「夜泣き」
深夜に目が覚めたのは、廊下の足音のせいだった。
この屋敷の夜は静かだ。石造りの壁が音を吸い、深夜に人が動くこともほとんどない。だからこそ、小走りの足音はやけに目立った。
起き上がって耳を澄ませると、足音は東棟の奥——アリシアの部屋の方向から聞こえていた。
嫌な予感がした。理由はない、ただ母親的な何かがそう告げた。いや、母親歴二週間の人間に母親的直感があるのかは怪しいが、とにかく胸がざわついた。
上着を引っかけて廊下に出る。冷たい石の床を裸足で歩く。スリッパを探す余裕がなかった。
アリシアの部屋の前に、ランプを持った使用人が一人立っていた。中から声が聞こえる——二つ。一つは低い大人の声。もう一つは、
――泣き声。
扉を開けた。
ベッドの上にアリシアが座っていた。膝を抱えて丸くなり、顔を伏せている。肩が震えている。泣いている。声を殺そうとしているが、しゃくり上げる音が漏れている。
その傍らに、ヘルダが立っていた。寝間着の上に上着を羽織った姿。彼女もまた泣き声を聞いて駆けつけたのだろう。
「アリシア様。お顔を上げなさい」
ヘルダの声は穏やかだったが、内容は穏やかじゃなかった。
「公爵家のご令嬢が、夜中に声を上げて泣くものではありません。悪い夢を見ることは誰にでもあります。ですが、それに取り乱さないのが高貴な方の嗜みというものです」
まったくふざけた話だ。小さな子供が悪夢を見て泣いているのに、その子に対して「泣くな、取り乱すな、あなたは高貴なのだから」と言って何になる?
確かにまあ、間違ってはいない。この世界の教育としては、たぶん間違ってはいない。貴族の子女は感情を制御するべき、という意識の高いことを幼少期から求められるのだろう。ヘルダは自分の職務を遂行しているだけで、真夜中に駆けつけたその責任感も本物だ。
ただ——責任感を発揮するのは、間違っても今じゃない。
「ヘルダ」
声をかけると、ヘルダが振り向いた。私がここにいることに驚いた顔。そりゃそうだ、元のレティシアが娘の夜泣きに駆けつけるなんて前例がなかったのだろうから。
「奥様、お休みのところ申し訳ございません。アリシア様が悪夢を——」
「聞こえたわ。ありがとう、来てくれて。ここからは私が見るわ」
ヘルダは、純粋に困惑しているように見えた。奥様がこの場を引き取る? 本当に? って。
「……かしこまりました。何かございましたらお呼びください」
でも、結局ヘルダは一礼して退室した。去り際に一瞬だけアリシアを振り返った目には、心配そうな感情が見えた。この人なりにアリシアのことを案じているんだろう、方法が壊滅的に間違っているだけで。
……扉が閉まった。
部屋にはアリシアと私だけが残った。アリシアはまだ膝を抱えたまま、顔を伏せている。しゃくり上げる間隔が広がっている。泣き止もうとしているのだ。
ベッドの端に腰を下ろした。
「アリシア」
返事はない。顔も上げない。
「怖い夢を見たの?」
長い沈黙のあと、くぐもった声が返ってきた。
「……見てない」
見てないなんて、嘘だ。泣きながら言う台詞じゃない。でもこの子にとっては「怖い夢を見た」と認めること自体が負けなんだ。ヘルダに「取り乱すな」と言われ続けた子供は、怖かったと言えない。弱さを見せることは許されないと、もう刷り込まれている。
正面から「大丈夫だよ」と言っても入らない。「泣いていいよ」も駄目だ。泣くことを許可されても、この子はたぶん許可を受け入れられない。つまらないプライドが邪魔をする。
だったら、別の入り口を探す。
「そう、見てないのね。じゃあ、お母様が怖かったことにするわ」
アリシアの肩がぴくりと動いた。
「一人で寝てたら、なんだか怖くなっちゃって。だから——お母様もここにいていい?」
理屈としてはめちゃくちゃだ。大人が子供の部屋に来て「怖いから一緒にいて」と言っている。嘘だと分かる、五歳だって分かる。
でも、嘘だと分かるからいいのだ。これは逃げ道だから。「あなたが怖いのではなく、私が怖い」という体裁を作ることで、アリシアは弱さを認めずに私をそばに置ける。あなたのためではなく、私のために残る。だから、あなたのプライドは傷つかない。
前世のどこかで拾った知識――子供に手を差し伸べるときは、子供の側から「助けてあげている」形を作れ。
アリシアはしばらく黙っていた。しゃくり上げる音も止まっていた。膝に押しつけた顔は、ほんの少しだけ横を向いた。
「……しょうがないね、お母様は」
それだけ言って、また顔を伏せた。
許可は出た。
私はゆっくりとアリシアのそばに体を寄せた。ベッドの上に並んで座る形、娘に触れるか触れないかの距離で。
それから——迷った末に、腕を回した。
小さな体を抱きしめる。
アリシアの体が、強張った。
硬い、石みたいに硬い。抱きしめられた経験がないのだ。体がどう反応していいか分からないまま、全身に力が入っている。呼吸まで止まっている気がした。
私は何も言わずに、そのまま抱えていた。
三十秒か、一分か。長い時間が流れた。少しずつ——本当に少しずつ、力が抜けていった。石が粘土になるみたいに、段階的に。肩の力が抜けて、背中の張りが緩んで、最後に、こてんと重心が私の方に傾いた。
アリシアは、私に寄りかかった。
泣いてはいなかったし、目も閉じていなかった。でも、私の上着の裾を指先で掴んでいた。指で、きゅっと。
「……お母様」
「ん?」
「怖かったの?」
「うん。怖かった」
「嘘……」
「嘘じゃないわ」
「嘘。大人は夜なんて怖くないもん」
大人だって怖いものはあるが、その話は今はいい。
「どうかしら? もしかしたら嘘かもしれないけど、ここにいていい?」
「……ほんとうにしょうがないね、お母様は」
上着を掴む指に力が入った。離す気配はない。
しばらくそうしていたら、アリシアの呼吸が落ち着いてきた。寝落ちしかけている。さっきまで泣いていた反動で、体力がなくなったのだろう。
横たえようとしたら、上着を掴む手が離れない。寝ながら握っている。仕方なく上着を脱いで、その端をアリシアに持たせたまま布団をかけた。
ベッドの脇に座り込む。
ランプの灯りの中で、アリシアの寝顔を見た。まつげに涙の跡が残っている。眉間の皺はなくなって、年相応の幼い顔になっていた。寝てしまえばただの子供だ。
……でも、右手が震えていることに気づいた。
緊張していたのか。それとも——分からない。名前のつかない感情が胸の奥を圧迫している。
転生して二週間。この体は私のものではないし、この子の本当の母親でもない。偽物だ、偽物が深夜に子供を抱きしめて、嘘の理由で傍にいる。
でもこの子の指が掴んでいたのは、偽物だろうと何だろうと、母の服の裾だった。本物か偽物かなんて、この子には関係ない。ここにいるかいないかだけが問題で、元のレティシアは——いなかった。
今日は、いた。
明日もいる。明後日もいる。
上着の裾を握ったまま眠る小さな手を見ながら、天井を仰ぐ。
泣いている場合じゃない。泣いている場合じゃないんだが——参ったな。目から水が出る。この体は涙腺が緩いらしい。前世の私のせいではない。レティシアの体質だ、たぶん。




