2-6 期末テストを終えて
結局、あの数学の問題『微分の定義から、cos xの微分を求めよ』は出題されなかった。数Bのテストの後、西宮さんが話しかけてくる。
「結局、竹内の行動はなんだったのかしら」
「さあ? まあ、よかったじゃん。カンニングに関与してなくて」
今回のテストでも、竹内医人のカンニングはなかった、ということである。
◇
職員室のデスクの上には、採点済みのテストが積み上がっている。ほとんどの生徒はすでに夏休み気分だろう。一方で先生たちは、どこか殺気立っている。野分朔は腱鞘炎になりかけた右手で赤ペンを握り、丸をつけて点数を書いた。先生はテスト後が最も忙しい。だが、それももう終わり。最後の一枚を採点する。今、すべてが終わり、野分は凝り固まった肩をほぐすように伸びをした。
金山が話しかけてくる。彼はすでに採点を終えているようだ。
「ようやく、一学期が終わりましたね。明日の順位発表に生徒たちは戦々恐々としているかもしれませんが……野分先生、お祝いにラーメン屋にでも行きませんか?」
「いいね。私も、こってりした豚骨醤油が食べたい気分だったの」
「意外と豪傑ですよね、野分先生」
業務を終えて、野分はトートバッグに荷物を詰める。職員室を出ると、金山は背負った黒いリュックサックを壁に預けて待っていた。
「いい店を知っています。お送りしますよ」
野分は車を持っていない。金山の車の助手席に乗せてもらう。
金山が向かったのは、太筆で書いた看板のラーメン店だった。店に入ると、にんにくの匂いが腹の虫を刺激する。
二人はカウンター席の端に、詰めて座った。金山が壁側である。
「野分先生、こちらメニューです」
野分の視線は、レンガのような分厚い燻製肉が乗ったラーメンに吸い寄せられた。
「これにするわ。豚骨醤油、厚肉ラーメン」
「では、僕も同じやつを」
店員がピッチャーをカウンターに置く。お冷はセルフらしい。
野分が二人分の注文をする間、金山が二人分のお冷をコップに注いだ。
カランと入口のベルが鳴った。
入ってきたのは、脂の浮いたラーメン店には似つかわしくない、可憐な少女だった。少女は野分と金山を見て、慣れた足取りで近づいてくる。
「あれ、野分先生と、金山先生?」
「柊木さん……どうしてここに?」
「無性に豚骨が効いたラーメンが食べたくなるときって、ありません? 今がそれなんです」
柊木冬はにやにやしながら、カウンター席へ、野分の隣に座る。
「店員さん、豚骨醤油、厚肉ラーメンをお願いします。へえ、先生たちもこのお店に来るんですね。金山先生はよく食べるイメージがありましたけど、野分先生は意外だなあ」
「そんなに、僕のお腹って出てますかね」
金山が心配そうに服の上から腹を擦る。少なくとも筋肉質ではない。
冬の表情が、ぱあっと明るくなる。
「あ、もしかして、お二人でデートですか? しかも職場帰り!」
これは決してデートではない。野分は少女の思い込みを、すぐに否定する。
「違います。まったく……高校生はすぐに恋愛に結びつける」
「女子高生なんて全員、ピンク色の脳細胞なんですよ。野分先生も、高校生のときは、そうだったんじゃないのー?」
どうだったか。小さいときから少女漫画や恋愛小説こそ好んで読んでいた野分だったが、自分のことになると、学業一筋だった気がする。
金山が冬を嗜めてくれる。
「柊木さん、そこまでにしておきましょうよ。野分先生も困っていますし」
「そう言う金山先生は、野分先生に気があったりして」
「本当に恐ろしい生徒ですね。君の手にかかれば、白も黒に、いやピンクになるんだから、まあ恐ろしい。そもそも僕は、ふわふわした可愛らしい女性がタイプなのです」
「それじゃあ金山先生は、野分先生のことは何とも思ってないんですね」
「君は極端なことをおっしゃりますなあ。野分先生は頼りになる同期ですよ」
「本当かなあー?」
金山はふう、と安堵の息を吐く。
店員が注文を運んできた。金山と野分の目の前に、ラーメンが置かれる。ニンニクと豚骨の香りを湯気が食欲を唆る。レンガのような燻製肉は、食べ応えがありそうだ。心なしか、メニュー表の写真より大きい気がする。
――いただきます。
二人は両手を合わせて、ラーメンに取りかかった。まず蓮華で豚骨醤油のスープを味わう。続いて麺だ。
金山が箸で掴んだ厚肉を噛みちぎる。
冬は焦れったそうにラーメンを待っている。何か思い出したように振り返り。
「そういえば、野分先生。USBが失くなった件、どうなりました?」
どこから話すべきか、野分は麺を啜りながら考える。柊木冬は賢い生徒だ。野分の失敗をわざと言いふらすことはないだろう。
それに――ここで話さなかったら、また根も葉もない恋愛の話題を振られる気がする。それは嫌だ。本当に。
(もしかして、誘導されてる? まさか、ね)
「恥ずかしい話なんだけど……あまりに疲れていて、幻覚で警備員さんを呼んじゃったのよ。その後、期末テストの問題入りのUSBが失くなっていることに気づいて……」
「先生、休んだ方がいいよ」
「もう、大変な時期は過ぎたし、君たちが夏休みを謳歌している間は、私も休もうかしら」
冬の元にもラーメンが届く。
「いただきます。それじゃあ、野分先生、何があったのか、詳しく教えてほしいな」
口の中に旨味が広がると、不思議と口が軽くなる。野分朔は、二人に黒いダウンジャケットを見たときの状況を話した。
◇
実は柊木冬はラーメンが好物なのだ。絶対にハルの前では食べないけど。
お気に入りのラーメン屋に来てみると、カウンター席にいる野分先生と金山先生を発見した。脳内のピンクセンサーが強い反応を示したので、わたしは二人に恋バナを仕掛けてみる。
はっきりした恋の話は聞けなかったが、ピンクセンサーは「意外な恋に発展?」という結果を返した。今後次第といったところか。
それとは別に、野分先生が見たという職員室に侵入した黒いダウンジャケットの人影が気になる。野分先生の幻覚だったのか、それともUSBを盗難した張本人なのか。
麺を啜りながら、わたしは思考する。
「野分先生、黒いダウンジャケットを見る前、ガラスが割れたような音がしたんですよね。そのとき、どの窓が割られたか確認しましたか?」
「それが、翌朝学校に来て確認したとき、結局どの窓も割れていなかったの」
「どうやって黒いダウンジャケットは、職員室に入ったんでしょう?」
「謎、ね。職員室を出るとき、私は窓のクレセント錠と入口ドアの施錠を確実に行った。当然、職員室には私以外、誰もいなかったわ」
「うーん、密室ですね。職員室を施錠後、先生は一階から三階の各教室を巡回したんですよね。誰かが教室に隠れていたら、気づきました?」
尋ねてみるが、窃盗犯が教室に隠れていたとしても、施錠された職員室に入れるとは思えない。
「……気がつかなかったかもしれない。巡回は簡単なものだったから」
「教室の窓は閉まっていましたか?」
「巡回したときは閉まっていたわ」
「黒いダウンジャケットを見たときは?」
「……正直、職員室以外の窓がどうなっていたか……自信がない」
わたしは麺を箸で掴んで啜った。レンゲで救ったスープがガツンと脳にくる。
「一応、確認です。USBを失くしたことに気づいたのは、黒いダウンジャケットの人影を見た後なんですよね」
野分先生は、厚肉を飲み込んで答える。
「……そうね。でも、密室である職員室に、どうやってダウンジャケットを着た犯人は入ったの?」
「簡単です。生徒や外部の人間からすれば職員室は鍵のかかった密室ですが、ある条件の人たちからすれば、何でもない部屋ですから」
「もしかして、先生たちを疑ってる?」
「加えて、守衛所の警備員さんもです。この人たちなら、職員室の鍵を自由に使える」
金山先生が疑問を呈する。
「でもですね、動機がありませんよ。野分先生のUSBを盗んだって意味がない。生徒の成績を計算するエクセルファイルが欲しいなら、正直に『ください』って言えばいい。それから職員の中に、テストの問題を欲しがる人はいないでしょう。僕らは野分先生のテストを受けません」
「まったく違う動機があったとしたら?」
「それはどんな動機ですか?」
わたしは冗談を言うように、
「好きな人の持ち物さえも、とてつもなく愛おしくなる。それが恋という病です」
「なるほど。先生たち、それから警備員さんの中に、野分先生に恋をしている人がいて、さらには彼女が使用している物が欲しくて職員室からUSBを盗んだと。僕には考えられないな。みんな良識のある大人ですよ」
「それはどうだか。人間、他人が何を考えているかなんて、分かりませんよ」
わたしはにやにやした笑みを金山先生に返して、ラーメンを完食した。




