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原罪少女の推理練習曲  作者: 有上透
第一話 くちづけは四分でこと足りる
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1-1 踊り場のキス

 ――七月の初め、夏の暑さが増してきた頃。

「あー、ハル!」

 季風(きふう)高校の屋上に繋がる扉は、いつだって開かずの扉である。扉の手前――階段を上った先の行き止まり、涼しげな顔をしながらコンビニのあんぱんを食べるハルを見つけて、わたしはついに叫んでしまった。時すでに遅し。あんぱんの大部分は彼の胃袋の中である。残っているのは一口サイズの欠片だけ。

 ハルは耳を塞いで、眉を歪める。

「もう……人が食事してるときに、なんて大声……」

 お弁当を抱えていなければ、あまりのショックで両手が床についてしまうところだ。

「なんてこと。わたしが掴むはずの胃袋が……」

「随分と物騒な。まるで物語に登場する魔女だな」

「直接掴むわけないでしょ。幼馴染をそんな風に言わないで」わたしは露骨に落ち込んで、ハルの隣を占領する。「まったくもう……せっかく、わたしがお弁当を作っているのに、君は勝手に一人で昼食を取っちゃうんだ。しかもそれ、コンビニで適当に選んだものでしょ」

 野菜ジュースは飲み切ってしまったらしく、空になったパックが中途半端に凹んでいた。ハルは残ったあんぱんを口に押し込み、水筒の中身で流し込む。

「適当じゃない。ちゃんと栄養バランスを考えてる」

「全部、野菜ジュースに押しつけてるじゃん。あーあ、わたしの料理が企業努力に劣るって言われてるみたい」

 たかが高校二年生の少女が巨大企業に敵うと思っているのなら、わたしはとんだ傲慢女だった。でも女子高生の手作りお弁当なら、ブランド力で負けていないはず。

 風呂敷に包んだ弁当箱を、スカートに覆われた太腿に乗せる。

「君がそんな態度だと、落ち込んじゃうよ」

 ハルはわたしの演技を真に受けて、気まずそうに額を掻く。

「別に……フユの弁当を不味いと思ったことはないよ」

 二人の間に挟まる水筒を退かして、わたしはハルに距離を詰める。鼻の先が触れそうなくらい顔を近づけた。

 ハルは顔を背ける。

「近いよ。離れて」

 恥ずかしがり屋め。そのままキスしてくれてもいいのに。

 このまま眺めていたい衝動を押し留め、わたしは顔を離す。

「それで、お弁当のどこが嫌なの? 言ってくれれば直すからさ」

 もちろん、何を言われてもお弁当作りを止めるつもりはない。わたしは傲慢な女だから。

「恩着せがましいというか、俺のために作ってる感じがするところ……」

「なあんだ。別に気にしなくてもいいのに。これはわたしが、わたしのために、わたしがやりたくてやってることなんだから」

 エイブラハム・リンカーンもびっくりする自己中心的な台詞を吐いて、わたしは弁当箱の風呂敷を広げた。水色のタッパーと黄色のプラスチック容器が二つずつ。

「ほら見て。美味しそうでしょ?」

 片方のプラスチック容器を開けて、ハルに差し出す。

 ハルの好物であるハンバーグはもちろん、地味な彩りにならないようポテトサラダやブロッコリーの配置に気を配ってある。ただし、ハルが苦手なミニトマトは入れていない。砂糖を少し入れた卵焼きは今日の自信作だ。タコさんウインナーも忘れてはならない。

「俺は、いつか太らせて食われるんじゃないかと恐れているよ。ほら、『ヘンゼルとグレーテル』の魔女みたいに」

 ハルは手を合わせて、いただきます、と呟く。総菜パンでは足りないのか、わたしに気を使ってくれているのか、彼はいつも作ったお弁当を食べてくれる。

 タコさんウインナーの頭をハルの口に押し付けて、

「別に何も要求しないよ。『美味しい』って言ってくれたら喜ぶけど」

 それからタッパーを開けて、梅干しと海苔を添えたご飯をハルに披露する。眠気に耐え切れず、目蓋を擦った。

 ハルが心配してくれる。

「フユ、大丈夫? 今朝は早かったんじゃ……」

「それは、君が気にすることじゃないよ。君が灰色の脳細胞を使って考えなければならないのは、味の感想だ」

「何も要求しないんじゃなかったのかよ」

 梅干しのり弁当をハルに渡して、わたし太腿に残ったもう片方のお弁当を開けた。ハンバーグの端を箸で切って、口の中で出来栄えを確かめる。これなら成功と評価しても良いだろう。

 ハルと一緒にお弁当を食べるこの時間が好きだ。ハルはそうじゃないかもしれないけど、わたしはこの時間のために、お弁当を作っている。

 ハルは特に何も言わず、もぐもぐと食物を口の中に入れている。長くカールしたまつ毛に、窓から差す光がきらきらと反射していた。鼻梁が高く、美術室の石膏像のように彫りが深い顔なのに、目はぱっちりとしていて、愛くるしい。羨ましいほど肌艶がよいが、特別、何かしているわけではないらしい。

 かっこいいと思う。でもこのかっこよさは、わたしではない誰かのために磨いたものだ。

「ごちそうさまでした。美味しかったです。でも、無理に俺のぶんまで作らなくていいからな」

 ハルは律儀に、軽くだけど頭を下げた。立ち上がろうとする彼を引き止めようと、わたしはワイシャツの裾を掴む。

「好き、ハル。だから付き合って」

 家が隣で、小学校からの幼馴染。同級生の男の子で、決して届かないわたしの片想い相手。それが桜町春。

 好意を押しつけている自覚はある。自分の底意地悪さを理解していながら、わたしはハルの優しさにつけ込もうとしている。

 ハルは困っている。顔を見なくても分かる。返事はすでに決まっていて、彼は絞り出すようにそれを言葉にした。告白を断る側だって、告白するのと同じくらい勇気が必要だった。

「ごめん。好きな人がいるんだ」

「知ってる。ハルはセツカちゃんが好き」

 わたしの姉――柊木雪花(せつか)。成績優秀、文武両道、才色兼備。わたしが敵うところは一つもない。ハルとわたしがこの高校に入れたのも、彼女が勉強を教えてくれたからである。非の打ち所がない姉だ。非の打ち所があればよかった。

「はあ、一途だなあ」

 目蓋が重い。早起きしすぎたからか、睡魔が襲ってくる。

「フユ、やっぱり無理してるよね。保健室まで連れて行こうか?」

「ううん、大丈夫。でも少しだけ寄りかからせて」

 ハルは心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。少し弱みを見せたら、すぐに無防備になるところも好きだ。少しでも目を離したら、わたしから離れてしまいそうで不安になる。

 高校生になってから、ハルは素っ気ない態度を取るようになった。わたしにチャンスはないのだと、恋を諦めさせるためだ。でもハルは優しいから、わたしが弱った振りをすれば本気で心配してくれる。優柔不断で、中途半端で、なにより甘い。だから、わたしにつけ込まれる。

「セツカちゃんの、どこが好きなの?」

「家族を大切にしているところ」

「君は意地悪だね」

 わたしがいるから、ハルはわたしの姉を好きになった。そう言うのだから、本当に意地が悪い。

 セツカが妹であるわたしを大切に思っていてくれているが故に、わたしは今もハルの隣に居続けられる。セツカの――好きな人の大切な妹を、ハルは無碍にはできない。それを理解していて、ハルに我が儘を通そうとするわたしは、本当に性格が悪い。

 片目を、少し開ける。

 彼の唇はすぐそこにある。小指と薬指くらい近い。今なら、ハルが手で防ぐ前にくちづけができる。

 ハルの尊厳をめちゃくちゃにして、今の関係をずたずたに引き裂いて、それでも一回のくちづけの思い出を胸に明日を生きる覚悟があるなら――

 くちづけは四分でこと足りる。

 心を決めるのに、三分。くちづけは、一分だけ。

「……静かに。誰か来た」

 わたしの覚悟を、ハルの人差し指が阻んだ。起き上がって、ハルの視線を追いかける。

 夏仕様の制服を着た男女の生徒が、半階下の踊り場で指を絡めていた。男の子は茶髪で、ずいぶんと背が高い。女の子の顔は男子の背中に隠れて見えなかった。

 屋上は開放されていないから、普通なら誰も来ないという点で、そこの踊り場は絶好の場所だった。

 わたしとハルは踊り場と屋上扉の間で逃げられなくなっていた。幸い、ここは死角になっているから、音さえ立てなければ気づかれることはない。この場を去ることもできず、二人の行為を、わたしとハルは上から覗いていた。

 二人の口吻は少なくとも三分を超えていた。女子生徒の顔は男子生徒の大きな背中で隠されていたけれど、彼らが唇を合わせていることは明らかだった。たった四分が永遠に引き延ばされたように長く感じる。

 もう、何もかもダメな気がした。愛し合う二人の情熱的なそれを目撃してしまったら――

 わたしはきっと、一分では満足できない。

 これ以上見てはいけない。そう理性が叫んでいる。それを分かっていながら、わたしは瞳に映る光景から、目を離すことができなかった。スカートの裾を握ると、手のひらが汗で濡れていることに気づく。

 わたしはハルの耳元に囁く。もう死にそうなくらい、心臓が鼓動している。

「ねえ、ハル――」

 そのとき、ハルの水筒が倒れて、カランと音が響いた。

 音に反応して、踊り場の二人は寄せ合っていた身体を離した。辺りを見渡し、逃げるように階段を降りていく。一瞬、男子生徒の横顔が見えた。

 隣を向くと、林檎みたいに真っ赤な顔のハルと目が合った。ハルは気まずそうに、わたしから顔を背ける。

 前髪を直すとき、わたしは自分の顔が酷く熱を持っていることに気づいた。

 

「それ、捨てておいてあげるよ」

 わたしは菓子パンの袋と、野菜ジュースのパックをハルから奪うように持ち去る。

「あ……ありがと」

 感謝の言葉を聞き終わるより先に、わたしは駆け出していた。逃げるように階段を降りると、踊り場には赤い薔薇の模様が並んだ薄ピンクのハンカチが落ちていた。隅に〈H.N.〉と刺繍が施されている。きっと、女子生徒のイニシャルだろう。

 〈H.N.〉が羨ましい。わたしもハルとあんなふうに――

 つい拾ってしまったハンカチを、元の位置に置くのは憚られた。わたしはスカートのポケットにそれを押し込んで、再び駆け出す。

 〈H.N.〉を見失ってしまった。仕方がないので、近くにあった女子トイレに入り、一息つく。洗面台の蛇口を捻ると、勢いよく水が飛び散った。

 鏡に写る自分は、何か物足りないという表情をしている。

 〈H.N.〉は四分でこと足りたのだろうか?

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