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原罪少女の推理練習曲  作者: 有上透
第二話 期末テスト盗難事件
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12/18

2-3 USB盗難事件

 ――期末テストまで、あと五日。水曜日。

 

 エアコンが稼働しているはずなのに、職員室は熱帯夜のように暑かった。頬を流れる汗をハンカチで拭うたびに、再び汗が噴き出すのだからキリがない。最近体重が気になるらしい金山は、ハンカチで額を押さえていた。

 野分は立ち上がって、早足でツカツカと窓に近づく。

「換気しましょう。室内の二酸化炭素濃度が高くなると、集中力が落ちるそうですから」

 左から順にクレセント錠を回し、窓を少しだけ開ける。大きな窓ではない。去年新調して金山が嵌め直したのだが、サッシを含めて十キロ程度だと言っていた。だから少しの力で横に動く。あのときの金山を思い出して笑みが浮かぶ。野分が手伝おうとすると、彼は「僕は意外と力があるのですよ」と、一人で窓を入れ替えてしまった。真っ赤な顔だった。

 隙間から室内の二酸化炭素が澄んだ青空に追いやられて、代わりに爽やかな空気が職員室に流れ込んでくる――そんな気がする。

 最後の一枚だけ、クレセント錠がかっていなかった。少し気になったが、構わず野分は窓枠に指をかける。気合いを入れて指に力が込めると、ようやく動いた。

「野分先生、大丈夫ですか?」

 立ち上がった金山に、野分はいつものように冷静を装って返事をする。

「ええ、平気です」

 再び汗を拭う。今なら、さらに作業に集中できる気がする。やはり換気をして正解だった。

 デスクに戻り、生徒たちが提出した課題の採点作業を再開する。赤ペンを持つと、親指の爪が僅かに潰れていることに気づいた。ほんのりと痛い。

(窓を開けたとき、力を入れ過ぎたから――)

 少なくとも今は、そんなことを気にしている場合ではない。期末テストが終われば、地獄の採点、そして成績づけが待っている。今のうちに終わらせられる作業ならば、手早く終わらせておくのが、賢い人間だ。生徒たちに「賢くあれ」と言うのなら、せめて自分は賢くあろうとする人でなければならない。


「野分先生、親指の絆創膏……怪我したんですか?」

「心配してくれてありがとうね、柊木さん。窓を開けるときに爪、やっちゃって」

 下校する生徒たちを見送り、野分は職員室に戻る。

 課題の採点作業に没頭していると、いつの間にか外は暗くなっていた。

(……ひとりだ)

 腕時計の針は、もうすぐ八時を指し示す。今日の戸締まりは野分が担当なので、他の教員たちはすでに帰っていた。

(……そろそろ帰ろう)

 野分朔はパソコンを閉じて、デスクの上を片づけた。職員室の窓を閉じ、クレセント錠がかかっていることを確認する。

 ――窓は全て閉じた。

 数年前のアニメのキャラクターが描かれたお気に入りのトートバッグを肩に掛けて、鍵を持って職員室を出る。

 ――消灯、入口の施錠も問題なし。

 野分は、三階から一階まで各教室を見て回った。すべての教室を軽く覗いて、生徒たちが残っていないことを確認する。

(いつも通り、誰もいないな)

 消灯された廊下に、自分の靴音だけがコツコツと響いている。反響音を妙に長く感じて、野分は肩を震わせた。夜の校舎には、独特な不気味さがある。

 生徒たちは全員下校したと判断し、野分は玄関で靴を履き替えて外に出た。生ぬるい風が頬をくすぐる。日中に比べれば、ずいぶんと涼しい快適な風だった。

 白い光を反射する月を見上げたとき、どこから嫌な音がした。

 ガシャン、という硬い物が割れるような音だった。

 まず脳裏に過ったのは、旧校舎の窓ガラスが割られた事件だ。

 野分は振り返って、音がした方向――二階の職員室を見上げる。

 窓の向こうに黒い人影が立っていた。男か女か、正体すら分からないが、もこもこのシルエットには見覚えがある。

(あれは、黒いダウンジャケット?)

 職員室を出るとき、ドアも窓も施錠した。それなのにどうして、部屋の中に人がいる?

 野分は走った。全力を出したのは高校三年の体育以来だ。校門近くの守衛所で待機する壮年の警備員に、自分が見た光景を話す。

「職員室に不審者ですか?」

「はい、黒いダウンジャケットを見ました」

 警備員と共に校舎に戻る。野分は再び職員室を見上げた。先程の黒い人影はもういない。

「職員室を確認しましょうか」

 二人は早足で二階の職員室に向かう。

 ドアは壊されていない。

 警備員が入口のドアを開けようとする。施錠されていて開かなかった。つまり、二階から飛び降りていない限り、黒いジャケットはまだ職員室にいるということだ。

 野分は警備員に鍵を渡す。彼はそれを鍵穴に差し込んで九〇度回した。

 ゆっくりとドアを横にスライドする。

 警備員が懐中電灯の光で空間を照らした。

 野分は警備員の後ろに続く。入ってすぐ左にある電灯のスイッチを押す。

 蛍光灯の明かりが点いた。

 職員室には誰もいない。

 窓もすべて閉まっている。もちろん、割れていない

(……あの音は幻聴だったのか?)

 警備員と共にクレセント錠を確認した。すべての窓のクレセント錠が鉤爪のような受けにしっかりと嵌っている。

「今、何か物音がしませんでした?」

 警備員が野分に尋ねる。

「分からない。気がつかなかった」

 職員室の中に人が隠れられるような場所はない。あるとしても、デスクの下くらいだ。念のため、デスクの下を覗き込んでみたが、当然、誰も隠れていない。次に野分は、教員用のロッカーを開けてみた。そもそも大人が隠れられるサイズではないし、予想通り、ロッカーの中には誰もいなかった。

 警備員がずれた帽子を直す。

「先生、やはり見間違いだったのでは? ドアにも窓にも鍵がかかっていたんじゃ、泥棒も入れませんよ。窓から逃げたことも考えましたけれど、クレセント錠がしっかりかかっていましたからね。外からじゃ、窓の錠はかけられませんし、どんな不審者も窓ガラスをすり抜けて、二階から飛び降りることはできませんわ」

(それなら、私が見た黒いダウンジャケットはなんだったのだろう?)

「は、はは。最近、寝不足で、それで、幻覚を見ていたのかも」

(いや、最初からいなかったのか?)

「僕が言うのも何ですが、教師というお仕事は、ずいぶんと忙しいみたいですね」

「ええ、ご迷惑をおかけしました」

「先に守衛所に戻りますね。帰るときは窓とドアを施錠してください。鍵は守衛所で預かります」

 警備員はお辞儀をした。職員室に一人、野分は取り残される。

「はあ、最悪だ」

 思わず言葉が出た。

 自分が見た光景を思い返す。窓の向こう側の黒いダウンジャケット――きっと、野分の気のせいだったのだろう。そもそも、七月にダウンジャケットを着ている人間というのが非現実的だ。

 睡眠不足と疲労による幻覚と幻聴、この可能性が最も理に適っている。幽霊ならまだしも、鍵のかかった部屋に人間が入れるはずがない。入れたとしても鍵をかけたままでは出られない。

「帰ろう」

 自分のデスクの横を通るとき、ふとノートパソコンの端子に視線が吸い寄せられる。今日は持ち帰る仕事がない。学校に関するデータは学内で完結させるべき、そう考える野分は、ノートパソコンにUSBを挿しっぱなしにしていた。

 それなのに、ノートパソコンには何も挿さっていない。

「ない……」

 トートバッグの中にも、USBは入っていない。

 日中に換気を行ったときよりも、顔中の汗腺から冷汗が噴き出る。

「失くした? それとも盗まれた? 最悪だ」

 どちらにしても、最悪の更新が早すぎる。

 USBには期末テストの問題と生徒たちの成績データが入っている。いや、生徒たちの成績の入力はまだしていない。あのエクセルデータから分かるのはせいぜい、誰が提出物を出していないかぐらいだろう。それでも大きな失態であることは間違いない。

(犯人は、あの黒いダウンジャケットだ)

(でも、職員室には鍵がかかっていて――)

 テストの出題内容が流出したことについては、まだ挽回が効く。今からすべての問題を新しく作り直せばいい。

 まだ、大丈夫だ。どうにかなる。データはノートパソコンにも保存してあるのだ。

(嫌だなあ、始末書を書くの)

(でも、報告しないといけないよなあ)

 人生で一度も書いたことがない「憂鬱」という漢字が、頭の中でねずみ算のように増えていく。

 起きてしまったことは仕方がない。

 野分は悲壮な表情なまま、消灯をして職員室を出る。再び入口を施錠し、ドアが開かないことを確認した。

 校舎を出ると、夜風の生温かさが気持ち悪かった。

 守衛所に鍵を預けて、とぼとぼと歩いて自宅に向かう。重たい足を前へと進ませる。

(明日なんか来なければいいのに)

 いつもなら怖がる暗闇にすら、今の野分は縋りたかった。

(お化けでも幽霊でも、何でもいい。誰か私の時間を止めてくれないだろうか)

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