2-2 靴箱の手紙
――期末テストまで、あと六日。火曜日。
屋上に繋がる扉の前、階段を登った先の行き止まりで、ハルは焼きそばパンを齧っていた。わたしはハルを見つけて階段を駆け上る。その場所は自分の陣地だと主張するように、彼の隣に腰掛けた。
「今日のお弁当は唐揚げです。昨晩から甘ダレに漬けた、一番美味しいやつです」
ハルは咀嚼していた炭水化物の塊を飲み込むと、身体をずらして、わたしたちの間に空間を作った。わたしは空間を埋めるように、ハルに腰を寄せる。
「ねえ、どうして離れようとするの?」
「夏だから」
「もしかして、汗臭い?」
あまりのショックに、わたしの両手は、膝の上の弁当箱を離れてしまう。
「そんなことはないけど」
ハルの声は尻すぼみに小さくなった。七月も後半、たしかに暑い。わたしは服に空気を取り込もうと、制服の襟をパタパタとさせる。
ハルは気まずそうに耳の裏を見せて、そっぽを向いていた。
からかい過ぎたかもしれない。これ以上すると、逃げられてしまう。
「ごめんって。謝るからお弁当を食べてほしい。唐揚げ、上手にできたからさ」
「フユ、ボタンは留めた?」
「一番上は開けてもいい? 暑いし」
「それなら、仕方がない」
「はい。もう、大丈夫」
わたしは敵意がないことを示すように両手を上げる。大抵の男の子はおっぱいが好きらしく、もちろんハルも例外ではない。だから、胸元をアピールしてみたのだけれど――これは、失敗?
階段に、ハルの深い溜め息が響く。
「はあ、誰かに見られたら誤解されるだろ」
「わたしは、誤解されてもいいけど」
すでに察しの良いクラスメイトの女子たちは、わたしとハルが付き合っているのではないかと疑っている。
ハルは呆れて、糸が切れたように項垂れた。ようやく視線がお弁当に向く。
今日のお弁当は自信作だ。ちくわときゅうりのマヨネーズ和え。千切りキャベツにはドレッシングの小袋がつけてある。茹で時間に拘った茹で卵は、黄身がオレンジ色で美味しそうだ。何より大事なのは昨晩から準備した甘ダレが染みた唐揚げである。
ハルは唐揚げを箸で摘んだ。衣を噛むと、さくっと音が鳴る。
「う、美味い……」
「でしょう? これを食べてもらうために、たくさん練習したんだから」
わたしも唐揚げを一口食べる。味見のため今朝に一口食べていたが、冷えた状態の味は未確認だった。
この味なら……いけるんじゃないか?
「ハル、口を開けて」
わたしは唐揚げを箸で摘んで、ハルの口に近づける。
「は? 何を言って――」
タイミングが悪く、唐揚げはハルの唇に阻まれてしまう。
(まあ、いいか)
わたしは箸をUターンさせて、唐揚げを自分で美味しくいただいた。間接キスである。
ハルは眉を八の字にして、わたしの奇行を訝しんでいた。
困惑した表情のハルも、わたしは好きだ。
空になったお弁当を前にして、ハルは両手を合わせる。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ハル、少しだけ、相談してもいい?」
片想いの相手が立ち上がろうとするより先に、わたしは彼の制服の裾を掴んだ。
「少しだけ、では済まなさそうだけど」
わたしは不安気な表情を作り、弱々しく裾を引っ張る。ハルは中途半端に持ち上がった腰を、階段に降ろす。
「ありがと、ハル。今朝のことだから、ハルも見てたでしょう?」
「ああ、今朝、先生が言っていた――」
「そう!」
「旧校舎の窓ガラスが割られていた事件か」
「違う」
ハルが言っているのは、旧校舎の東棟、一階の窓ガラスが割られていた事件である。今朝のショートホームルームで、担任の野分先生から、くれぐれも近づかないようにと注意を受けた。
おそらく、犯人はまだ判明していない。先生たちも、生徒の悪戯か外部の犯行か決めかねている。野分先生の様子から、わたしはそんなふうに想像した。
(ハル、わざと話を逸らしたよね。君が、わたしをちゃんと受け止めてくれる日は来るのかしら)
わたしは本題の封筒を、スカートのポケットから取り出す。
「ハルはこのラブレターよりも、窓ガラスが割られた事件の方が気になるの?」
水色の封筒を、ハルの目の前でひらひらと揺らす。表面には端正な字で「柊木冬様へ」と書かれている。
「そういえば、フユの靴箱の奥に押し込められていたんだったね」
「嬉しくないわけじゃないけど、わたしは困るなー。ラブレター」
冗談めいた口調で話した後に、はあ、と本気の溜め息。
わたしはハルのことが好きだ。だから、なるべくハルの側にいることで、他の人がハルを好きにならないよう牽制している。柊木冬がラブレターの差出人に靡いた、そんな噂が少しでも立てば、わたしの今までの努力は台無しになってしまう。
「少なくとも、女の子の間では、恋人持ちに告白するのはご法度なわけ。男の子には、そういうのはないの?」
「そこは男女で変わらないと思うよ。ただ、そもそも、女の子が恋人持ちっていう事実を知らない場合もあるだろう。男子と女子でコミュニティも違うわけだし。それで、君はこの告白を受けるの?」
むう。わたしは膨れっ面で、ハルの目を見る。
「わたしの告白を断り続けてるハルがそれを言う? 君はときどき意地悪だよね」
ハルは悪意を問い詰められることに耐えられず、視線を逸らした。
「悪い、つい」
やっぱり、わざとなのだ。わたしに諦めさせるために。でも、すぐに謝っちゃうところが素直。
封筒を太腿の上に持ってくる。
「いいよ、許してあげる。あと、勘違いしないでほしいんだけど――」
封筒を開けて、手紙を取り出す。一度開けたせいで、糊の粘着力は弱まっていた。
「――まだ告白はされてないから」
柊木冬様へ
突然の手紙、きっと驚かれたと思います。
昨年の四月、道に迷っていた私を助けてくれたことを、あなたは覚えていないかもしれません。
その後同じクラスになり、学業に励むあなたを陰ながら応援していたのですが、今まで話しかける勇気がありませんでした。
想いを文字で伝えることも考えましたが、素直な気持ちは言葉で伝えるべきと判断し、呼び出した次第です。
本日十六時半、旧校舎の一本桜まで来ていただけますか。
「いいかしら、ハル? 手紙には『好き』や『付き合って』という言葉は使われていない。 あくまでも、わたしは呼び出されただけなの。まあ、何を言われても断るつもりだけど」
「呼び出されただけかもしれないけれど、それでもこれは、君に向けたラブレターだよ」
わたしは素直に頷けなかった。手紙の内容を知ってもハルが顔色を変えなかった事実が、わたしの心に靄を作る。不満の感情を押し込めて、言葉ではハルの意見を肯定しておく。
「そうだね、ハルの言う通りだ。少なくとも、果し状には読めない」
「君にとって、呼び出しの手紙はラブレターか果し状なんだ」
「もしくは悪戯か。だけど、その可能性は低いと思う。『昨年の四月』って具体的なエピソードがあるから」
「昨年の四月に、道に迷っている人を助けた記憶はある?」
「白状すると、覚えてない」
「当然だけど、残酷だね」
自分にとってどれだけ大切な思い出でも、相手にとって些細な出来事だったということは珍しくない。ハルにとって、セツカと過ごした時間は大切な思い出のはずだ。けれどセツカからすれば、それは妹の友人との日常の一コマでしかない。
わたしは手紙を畳んで封筒に戻した。
「それでさ、ハル、お願いがあるんだけれど」
「お願い?」
「呼び出し場所まで、一緒に来てほしい」
ハルは少し悩んで言葉を返す。
「それは……この手紙を書いた人に不誠実な気がする」
「そうかもしれない。でもさ、もしものことがあったらハルも嫌でしょう?」
告白をするのと同じくらい、告白を断るのには勇気が要る。好意を突き返されることの辛さを理解していながら、相手の好意を突き返さなければならないのだから、本当に残酷なことなのだ。それでいて、それが最適解なのだからやるせない。断ることがしんどいがために、お付き合いの申し込みを受け入れてしまう場合だってあるくらいだ。
人の好意に報いないことは、心が痛い。
これは、自分の心の問題。もう一つ、相手の心の問題がある。
愛憎は簡単に入れ替わる。
「ハルも分かると思うけれど、本当に怖いのは、断った後の報復なんだよ。普通、女の子は男の子に力では敵わない。もし、一人で手紙の差出人に会って逆上されたら、わたしは抵抗できない」
――報復が恐ろしいのは男女が逆の場合でも同じだけれど。
こう言えば、ハルは断れない。わたしの予想通り、ハルは納得して頷いてくれる。
「君の言うことも、一理ある」
「ハルの気持ちも分かるけどね。一対一の場に用心棒を連れて行くのは、相手にも悪いと思う。だから、ハルは隠れてくれて構わないよ。もし襲われそうになったら助けてくれたらいい」
わたしが傷つくのは、ハルにとっても避けたいことだ。だからハルは断らない。
「了承した。けれどきっと、俺の出番はないよ」
「それが一番、平和だね」
旧校舎と新校舎の間、パンジーとチューリップの花壇を抜けた先を曲がった果てに、桜の木が一本だけ立っている。その桜は、校門の桜並木と区別して、一本桜と呼ばれている。
六限の授業も終わり、十六時を過ぎた頃、わたしはハルと別々に一本桜に向かった。途中、旧校舎東棟の空っぽになった教室が目に入る。割れた窓ガラスが、日本アルプスの山々のように尖っている。
ガラス片は旧校舎の外には落ちていない。外側からバットのような物で割られたのだろうか。
わたしは窓ガラスに触れないよう、慎重に空き教室を覗き込んだ。大小様々な破片が内側に散らばっている。
(こんなこと、気にしている場合ではないよ、柊木冬)
頭の中のもう一人の自分に注意されて、わたしは歩いていた道に戻る。
一本桜は緑を両手いっぱいに広げながら、かさかさと葉を擦り合わせていた。葉桜に、青い夏の匂いを感じる。
桜の根の上で男子生徒が一人、右往左往しながら待っていた。わたしの姿を見つけて、彼の表情は花が咲いたように明るくなる。
ハルはどこに隠れているのだろう?
男子生徒が駆け寄ってきた。四角い縁の眼鏡の奥、丸い瞳が慌ただしく泳いでいる。猫背のせいで少し小さく見えるが、背はハルと同じくらい。知的な印象。シャープで形がいい顎。きっと今まで染めたことがない黒髪が、耳と眼鏡の縁に僅かにかかっていた。
「き、来てくれて、本当に、ありがとうございます。もしかしたら手紙に気づいてくれていないのかと」
「うん。あなたが手紙をくれた人?」
「はい、同じクラスの松来――」
「松来秀太朗くん」
普段から、人の名前を覚えるのが苦手なわたしなのに、彼の名前は自然と口から出てきた。
彼の名前に聞き覚え、いや見覚えがあった。
中間テストの成績順位発表で、彼の名前を見たのだ。
ハルとわたしの名前の隣、学年成績三位の彼の名前が、サブリミナルにわたしの記憶に刻まれていた。
名前を覚えていたのが、余程嬉しかったらしい。松来くんのレンズ越しの瞳が、ひときわ輝く。
「覚えていてくれて、光栄です。あの……」
松来くんの声が、緊張で裏返った。
「あの、期末テストの成績で勝負してほしいんです。それで、僕が一位を取ったら……柊木さんの一日を僕にください」
「それは、デートのお誘い?」
松来くんは姿勢を正す。
「はい、そうです」
「わたしが一位を取ったら?」
「……何でも一つ、柊木さんの命令に従います」
「わたし、好きな人がいるの」
本当は「付き合ってる」と言いたいのだが、ハルが聞いている可能性があるので言わないでおく。
松来くんは目を伏せて、哀しげに俯く。
「やはり……桜町さんですか」
彼は勝負の報酬として、恋人の契約ではなく、一日のデートを提案した。彼なりの我が儘と譲歩の結果なのだろう。
「そう。だから、君が一位を取ってもデートはしない。勇気を出してくれたのに、ごめんね」
「いえ……いいんです。僕が、柊木さんの感情を考えられてなかったのが悪いんですから。すみませんでした」
重たい空気に、心が押し潰されそうになる。
松来くんの哀愁漂う背中を、わたしは見送った。
一人残されたわたしの背中に、ハルが優しい声をかける。
「無用な心配だったね」
ハルも何か思うところがあったのか、一本桜を見上げる。わたしが告白されたというのに、ハルのいつもと変わらない態度が胸に引っかかった。気持ちを悟られたくなくて、わたしはどうにか笑顔を作る。
「そうだね。ところでさ、ハルはどこに隠れていたの?」
「ん? 一本桜の後ろだけど」
「ふうん。その場所、意外と気づかれないんだ」
わたしが木の幹に手を伸ばすと、ハルが注意する。
「触らないほうがいいぞ。今の季節は毛虫がいるから」
「うぎゃっ」
わたしは可愛くない悲鳴を上げて、素早く手を引っ込める。
そのまま、ハルに寄りかかろうと――あ、避けられた。




