2-8 悪意の代償
終業式が終わり、大半の生徒たちは夏休みを謳歌すべく下校していく。彼らの人波に逆らって、わたしは一本桜に向かった。
旧校舎の割れた窓ガラスが、まだ残っている。
わたしはこぶしを握り、一度だけ空を殴った。
一本桜で松来くんは待っていた。一回目のときにように、おろおろしていない。ただ静かに、葉桜を見上げている。松来くんはわたしを見つけて、ゆっくりと頷いた。
「約束通り、来ました」
「来てくれるって信じてたよ。少しだけ、わたしの話を聞いてくれる? ちゃんと話をするために、わたしの話すことが合っていたら、素直に認めてほしいんだけど」
「約束ですからね。ある程度であれば」
「ありがと」
礼を言って、わたしは話を続ける。
「職員室から数学のテストの問題が入ったUSBが盗まれた事件、松来くんは知っているはずだよね。だって君が犯人なんだから。野分先生を保健室に運んだ後、教室に戻ったとき、君は教室に一人残っていた。あのとき君は、わたしが教室のドアが開けた音に反応して、腕を引っ込めた。握っていたUSBを隠したんだね」
これが、私が犯人を松来くんだと確信していた理由。
松来くんはスラックスのポケットからUSBを取り出す。
「約束ですからね、認めますよ。でも、どうやって僕は、密室だった職員室から、USBを盗み出したんですか?」
「自分で分かってるくせに」
「説明できないなら、僕はこれを廊下で拾ったと主張しますよ」
「もちろん、松来くんが使ったトリックも分かってるよ。まず君は、職員室の中に黒いダウンジャケットの人間を登場させた。野分先生は怪しい人物に気づいて職員室に戻る。ここで職員室の鍵が開いた。そして先生が窓のクレセント錠に気を取られている間に、君はこっそり職員室に入り、廊下側にある野分先生のデスク、ノートパソコンからUSBを盗んだ」
窓を調べているとき、警備員が聞いた物音は、犯人がパソコンの端子からUSBを抜いた音だったのだろう。
「一つ、突っ込みどころがありますね。どうやって僕は、職員室の中に黒いダウンジャケットの人物を登場させたんですか?」
「前提として、君は校舎の中、どこかで隠れていた。帰宅の準備をした野分先生が各教室の見回りして、教室に生徒が残っていないこと、窓が閉まっていることを確認したらしいけど、それは教室を覗くだけの簡素な確認だった。どこに隠れるのがいいのかな。本気で隠れるなら教室じゃなく、トイレが一番確実だと思うけど」
「教卓の下とかね。意外と気づかれませんよ」
「素直で助かるよ」
「約束なので」
「さて、野分先生の巡回を乗り越えて、君は職員室の真上の教室に向かった。教室の窓枠を一つだけ外し、あらかじめ用意していたワイヤーかロープを窓枠に結ぶ。それから黒いダウンジャケットを、外した窓の内側に張りつける。三階の教室から窓枠を垂らして、職員室の窓にぴったり合わせたら、外からは、ダウンジャケットを着た人間が職員室にいるように見える」
二つの窓ガラスにダウンジャケットが挟まっているという状況――窓ガラスの向こう側のダウンジャケットを見て、野分先生は職員室の中に不審者がいると思い込んだ。
「どうして、黒いダウンジャケットなんです?」
「厚みを誤魔化すためじゃないの? ダウンジャケットのもこもこした輪郭で人間の厚みを分かりづらくする。黒い色は不審者っぽく見せるためかな」
「そんな方法があったんですね」
松来くんはわざとらしく頷いた。それからわざとらしく首を傾げる。
「でも、校舎から出た野分先生が、振り返って職員室を見てくれるか、分かりませんよね」
「野分先生が振り向くように、スマホで、窓ガラスが割れる音を鳴らしたでしょう。これが、先生が聞いた幻聴の正体」
「さすがですね、柊木さん。後はあなたが最初に説明してくれた通りです。先生が警備員を引き連れてきたときは少し焦りましたが、計画通りうまくいきました」
「どうして、そんなことをしたの?」
「柊木さんの口から言ってください。もう分っているんでしょう?」
「うん」
姉のヒントを思い出す。
――松来くんの動機をもう一度よく考えてみて。そうしたら、もう一つの期末テスト盗難事件が見えてくると思うから。
わたしは松来くんの、光を失った瞳を見つめる。
「松来くんがUSBを盗んだ動機は、野分先生に数学のテストを作り直させることだった。君がUSBを盗む前に、竹内くんはすでに数学のテストの問題を盗んでいた。データだけね。君は竹内くんにズルをさせないために、犯行に及んだんだ」
――期末テスト盗難事件は二回あった。
松来くんは目蓋を閉じて唇を噛む。頭の上で葉桜が大きく揺れた。
「柊木さん、本気でそんなことを思っているんですか? テスト前の職員室は生徒にとって完全な密室だった。鍵がかかった職員室に侵入し、一切痕跡を残さず職員室から脱出する。そんなことは、竹内はおろか、僕にも柊木さんにも、誰であろうとできるはずがない」
「最後まで、竹内くんを庇うんだね」
間違った優しさかもしれない。けれども、紛れもなく友人に対する優しさだ。
わたしは、そんな彼の気持ちを、踏み躙るつもりで言う。
「竹内くんの犯行の痕跡が残っていないというのは間違いだよ。痕跡は、はっきりと残っていた」
「……」
「旧校舎の窓ガラスが割られていた」
松来くんの表情が曇る。わたしは竹内くんが使ったトリックを言葉にする。
「テスト前の週、月曜日の夜、竹内くんは窓ガラスを割って職員室に侵入した。職員室は二階だけど、いくらでも入る方法はある。隣の教室から壁を伝って職員室に入る、梯子を使う、三階の窓から降りる……そうして職員室に入った竹内くんはUSBの中身を覗き、テストの問題を手に入れた」
学校支給のパソコンは、モニターの右端にパスワード入りのシールが貼られている。職員室のパソコンも例外ではない。
「でも、職員室の窓ガラスは割れていなかったんでしょう?」
松来くんの質問にわたしは答える。
「旧校舎の窓ガラスと割った窓ガラスを、窓枠ごと入れ替えたんだ」
先生たちが帰った後なら、犯行時間は充分。職員室に飛び散ったガラス片は、回収して旧校舎に移動させた。
入れ替えられたのは旧校舎の古い窓枠だ。恐らく、元々職員室にあった窓よりも、スムーズに動かないのだろう。野分先生は無理に窓を開けようとして、爪を怪我した。
松来くんが首を横に振る。
「しかし、竹内が窓から脱出したのなら、クレセント錠はかけられない」
「だから、クレセント錠は開けたままだったんじゃないかな? 竹内くんはUSBに入っていたテストの問題を見たけれど、USBは盗っていない。窓の入れ替えに気づかなければ、いつも通りの職員室だ。一つだけ窓に鍵がかかっていない状況なら、先生だって、鍵の締め忘れだと考える。それが普通の思考でしょう?」
わたしは推理を続ける。
「竹内くんは窓を入れ替えた後、旧校舎の窓の他の窓も割った。一枚だけ割れた窓ガラスの不自然さを消すためだね。犯行のカモフラージュだ」
職員室から運ばれたガラスの破片は、旧校舎のガラス片と混ぜられた。竹内くんの犯行は、火曜日の朝、旧校舎の窓ガラスが割られた事件として発覚する。結果的に彼は、事件を職員室で起こしたにも関わらず、先生や生徒の注目を、まったく別の場所――旧校舎に向けることに成功したのだ。
竹内くんが『今回は一人で勉強する』と言い出したのは、不正から松来くんを遠ざけるためだろう。《友達想い》の彼は、親友を自分のズルに関わらせないために、そのような提案をした。一方で松来くんは、竹内くんの様子がおかしいことに気づき、彼が不正に手を染めたことを知った。
彼は疲れた表情で、でもどこか荷が下りていた。
「本当にすごいな、柊木さんは。全部、見抜かれた」
「褒めてくれてありがと」
わたしも、セツカちゃんの助言がなければ真相に辿り着けなかった。でも、これは言わないでおくことにする。
松来くんが顔を上げる。
「でも、分からないな。どうして一本桜の前で、柊木さんがこの話をしたかったのか」
それはね――
今、わたしは、きっと――悪魔のような表情で彼を見つめている。
「竹内くんに、悪意の代償を払ってもらうためだよ。彼はハルに、盗んだ数学の問題を尋ねた。ハルを、カンニングに巻き込もうとした。
そんなの、許せるわけないよね」
わたしは一本桜に声をかける。
「もう出てきていいよ、竹内くん」
桜の木の後ろから、足音がする。一本桜の裏に隠れていた竹内医人が姿を表す。
――初めて松来くんとここで話したとき、ハルは一本桜の後ろに隠れていた。
竹内くんは、松来くんの襟首を掴んだ。
「余計なことするなよ! おまえがそんなことするために、僕は……こんなことしたわけじゃないんだ」
竹内くんは友達想いだ。だから、自分のせいで友達に悪事を働かせてしまったことに後悔する。
そのためにわたしは、今朝、竹内くんの靴箱に手紙を入れた。メッセージで一本桜の後ろに隠れるように指示し、松来くんの犯行を聞かせた。
これが竹内くんの悪意の代償だ。
ハルを悪事に巻き込もうとした、君への罰だ。
もちろん、わたしの自己満足でしかない。
たとえ未遂になったとしても、わたしは君を許せない。
竹内くんは松来くんを押し退けて「ごめん」と頭を下げた。松来くんに言葉を返す隙を与えないまま、彼は一本桜を走り去る。
一本桜の葉の影で、わたしと松来くんは向かい合っていた。
「竹内は、ただ魔が差してしまっただけなんだよ。両親からのプレッシャーが耐えられなくて……」
「松来くんにも魔が差した経験、あるでしょう?」
わたしの質問に、松来くんは口を開けたまま固まった。追い打ちをかけるように、わたしは尋ねる。
「夕暮れの教室に一人残っていたでしょう? どうして君は、ハルの机を眺めていたの?」
「それは――」
彼は俯いて口籠る。
「あのとき君は、ハルの机にUSBを握った手を伸ばしていた。松来くん、机に盗んだUSBを入れようとしたでしょう?」
松来くんは、厳しい選択を迫られたような苦しい表情で、葉桜を見上げた。息を吐いてようやく頷く。
「そうだね。あのときの僕は、たしかに魔が差していた。僕は桜町春に嫉妬していた。君の愛と尊敬をその身に受ける彼が、羨ましかった。それで――困らせようと思って、机にUSBを入れようとした」
もし、ハルの机からテストの問題が入ったUSBが出てきたら、クラスメイトたちはハルのカンニングを疑うだろう。噂はどこから広まるか分からない。
少なくとも、ハルはUSBに動揺する。テストの問題を流出させ、その罪を自分に着せようとした犯人について、ハルは頭を抱えることになる。
だからわたしは、松来くんにテストの成績勝負を蒸し返した。彼への切り札になると思ったから。
松来くんは潤んだ目で、訴える。
「でも、ちょうど、柊木さんが教室に入ってきた。だから未遂で済んだ。魔が差したけれど、手を染めずにいられた」
「ごめんね」
心にもない謝罪。わたしは蔑んだ目で彼を見ている。
「それでも、たとえ未遂でも、わたしはあなたが許せないの」
松来くんへの――報復を果たす。
スカートのポケットから、水色の封筒を取り出す。封筒の表面には端正な字で「柊木冬様へ」と書かれている。
「君が、わたしを一本桜に呼び出した手紙だよ。ただの手紙じゃない。ラブレターだ。直接『好き』や『付き合って』の言葉はないけれど、それでもこれはラブレターだった」
ラブレターの文章は五文で構成されている。それぞれの文、一番目の読点の後に読む一音、それらを繋げると、差出人が本当に伝えたかったメッセージが現れる。
突然の手紙、きっと……
昨年の四月、道(みち)に迷っていた私を……
その後同じクラスになり、学(がく)業に励むあなたを……
想いを文字で伝えることも考えましたが、素(す)直な気持ちは言葉で……
本日十六半、旧(きゅう)校舎の……
隠されたメッセージは『きみがすき』だ。だからこの手紙は、正真正銘、松来秀太朗がわたしに宛てたラブレターだった。
迷いはない。わたしは悪意の代償を払わせるため、彼を一本桜に呼び出したのだから。
友人のために、窃盗までした松来くんのことだ。わたしに真実を言い当てられても、最後まで竹内くんを庇おうとした君のことだ。先生たちに真実を告げ、君を処分させたところで――覚悟なんて、とっくに出来ているのだろう。
わたしは先生たちに嘘の推理を話した。
直接、あなたに手を下すために。
あなたには、より辛い罰を。
推理は竹内くんへの罰。今から行うのは松来くんへ罰だ。
これも自己満足でしかない。
手の震えに対して、わたしの思考はずっと明晰だ。
松来くんは慈悲を乞うような目で、わたしの両手に摘まれた封筒を凝視している。
わたしは封筒の上から、ラブレターを容赦なく引き裂いた。




