド借りてもいいですか?」
「どうぞ。来客記録は自分で書ける?」
「書ける。ちょっと眠いだけだから」
悦子先生がクリップボードを差し出す。わたしは来客記録にペンを走らせながら尋ねた。
「先生はキスしたことってある?」
「それはまあ、あるよ。大学生の頃、アルバイトでプールの監視員をしてたんだけど、溺れた人を引き上げて――」
「それ、キスじゃなくて人工呼吸」
「そこからお付き合いが始まって、本当のキスをしたのよ」
「今だったら、恋にならなかったかもね。心臓マッサージだけでいいんでしょ?」
でも、その人はきっと、人を助ける悦子先生に惚れたのだろう。
「昔のことだからね」
悦子先生は優しく微笑んだ。
放課後――外はまだ明るい。わたしはベッドから降りて、カーテンの間を通り抜ける。
「悦子先生はさ、おまじないについてどう思う? 消しゴムに好きな人の名前を書いて最後まで使いきるとか、シャーペンの中に片想い相手の名前を書いた紙を入れておくとか、そういう類いのおまじない」
「微笑ましいなって思うかな」
「中でもね、特別に効果があるって噂のおまじないがあってね。好きな人の唇に触れた物を、自作の御守り袋に入れて常に身に着けておくの。それが手に入る関係なら、おまじないなんて関係なく恋の成就まであと一歩。なんてわたしなんかは思っちゃうけど」
「唇に触れた物って、意外と難易度高いわよね。それも御守りに入る大きさでしょう?」
「わたしの知ってる子はね、使用済みのストローを御守りに入れたみたい」
スカートのポケットの中、スマホに提げた御守りをぎゅっと握る。
「その子の恋は成就しそう?」
「負けが分かっていても、諦められないの。だから、おまじないで神様の力を借りる。そうしないと心が保てないから」
そのとき、がらり、と保健室の扉が開いた。わたしは驚いて、カーテンの裏に隠れる。
「失礼します、二年A組、桜町春です。柊木さんの鞄を届けに来ました」
わたしは聞き耳を立てた。
悦子先生がハルに伝える。
「柊木さんに渡してくわ」
「お願いします」
遠ざかる足音が不安を煽る。ハルはわたしを置いて、一人で帰るつもりなのだろうか。慌てて保健室を飛び出し、彼を呼び止める。
「待って、ハル」
「フユ、起きてたの?」
「今は振り向かないで。顔を見られたくないから」
ハルはぴたりと動きを止めて、わたしに背を向けた状態を保った。
「弁当箱を忘れてたよ。風呂敷で包んで鞄の中に戻しておいた」
「ありがと、ハル。その――」
一緒に帰ろう、と言いかけて。
「|桐山にバスケ部の助っ人を頼まれた。フユ、一人で帰れる?」
少し意地悪だと、わたしは頬を膨らませる。でも、ハルが頼りにされているのは、自分のことじゃないのに嬉しい。すぐに機嫌を直してわたしは頷いた。
「それなら観にいく。先、体育館に行ってて」
ハルの背中を見送る。わたしは女子トイレで、軽くメイクを直した。自分以外は気づかない些細な変化だけれど、ハルの前では常に可愛くありたいわたしにとって、それは大事な変化だった。
体育館の前で体操着姿のハルと合流した。
「もう、見て大丈夫なの?」
「うん。可愛くなったから」
「そう」
可愛いの一言もなくて、少しもやもやする。
(中学のときは、言ってくれたんだけどな。君、わざとだろ)
入口の近く、今にも溢れそうなごみ箱が目に入った。この一週間分のごみは、用務員さんが金曜日(今日だ)の午後五時三〇分に集積所へ持っていく。
体育館に入ると、青いビブスの男子がスリーポイントシュートを決めていた。彼はわたしたちに気づいて、手を振りながら駆け寄ってくる。見上げるくらい背が高く、茶色に染めた髪が数本、汗で額に張り付いている。目尻の下がった優しげな目、視線がわたしからハルへと移る。男子バスケ部のキャプテン、桐山駆流。
わたしは踊り場でキスをしていた男子生徒を思い出した。彼の横顔が桐山くんと重なって、ぴったりと一致する。
桐山くんは、胸の前で両手を合わせた。
「さんきゅーな、桜町。まじで助かる」
入口のすぐ側に籠が置かれていた。桐山くんは籠から赤いビブスを選び、爽やかな笑顔でハルに渡す。
「おい、これ七番だぞ」
「別に何番でもいいだろ」
中学生のとき、ハルはバスケクラブのエースだった。わたしの知る限り、その頃のハルは無敵だった。もちろん世界が広くなれば、上には上がいる。中学二年の夏、ハルが所属するクラブは県大会で準優勝をした。それでもわたしは、あのときのハルは誰よりも強かったと信じている。
ハルは目を細めて嫌そうにしていたが、桐山くんに、
「番号なんて気にしてんのか? みみっちいやつだな」
「うるさいな。バスケ部じゃないやつに、エースの番号を渡すなよ」
と言いつつ、渋々ビブスを受け取るハル。
桐山くんが笛を吹くと、各々で練習していた部員たちがボールを床に置いて集合する。最後に合流したのは、得点版から右足を引き摺って歩いている男子だった。彼の右足首には厳重なテーピングが施されている。
桐山くんはハルの肩に手を置いて。
「今日は桜町春に来てもらった。みんな、挨拶!」
男子バスケ部の野太い「よろしくお願いします」が体育館に響いた。
わたしはもどかしくて、スカートの裾を握る。
――ハンカチを返しそびれた。
桐山くんは体育館倉庫からタイマーを抱えてきて、コートの側に設置した。
「|夏希、これ、どうやってタイマーをセットするんだ?」
「相変わらず、うちの部の男たちは、機械音痴だね。しょうがないなあ」
我が子を甘やかすような台詞に対して、ボブポニーテールの体操着の女の子――北山夏希は、無邪気な少女のような笑みを浮かべた。天使のようにはにかみながら、桐山くんに肩を寄せる。男子バスケ部のマネージャーらしい。
「西宮ちゃんはこの前、説明書とにらめっこして、プログラム機能使えるようになったんだよ。見習ってほしいね。ほら、このボタンを押したら、保存されたインタバールプログラムが呼ばれるから」
北山さんの手解きを受けて、桐山くんはボタンを押す。黒いデジタル表示板に、赤いLEDの数字が点滅した。
「さんきゅー、夏希。いつも助かるよ」
桐山くんはコートの中心へ、赤と青のビブスが並ぶところへ駆け足で向かう。
体育館の壁時計は四時二〇分を示していた。
タイマーが試合開始の合図を鳴らす。第一クォーターが始まった。
バスケットボールがコートの中心で投げ上げられる。
初めは誰もハルをマークしていなかった。選手たちはもみくちゃになりながら、ボールを奪い合っている。ハルはボールを中心にした人塊から三歩ほど離れた位置で様子を伺っていた。
誰かが指先でボールを弾いた。すかさずハルは駆け出し、集団から逸れたボールをキャッチする。誰も七番をマークしていない。青いビブスの群れが慌ててドリブルの音を追いかけたけれど、もう遅かった。ハルは誰にも邪魔されずゴールに辿り着き、お手本のようなレイアップシュートを決める。
二点――赤チームに入る。試合が始まって、まだ十秒しか経っていない。
選手たちは、ハルが現役ではないからと、油断していたことを自覚したらしい。以降、ハルがボールを持つと、必ず誰かがマークにつくようになる。
青チームの桐山くんに向かって放たれたボールを、ハルが奪う。しかし、今度はドリブルをする前に囲まれてしまう。ハルはボールを上に構えて――後ろにパスを送る。ボールを受け取った味方は、落ち着いたセットシュートで得点を取った。
白熱した試合に見惚れていると、タイマーから休憩の合図を鳴った。
得点板を見る。22対18――ハルのチームが四点リードしていた。
ハルはふうーっと息を吐いて、手脚を揺らした。体内に籠った熱を体外へ逃している。肩からは湯気のようなものが立っていた。
得点板を捲る右足を怪我した部員に、わたしは尋ねる。
「ねえ、どうして今日は、ハルが要るの?」
「明後日の日曜、北高と練習試合があるんだよ。だから実戦形式で練習したいんだけど、俺が怪我したから、人が足りなくてさ」
男子バスケ部の部員は、全員で十人。バスケットボールはそれぞれのチームから五人、選手をコートに出すから、九人では試合ができない。
得点係は右足を気にして言う。
「俺は大丈夫だって言ったんだけど、キャプテンが絶対安静って……」
「桐山くんってさ、彼女いるのかな?」
彼は一瞬だけ桐山くんを見た。動揺が声に現れている。
「あ、え、キャプテンのこと好きなの? でも、あいつ北山さんと付き合ってるよ」
桐山くんの彼女は、北山夏希。ローマ字にすると、Kitayama Natsuki――〈K.N.〉。
踊り場で目撃した光景が、目蓋の裏に蘇る。桐山くんと〈H.N.〉の四分間に渡るキス――
もしかしてあれは、浮気の現場だったのではないか。
結果的に、ハンカチを桐山くんに渡さなくて正解だったかもしれない。浮気の現場を見ていたとなれば何を言われるか、想像もしたくない。
遠目に彼の表情を見る。あの爽やかな笑顔の裏には、黒い本性が隠されているのだろうか。泥のような不信感が、心の底に堆積していく。
「そろそろ、第二クォーター始まるわよ。準備しなさい」
ボブカットの女子が手を叩いて、休んでいる選手たちを起こした。はきはきとした物言いのせいだろうか。三白眼の吊り目も相まって、どこか怒っているように見える。運動部とは思えない、細くて白い脚。堂々とした腕組みに、話しかけてくるな、と声が聞こえてきそう。
西宮文美――一年A組、同じクラスの女の子。
「マネージャー、してるんだ」
西宮さんはぶっきらぼうに応える。
「そう。サブだけどね」
Nishimiya Humi――姓名を逆にすれば〈H.N.〉だ。
彼女が桐山くんの浮気相手なのだろうか?
第二クォーターが始まった。
西宮さんは視線を奪われたように試合を眺めている。まるで恋する少女のような、真剣な眼差しだった。
わたしは彼女の隣に立ち、ひそめた声で尋ねた。
「フミちゃんはさ、桐山くんのこと気になってたりする?」
「はあ? キャプテンには夏希がいるでしょ?」
たとえ好意があったとしても、教えてくれないか。
桐山くんへの好意を認めることは、北山さんへの宣戦布告に等しい。そうなれば男子バスケ部は泥沼だ。西宮さんもそれは理解しているはずである。
ハルは桐山くんからボールを奪って、スリーポイントシュートを決める。西宮さんが握りこぶしを小さく振った。中途半端なガッツポーズを見られたのが恥ずかしかったらしい。わたしの視線に気づいて、西宮さんの顔は真っ赤になる。羞恥心を誤魔化すようにそっぽを向いて、早足でコートから離れてしまった。
わたしはハルを視線で追っていた。ハルはくるりと回転して、保持したボールを敵から守る。
タイマーは残り三分を示していた。
桐山くんもスリーポイントシュートを撃つ――惜しい。リングに弾かれたボールを巡って、ゴールの下で激しい攻防が始まる。リバウンドを制し、点を入れたのは青チームだった。
32対29――まだ、ハルのチームがリードしている。
タイマーが第二クォーターの終わりを知らせる。
二十分のハーフタイムになり、選手の半分はフローリングの床に大の字で倒れ込んだ。残りの半分も、ぜーはーと、息を切らしている。
北山さんがキャスターを転がしながらウォーターキーパーを運んできた。彼女は化粧気のない子供のような笑顔を桐山くんに向ける。二人だけのアイコンタクト、恋人っぽい。
北山さんの三歩後ろ歩く西宮さんは重ねた紙コップの塔を二つ抱えていた。二人は慣れた手つきで紙コップに液体を注ぎ、汗だくの選手たちに配る。
「夏希、桜町の分も頼む」
桐山くんは北山さんから紙コップを二つ受け取り、片方を一瞬で飲み干した。それからハルの隣に行き、もう片方の紙コップを差し出す。
「ほら、ポカリだ、飲め」
ハルは息も絶え絶えに、桐山から紙コップを受け取った。
「冷たっ!」
「相変わらず、君はすごいよ。この実力なら、今からでも大会のメイン選手になれる」
「それは言い過ぎだろ。中三でバスケを辞めてから、かなりブランクがある。もう、だいぶ体力が落ちた」
「今からでも、バスケを再開するつもりはないのか?」
「目指してる大学があるんだ。俺がそこに入るには、今から勉強しないと……まあ、息抜きにはちょうどいいよ」
ハルはセツカちゃんと同じ大学に行くために、高校では部活に入らず勉強に勤しんでいる。その一途さがわたしは大好きで、決して自分に向かないことに、時折だけど泣きたくなる。
「俺たちの本気が、息抜きかよ」
桐山くんはわざとらしく大きな声で、淀んだ空気を塗り替えるように笑った。
第三クォーターからハルの動きは少し鈍くなる。目の前でパスカットされ、失点を重ねた。フェイントを見切れず、相手に突破される瞬間もあった。
前半にハルが稼いた赤チームのリードが次第に縮められていく。ハルが苦しそうな表情で顔を上げるたび、わたしは胸が詰まりそうになる。
――52対49。
第四クォーター、誰もが底が尽きた体力を気合いだけで動かしていた。滝のような汗を散らして、味方にパスを繋ぐ。桐山くんはボールを受け取ると、タイマーをちらりと確認した。ここでゴールを外したら、もう時間がない。
桐山くんが跳ねる。右手から押し出されたボールが、リングに向かって美しい弧を描く。
試合終了の合図がタイマーから響いた。
結果は68対69。
コートを走り回っていた選手たちは、全員、雪崩のように倒れ込んだ。死屍累々という表現がぴったりな光景が、体育館に広がる。吐く息で雲ができそうだった。
北山さんが女神のように微笑む。
「こんなになるまで、君たち、ずいぶんと走り回ったね。いつもの五分休憩で済む?」
最初に立ち上がったのは、桐山くんだった。ゾンビのような足取りでウォーターキーパーに向かう。北山さんから紙コップを渡されて、彼は一気に呷った。
「おかわり!」
桐山くんの声が合図となって、部員たちは起き上がった。ウォーターキーパーへ群がる彼らに、マネージャーの二人は忙しくポカリスエットを配る。
ハルは大の字に転がって、とにかく酸素を取り込もうと息を吐いていた。肺が空になれば、空いた分だけ勝手に空気が取り込まれる。
呼吸に合わせて上下する胸を見ていると、わたしの心臓が、どくんと跳ねた。血液が顔まで登ってきて、周りの音が霞んでいく。
「柊木さん、桜町くんにこれ、持っていってよ」
わたしは西宮さんから紙コップを受け取り、ハルに近づいた。ハルは上半身を起こして壁に背を預ける。
「ハル、お疲れ様。飲めそう?」
ハルは目蓋を下ろしたまま、息を吐くのと同時に頷いた。声すら出せないらしい。
わたしは紙コップをハルの口に近づけた。じっとりとした息が肌に当たって、湿った唇が僅かにわたしの指先に触れる。ハルはそれに気づく素振りもなく、ごくごくと冷えた液体を喉に流し込んでいる。
額を流れる汗の雫が、わたしの手の甲に落ちた。
「十分、休ませて。そうしたら、五時三五分くらいだろ」
体感では、試合終了から一、二分経っている。わたしは体育館の壁時計を見て、
「今は五時三〇分だから、十分後は五時四〇分だね」
ハルは振り返って壁時計を確認した。
「――本当だ」
部活動で体育館を使用できるのは午後六時までらしい。
西宮さんが、部員たちに呼びかける。
「お前ら、片付けの時間だよ。紙コップは体育館の入口のごみ箱にね」
部員たちは空っぽのごみ箱に紙コップを投げ込み、近くで立っている北山さんと桐山くんにビブスを渡していく。
わたしとハルは、彼らから少し離れたところにいた。持っていた紙コップをくしゃくしゃに握る。
ハルは最後の力を振り絞ってビブスを脱ぐ。ビブスを受け取ったわたしに、北山さんが手を差し出す。
「すぐに洗濯機に突っ込むから、畳まなくていいよ」
「それなら……」
本当は名残惜しかったけれど、ハルの汗が染みついたビブスを、わたしは北山さんに渡した。
西宮さんがタイマーを体育館倉庫に運んでいる。他の部員たちも、壁際に散らばったボールを籠に入れていく。片づけを終えて、北山さんは体育館倉庫の鍵を施錠した。部員たちは次々に体育館から出ていく。
桐山くんがまだ倒れているハルの顔を見下ろす。
「今日は助かったよ。今度お礼に何か奢る」
「とびきり高価なやつを考えておくよ」
「それは困るな。彼女へのプレゼント代くらいは、残させてくれ」
体育館を出るとき、ハルは深く息を吐く。一度だけ、悔しさと共に床を蹴った。




