2-5 松来くんの疑惑
――期末テストまで、あと三日。金曜日。
「来週からあ……期末テストです。皆さんの努力が……点数に表れることを……願っていまあ……す」
野分先生は、悲壮感漂う表情でホームルームを締めくくった。今朝からこの様子なので、今日の二年A組は、彼女の話題で持ちきりである。
可能性その一、彼氏に振られて絶望した。(野分先生には、現在彼氏がいない)
可能性その二、生徒に「数学が嫌い」と宣言された。(一部生徒からすでに言われている)
可能性その三、教師をクビになった。(それなら、なぜ教室にいるの?)
わたしはハルに耳打ちする。
(ねえハル、野分先生、心配だね)
(だね。先生は大人だし、大丈夫だと思いたいけど)
(わたし、ちょっと話、聞いてみるよ)
心配を装って、野分先生に声をかける。
「野分先生、どうしたんですか? 目の下にこの世の暗黒を煮詰めたみたいな隈ができてますけど」
「平気……柊木さんが気にすることではないよ」
わたしは竹内医人のカンニング疑惑を思い出す。
「例えば、テストの問題が流出したとか?」
先生は、びくりと肩を震わせる。
「大切なUSBを失くしてしまって……いや、生徒が気にすることではないね。勉強して、期末テストでいい点を取ってくれたまえ」
「本当に大丈夫ですか?」
わたしの心配をよそに、先生はふらふらした足取りで教室を出る。タイミングがいいのか、彼女は見回りをしていた悦子先生に捕まった。
「これは寝不足ですね。とりあえず、保健室のベッドで寝ましょうか」
「手伝いましょうか」
「柊木さん、それは助かる。一人だとさすがに重いわ」
野分先生が肩をがっくりと落とす。
「どうせ、私は重い女なんだ。何もかも失敗して、孤独に死ぬんだあ」
「ここは現代日本です。失敗しても死にませんよ」
なんだか本当に心配になってきた。眠れば、いつもの野分先生に戻ってくれるだろうか。
保健室まで野分先生を運んだ後、廊下で鞄を背負ったハルとすれ違った。
「フユ、野分先生は大丈夫そう?」
「うん、保健室で寝てる。わたし、教室に鞄置いてきたから、ハルは先行ってていいよ」
「分かった。予備校の自習室にいる」
ハルはセツカと同じ大学を目指している。悔しいけれど、わたしは頑張っているハルが好きだ。だから彼の勉強の邪魔だけはしない。誰にも邪魔はさせないと、そう決めている。
「またね」
下校する生徒たちの流れに逆らって、わたしは鞄を取りに教室まで戻った。
がらんとした教室、松来くんが一人で、じっとハルの机を眺めて佇んでいた。机にぴったりとつけられた椅子に、ゆっくりと手を伸ばす。
わたしがドアを開けると、がらり、という音に反応して彼は腕を引っ込めた。
「来週、期末テストだね。どう? 勉強の調子は?」
わたしの質問に、松来くんは取り繕った歪な笑顔で返す。
「柊木さんが心配することじゃないです。優勝の景品がなかったとしても、あなたや桜町さんに負けるつもりはありませんから」
「そう、それは良かった」
わたしは松来くんに向かって歩を進める。ハルの机を挟んで向かい合う。
「松来くんは、ここで何をしてるの?」
「机を見ていました。これが学年一位の机なんだなって」
「他の机と違う?」
「いや、同じですね」
「そうだよね。でも、わたしにとってこの机は、他の机と全然違うの」
「それは……好きな人の机だから?」
「正解、よく分かってるね」
尋問しているような、空気の重さ。
窓の向こうの夕焼けには、二羽のカラスが飛んでいる。教科書に載っていた太陽の黒点のよう。
わたしは松来くんに尋ねる。
「一つ、数学の問題を出そうか。『微分の定義から、cos xの微分を求めよ』どう、解ける?」
「解けると思います。でも、柊木さんも解けるでしょう? あなたが躓くような問題ではない」
「竹内くんが、この問題をわたしの知り合いに聞いたの」
松来くんはじっと胸に握りこぶしを当てて、深呼吸をした。
「疑っているんですか?」
わたしは回り込むように首を傾けて、松来くんの瞳をじっと見る。微細な表情の動きを見逃さないように。
「中間テスト、竹内くんのカンニング疑惑について知りたくて」
松来くんは即答する。
「中間テストでは、彼はカンニングをしてませんよ。僕が勉強を教えて、竹内は努力し、その成果が点数に現れた。それだけです」
「今回は、一緒に勉強をしていないみたいだけれど」
「竹内が言い出したんです。『今回は一人で勉強する』と。きっと勝手に遠慮しているんです。僕の勉強時間を奪ってしまった気でいるんでしょう。彼の口癖は『おまえなら学年一位を取れる』です」
「それなら、期末テストの勝負を挑んできたのは――」
「自分の勉強時間を確保できたので、今なら全力を出せると思ったんです。もちろん、今まで三位だったのを、竹内のせいだとは思ってはいませんけど」
「友達想いなんだ。少しずれてるけど」
わたしは松来くんのことを言ったつもりだったが、彼は竹内くんのことだと思ったらしい。
「そうなんです。一緒にいて面白いやつですよ」
「竹内くんとは、いつから友達なの?」
わたしの質問に、一瞬、彼の瞳は泳いだ。
「……中学の頃からです。僕が一人寂しそうに本を読んでいた、という理由で竹内は話しかけてきたんです。僕は好きで読書をしていたんですけどね」
たぶん、嘘。虐められていた松来くんに竹内くんは話しかけた。だから虐めの標的が松来くんから竹内くんに変わった。
「知り合いから聞いたんだけど、中学のときの暴力沙汰、本当なの?」
松来くんの表情が一瞬曇る。
「……本当です。でも後悔はしてません」
「そう……後悔しないんだ。
ところで、竹内くんは、数学ができないんだってね」
「そうなんです」と軽く笑って。「彼、数学のセンスが絶望的なんですよ。中学の頃からずっと、テスト前は、僕が数学を教えていました」
「彼の親は、やっぱり医者なのかな?」
「ええ、両親が医者です。地元で医院を経営しています」
「子供に医人って名づけるくらいだから、両親は竹内くんに、医者になってほしいのかな」
「その通りです。竹内も両親の期待に応えるため、勉強しています。ただ……」
松来くんは目を伏せた。わたしは彼が言おうとして噤んだ言葉を口にする。
「絶望的に数学ができないんだね」
「そうなんです――それに竹内の両親は、勉学に関してかなり厳しい人で……テスト一週間前になると、彼はスマホを持つことさえ許されないんですよ」
竹内くんはスマホを使えなかった。
さらに彼には、いつも松来くんから時間を奪っていることに罪悪感があった。だから今回は友達に頼らず、数学の勉強をすることにした。
なぜ彼は、野分先生ではなく、図書室で勉強をしていた西宮さんたちに、数学の問題について尋ねたのか?
竹内医人は職員室から数学の問題を盗み出した。そう考えれば辻褄が合う。盗んだ問題を野分先生に尋ねるわけにはいかない。だから、図書室で勉強している二人に尋ねた。
(でも、職員室は密室なんだよね)
本当に竹内医人は、職員室からテスト問題を盗み出したのか? 中間テストの竹内くんのカンニングは、疑惑であって真実ではなかった。同じように、わたしは彼に意味のない疑念を抱いているだけなのかもしれない。
それよりも今は、来週から始まる期末テストに目を向けるべきだ。
もし、竹内くんが期末テストの問題を盗み出したなら、来週のテストで『微分の定義に従い、cos xの微分を求めよ』という問題が出題されるはずだ。カンニングの疑惑はそのときに考えればいい。
わたしは再び、松来くんの表情をじっと見つめる。彼は表情を崩さない。
「松来くん、教えてくれてありがとう」
「いえ。自分に関することで、興味を持ってもらえるのは嬉しいです」
「それじゃあ、わたしは帰るね。バイバイ」
わたしは机の横にかかった鞄を持って、教室のドアを開けた。
言い忘れたことがあって、振り返る。
「最後にもう一つ。提案された成績勝負、一度断ったけれど、やっぱり勝負してもいいかな」
松来くんは、口をぽかんと開けていた。自分が驚いていることに気づいて、瞬きしている。
「いいんですか? 僕としては願ったり叶ったりですけど」
「うん。でも条件は変えたい。わたしと松来くん、どちらの順位が上か競う。敗者は勝者の言うことを、何でも一つ聞く」
ハルは巻き込まない。これはわたしと彼の勝負だ。
「分かりました。絶対に負けません。与えられたチャンスを、僕は自分のものにします」




