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悪役令嬢の『母』に転生したので、娘の断罪エンドを回避します。  作者: ぶらっくそーど


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「ヘルダの正体」


 情報が足りない。


 ヘルダ・バルシュタインについて、私が知っていることは表面的なものばかりだ。三十年勤務の古参、教育のプロ、宮廷に人脈あり。これだけで人事を動かすのは無謀というものだろう。前世の会社で「あの人なんか嫌だから異動させて」が通用しないのと同じだ。動かすなら材料が要る。


 というわけで調査を始めた。公爵夫人が自宅の使用人を内偵調査しているのは、文字にするとだいぶ物騒だが、やっていることは地道な聞き込みである。


 まずニナ。私の最大の情報源。


「ヘルダって、もともとどういう経緯でこの家に?」

「えっと……先代の公爵様——今の旦那様のお父様の時代に、旦那様のご教育係として来られたと聞いています」

「旦那様の?」


 ギルバートの教育係だった。つまりヘルダの教育方針は、現当主の公爵を育てた実績に裏打ちされている。これは厄介だ。「あなたの教育はおかしい」と言ったら「私が育てたのはあなたの旦那様ですけど」と返される。


「旦那様が成人なさった後は、しばらくお屋敷の管理業務をなさっていて、アリシア様がお生まれになってから教育係に戻られたそうです」

「ヘルダがアリシアの教育係になったのは、誰が決めたの?」

「さあ……旦那様か、先代の公爵様か……ヘルダ先生がご自分で申し出たという話も聞いたことがあります」


 自薦。つまり使命感で引き受けている。給料のためではなく、クランツ家の子女を育てることに人生を賭けている人間となると……ああ、ますます厄介度が上がった。


 次に、厨房のコルネ。この人は料理長であると同時に、屋敷の生き字引だ。三十年以上この家で働いているので、ヘルダとはほぼ同期にあたる。


 昼食の相談を口実に厨房を訪ねた。


「コルネさん、ヘルダとは長いの?」

「ヘルダ先生ですか。そうですねえ、わたしより二年ほど先に来ていましたから」


 コルネは人の悪口を言わないタイプだ。ヘルダについて聞いても否定的なことは出てこない。ただ、興味深い情報が一つあった。


「ヘルダ先生の妹さんが、宮廷で侍女頭をなさっているんですよ。姉妹揃って優秀な方で」

「仲はいいの?」

「よく手紙のやり取りをなさっているようですね。月に二、三度は届いているかしら」


 月に二、三度の手紙。つまり定期的な情報交換が行われている。屋敷の出来事がどの程度手紙に書かれているかは分からないが、ゼロということはないだろう。ヘルダを不当に扱えば、翌月には宮廷の侍女頭の耳に入る。


 これは人事異動どころではない、もはや外交問題だ。


 自室に戻って整理する。


 ヘルダの解任が難しい理由は三つ。一、ギルバートの教育係だった実績がある。二、自らの信念で動いているため交渉で方針を変えさせるのは困難。三、宮廷との情報パイプがある。


 どれか一つでも面倒なのに三つ重なっている。人事部泣かせという言葉があるが、人事部がないので泣くのは私だ。


 ここで、ゲームの記憶を掘り返す。


 アリシア・クランツ。ゲームでの悪役令嬢。断罪シーンの台詞を——断片的にだが覚えている。


 学院で聖女と初めて対面する場面。アリシアが言う台詞。


『あなたのような身分の方と、わたくしがお話しする必要があるのかしら?』


 これだ。

 この台詞、ヘルダの授業で聞いたフレーズとほぼ同じ構造をしている。「公爵家のご令嬢が頭を下げるのは格下のすること」「伯爵家はクランツ家より下の家格です」——あの授業の延長線上に、この台詞がある。


 十年後のアリシアは、ヘルダの教えを忠実に実行しているだけだ。教わった通りに振る舞い、教わった通りに人を見下し、教わった通りに孤立する。


 最優秀な生徒による、最悪の卒業制作。


 ……ああ、考えるほど胃が痛い。


 ただ、だからこそ手順を間違えてはいけない。ヘルダを力尽くで排除したら、この家は揉める。使用人は割れる。ギルバートとの関係も壊れかねない。何より、アリシアが混乱する。せっかく少しずつ安定してきた日常が崩れる。


 必要なのは「解任」ではなく「移動」だ。ヘルダの面子を潰さず、教育現場から外し、本人が納得できる別の役割を用意する。


 ……言うのは簡単だ。実行するのはまるで別の話。


 羽ペンを取って、紙に思いつく限りの選択肢を書き出す。


 案一、ヘルダを社交窓口に異動させる。宮廷人脈を活かせるポジション。名目上は栄転に見える。——現時点で一番有力。ただし「教育現場から外された」と本人が感じれば逆効果だ。


 案二、新しい教育係を「補助」として入れ、徐々にヘルダの比重を下げる。——時間はかかるが角は立たない。ただしヘルダが「補助」を排除しにくる可能性がある。この人はたぶんそういうことをする。


 案三、ギルバートから指示を出してもらう。公爵命令なら逆らえない。——最終手段。ただしギルバートとの信頼関係がまだ足りない。「教育方針を変えたい」だけでは理由として弱い。


 どの案にも穴がある。完璧な一手はない。


 ペンを置いて、窓の外を見た。


 昨夜、アリシアが泣いていた。悪夢を見て怯えていた。ヘルダが「泣くな」と言い、私は隣にいた。あの子は私の上着を掴んで眠った。


 朝になって、アリシアは何事もなかったような顔で朝食を食べていた。昨夜の話には一切触れない。なかったことにするのがこの子の流儀らしい。まあいい、無理に蒸し返すつもりはない。


 ただ——今朝、廊下ですれ違ったとき、アリシアが初めて自分から「おはよう」と言った。小さな声で、こっちを見ないで、通り過ぎざまに。


 たぶん本人はさりげなく言ったつもりだろう。私は三秒ほど廊下で固まった。


 ……娘が変わりつつあるんだ、それをまた断罪エンドの娘のような悪役令嬢に戻すわけにはいかない。


 結論として、今すぐは動かない。動くための材料と環境を揃える。案一を軸に、代わりの教育係の候補探しを並行で始める。


 期限は——そうだな、二ヶ月。二ヶ月以内にヘルダの円満異動を完了させる。それがこの案件の納期だ。


 しかし、まったく……公爵夫人が自宅の人事異動のプロジェクト管理をしているのは、我ながらどうかと思う。でも、こういう仕事のやり方しか知らないのだから仕方がない。


 まずは明日、領地の教育関係者の情報をニナに洗ってもらおう。代わりの候補がいなければ、そもそも異動の話が始まらない。


 メモの末尾に一行追加。


 ——今朝、アリシアに「おはよう」と言われた。

 

 業務メモに私情を挟むな、と前世の自分に怒られそうだが、書かずにはいられなかった。

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