2-4 竹内くんの疑惑
――期末テストまで、あと四日。木曜日。
一限から体育の授業がある日は憂鬱だ。女子更衣室でわたしは、うつらうつらしながら体操着に着替えていた。隣ではクラスメイトの女の子たちが、今朝のショートホームルームについて話している。
「野分先生、何があったんだろう? この世の暗黒を煮詰めたような顔してたけど」
「ちょっと、いやかなり心配だよね。しきりに、どこか窓が割れていないか気にしてたし」
「もしかして、彼氏に振られたとか?」
「先生、今は恋人いないと思うなー」
今はピンク色の会話に混ざる気も起きない。寝惚け眼をぱちぱちさせながら、体育館の床に運動靴を乗り上げる。
今朝の体育の授業はバレーボールだった。欠伸をしながら準備運動を終え、立てたポールにネットを張る。
一試合を終えて、ようやく頭が冴えてくる。体育館の壁に背を預けているわたしに、西宮文美が話しかけてきた。
「松来からの勝負、断ったんだって? どうせ桜町くんが一位になるんだから、受けちゃえば良かったのに」
「フミちゃんはそう言うだろうね。まあ、億が一でも負けないだろうけど、負けた場合のチャンスを与えることそのものが、良くないんだよ。それは恋人に対する裏切りだから」
どんな勝負でもハルは手を抜かないと信じている。けれど、わたしのデートが懸かっていたらどうだろうか。万が一でもハルが、わたしから離れるために、わざと勝利を譲るなんてことがあるなら……
ハルを信じきれない自分が嫌だ。
西宮さんはわたしの隣に腰を下ろして、前に脚を伸ばした。顔を上げて試合に目を向けると、クラスで一番背の高い女子が、対戦相手のコートにボールを叩きつけている瞬間だった。
西宮さんはわたしに嫌味な笑いを向ける。
「なるほど、恋は人を盲目にするのね」
「フミちゃんが言えたことじゃないね」
「それは、そう」
西宮さんは何か言いたそうに、口をむずむずとさせる。目を伏せて、ようやく言葉にした。
「正直、あれはやり過ぎたと思ってる。桜町くんの気持ちを考えてなかった。でも、あなたには悪いと思ってないから。勘違いするなよ」
「ハルなら気づいてないよ。わたしが誤魔化したから」
わたしがそう言うと、彼女はむっとした表情で睨みつけてきた。ぬいぐるみを虐めているときのような気持ちになって、わたしは追撃する。
「あれー? もしかして、好意に気づいてもらえて、意識してくれたらいいなー、なんて妄想してた?」
「おまえ、一回死んどけ。いや、わたしが殺す」
純度の高い殺意を感じる。「死ね」ではなく「殺す」という言葉を使ったところに、彼女の殺意はよく表れている。
しかし残念なことに、恋は死んで治る病ではない。
「わたしはフミちゃんのこと、意外と気に入ってるよ。好きな人がキスをしている場面を見ただけで泣いちゃうところとか、結構好き」
「あっそ。わたしはおまえが大嫌いだよ。わたしを呼び出してあの行為をする意味が、わたしを傷つけること以外に一切なさそうなのが、本当に嫌いだ」
「相思相愛だね」
「国語の勉強をしなおせ」
「一学期中間テスト、わたしの学内順位を知ってて言ってる?」
「知ってるよ。万年二番」
「二年生なんだから、万年もないよ」
「ああっ、別にあなたと喧嘩しに来たんじゃないんだよ」
西宮さんは両手の指に力を込める。飛びかかるのを我慢しているみたいだ。
「今からわたしは、人の陰口を言うよ」
「暇だから、聞いてあげる」
西宮さんはふうーっと息を吐いた。
「竹内医人のカンニング疑惑は知ってる?」
「まず、竹内くんを知らない」
「B組の男子だよ。知り合いから聞いた話だけど、授業中だろうと休み時間だろうと、陰険な顔で勉強してるらしい」
「その知り合いって北山さん?」
「違う。夏希は『陰険』なんて言葉は使わないよ」
ずいぶんと北山さんを信頼しているようだ。わたしは頷く。
「とりあえず、竹内くんが日々勉学に励んでいることは理解したよ。そんな彼にカンニングしたという疑惑があるんだね」
「一学期の中間テストでね。彼、数学が極度に苦手らしいんだ。一年生のときも、数学だけは赤点を反復横跳びしているらしい」
「へえ、いつも赤点ぎりぎりなのに、竹内くんは中間テストで良い点を取ったんだ」
「五十点は、良い点ではないけどね。あくまでも人から聞いた話だから、本当に彼がカンニングをしたかは分からない。でも竹内くんの点数に、周りの人たちが疑いを持ったのは確かみたい」
中間テストにおける竹内くんのカンニングは、あくまでも疑惑だ。確かな真実ではない。
西宮さんは他の人に聞かれないように、膝を抱えて、わたしとの距離を縮めてくる。
「一昨日――火曜日の放課後、わたしは友達と図書室で勉強していたんだ。そのとき、竹内が近づいてきてさ、数学の問題を解いてほしいってメモを見せられたんだよ」
メモには『微分の定義から、cos xの微分を求めよ』と書かれていた。
わたしは率直な感想を述べた。
「なんというか……単に『cos xを微分せよ』じゃないところが、野分先生がテストで出しそうな問題だね」
西宮さんが頷く。
「あなたも同じことを考えるんだね。それにこの問題、数学が苦手な人が作る練習問題じゃない気がする。複雑な関数を計算させるんじゃなく、数学の定義を問うところが特にそう感じる」
「それで、フミちゃんはどう思ったの?」
「竹内医人は、職員室から数Bのテスト問題を盗んだのかもしれない。もしそうなら、わたしと友達は、彼のズルに巻き込まれたってことだ」
「不安なんだ」
「もしそうなら、ムカつくってだけよ。わたし、わけの分からない何かに巻き込まれるのは嫌いなの」
「あなたは仕掛ける側だもんね」
「うるさい。で、巻き込まれたとはいえ、カンニングを手伝ったかもしれない。柊木さんなら話を広めたりはしないでしょう?」
「それ、どういう信頼なの?」
「少なくともあなたは、桜町くんからの印象が悪くなる行動は取らない。真偽の怪しい話を広めたり、人の陰口を言ったりはしない」
妙な信頼をされている。西宮さんは余計な一言を付け加えた。
「それに柊木さん、友達少ないでしょ」
「結構、気にしてるんだから、言うな」
西宮さんはにやにやした笑みを浮かべて、わたしの肩を拳で押した。
「いつも桜町くんにべったりしてるんだから」
ああ――彼女は吹っ切れたのだ。わたしはつい笑みが出そうになり、俯いて顔を隠す。
そろそろ話を戻そう。頬を叩いて冷静になった。
「でも、竹内くんがテストの問題を盗んだとは考えづらいかな。職員室は窓にもドアにも鍵がかかっている。先生たちは帰るとき、ドアを施錠して鍵を守衛所に預ける。先生も守衛所の警備員も鍵を生徒に渡したりしない。テストの二週間前から、生徒は職員室に入れない。ほら、どのタイミングを切り取っても生徒が鍵に触れられる場面は一瞬もないんだ。だから竹内くんに限らず、生徒が職員室から一切の痕跡を残さずに何かを盗むことはできないと思う」
夜の学校に忍び込むことは、実はそれほど難しいことではない。裏門を乗り越えれば、守衛所の警備員に見つかることなく学校敷地内に入ることができるし、校舎に侵入したいのであれば、秘密の侵入口を使えばいい。一部生徒の間では公然の秘密なのだが、空き教室近くの廊下に、クレセント錠が緩くなった窓があるのだ。
(先輩が肝試しで夜の校舎に入ったことあるって、一年生のとき噂で聞いたことがある)
しかし、秘密の侵入口を使って校舎に入れたとしても、である。職員室は鍵のかかった密室。ドアも窓も壁も壊さずに、期末テストを盗むことができるとは思えない。
「それなら、竹内がわたしたちに見せた問題の違和感は何だったの?」
「問題を作ったのは、竹内くんじゃなくて、彼の友達かもしれない」
西宮さんは下唇に手の甲を当てて、しばらく考える。
「……松来秀太朗だ。二人は親友だから。中間テスト前、図書室で竹内と一緒に勉強してた」
世間は意外にも狭いようだ。松来くんならば、野分先生の出題傾向を分析して、テスト問題を作ることに違和感はない。彼は学年三位の頭脳の持ち主なのだ。
しかし、西宮さんの疑問は尽きなかった。
「もし、メモの問題を松来が作ったとして、竹内がそれをわたしたちに尋ねたのはどうしてなのかしら? 問題を作った松来が解いて竹内に教えるというのが自然な流れでしょう?」
「少なくとも火曜日の放課後は、竹内くんは松来くんに質問できる状況ではなかったと思うよ」
「あなたに告白していたからね」
「うっ」
松来くんの哀しげな姿を思い出して、心臓が苦しくなる。
わたしは彼を利用した。
誰かがわたしに告白をすれば、少しくらいなら、ハルが嫉妬してくれると期待していた。そのために、もっともらしい理由をこじつけて、一本桜までハルに来てもらった。
西宮さんの顔色を伺う。彼女はわたしの想いに気づいていない。彼女からは、わたしとハルは相思相愛に見えているから、気づけるはずがない。
「あなた、気をつけなさいよ」と西宮さん「松来は……その、なんて言ったらいいか……」
「何?」
「これも知り合いに聞いた話なんだけどね。彼、中学のとき、ちょっと虐められてたみたいなの。まあ、虐めに『ちょっと』なんてないんだろうけど」
「それで、どうなったの?」
「松来は、自分が何をされてもやり返さなかった。でもね、ある日、標的が竹内に代わった瞬間――彼は、虐めっ子たちに暴力を振るった。それで、二週間謹慎」
「……」
驚きのあまり、息を呑んだ。一本桜で話した彼は、そんなふうには見えなかった。
西宮さんは話を戻す。
「松来の昔話は置いておくとして……竹内はどうして松来に問題の答えを尋ねず、わたしと友達に訊いたのかしらね。松来に頼れないなら、野分先生に教えてもらうこともできたはず。このくらいの問題なら、スマホで調べてもいいし」
「まあ、少し不自然ではあるけども」
目の前でバレーボールの試合が終わり、わたしと西宮さんは再び試合に駆り出される。西宮さんが執拗にわたしを狙ってボールを撃つので、無駄に体力を消耗してしまった。
竹内医人のカンニング疑惑か。わたしには関係ない。
ハルに迷惑がかかるなら別だけれど。
教室に戻る途中、彼を見つけて。
「ハル?」
ハルは男子生徒に話しかけられていた。相手は――竹内くん? 目の下に酷い隈。絶妙に焦点が振れている瞳。頬が引き攣った不自然な笑顔。ひと言で表すなら、やつれた青年。
「桜町さん、分からない問題があって……教えて欲しいんだけど?」
竹内くんは震える指で、胸ポケットからメモを出して。
ハルは受け取って、問題を読み上げる。
――微分の定義から、cos xの微分を求めよ。




