「使用人たちの目」
クランツ公爵邸に異変が起きている——というのが、使用人たちの共通認識らしい。
ニナが朝の身支度を手伝いながら、ぽろぽろと情報を落としてくれる。この子は報告しているつもりはないのだろうが、天性のおしゃべりが私にとって最良の情報源になっている。前世でいうところの、給湯室で全部教えてくれる同期ポジションだ。こういう人材は大事にしなければならない。
「あの、奥様。厨房のコルネさんが、最近奥様がアリシア様と夕食を召し上がっていると聞いて、すごく張り切ってるんです。『子供が喜ぶ献立を考えなくては』って」
「ありがたいわね」
「それと、庭師のヤンさんが『奥様が裏手の花壇を手入れなさっていた、何かお気に召さなかったのだろうか』と心配していました」
「あれは手入れじゃなくてアリシアと遊んでいただけだから、気にしないでと伝えて」
「あと——」
あと?
「西棟のメイドのリーゼさんが、『奥様が急に変わったのは何か企みがあるに違いない』って言っていたそうです」
来た、予想通りの反応だ。
「どういう企みだと思われてるの?」
「えっと……旦那様のお気を引いて、ご自身の発言権を強めようとしている、とか」
なるほど。夫を利用するために良妻賢母を演じている、という読みか。政略結婚の公爵夫人が急に家庭的になれば、そう解釈されるのは自然だ。むしろ裏がないほうが不自然に見える。
「ニナはどう思う?」
「わたしですか?」
ニナは少し考えるように顎に手を当ててから、
「……奥様が何をお考えかは分かりません。でも、アリシア様が最近少しだけ笑うようになったのは本当です。それだけで充分かなって、わたしは思います」
この子をこの屋敷で唯一の味方認定していいだろうか。
……いい、ニナは味方だ。
ただし問題は、味方でない者のほうにある。
使用人の反応を整理すると、三つに分かれる。好意的な層、懐疑的な層、そして態度を決めかねている中間層。どんな組織でも構成は同じだ。中間層をどちらに引き込むかで空気が決まる。
前世の会社で中途入社したとき、古参社員に受け入れてもらうまでに三ヶ月かかった。あのときの教訓——成果を出す前に馴染むな、馴染もうとすると媚びに見える。成果を出せば勝手に認められる。
今回の「成果」は何か。アリシアの変化だ。あの子が少しずつ変わっていく姿を見せること自体が、私の正当性を証明する。
焦らなくていい。結果は後からついてくる。
——そう思っていたのだが、一つだけ、後回しにできない問題が午後に来た。
アリシアの授業が終わった後、ヘルダが私の部屋を訪ねてきた。
「奥様、少しよろしいでしょうか」
ノックの音からして違う。ニナの控えめなノックとは明らかに異なる、礼儀正しいが主張のある三回。入室してきたヘルダは、いつも通り完璧な身だしなみで、いつも通り完璧な微笑みを浮かべていた。完璧すぎて逆に怖い。
「どうしたの、ヘルダ」
「アリシア様のことでございます」
やっぱり……来た。
「最近、アリシア様のご様子が少し変わられたように感じます。授業中の集中力にやや波があり、先日は午後の復習もなさらなかったとか」
午後の復習。ヘルダが午前の授業に加えて午後にも課題を出していたことを、私は今知った。五歳の子供に午前も午後も勉強させるのは詰め込みすぎだと思うが、それは今は置いておく。
「アリシア様は繊細なお子様です。日常に変化がありすぎると、落ち着きを失います」
日常の変化、とは私のことだ。丁寧に包んでいるが、要するに「あなたが余計なことをするから子供が乱れている」と言っている。
「奥様がアリシア様にお心を寄せてくださること自体は、大変結構なことと存じます」
この一言もすごい。「大変結構」で褒めているように見せかけて、「こと自体は」の「自体は」が但し書きみたいで、やり方は問題だと案に言っている。流石、三十年のキャリアは伊達じゃない。
「ですが、教育は一貫性が大切でございます。あれもこれもと刺激を与えすぎますと、かえってお嬢様の成長を妨げることにもなりかねません。専門のことは、どうか専門の者にお任せいただけませんでしょうか」
きれいに着地した。論理的で、表面上は正論で、何より丁寧だ。これを面と向かって言えるのは度胸がある。公爵夫人に対して「口を出すな」と言っているのだから。
私の中で二つの声がぶつかる。
一つは反論だ。あなたの教育方針が問題の根源だと言いたい。「公爵家の令嬢は他の者と違う」を毎日刷り込むことが、近い未来にどんな結果を生むと思っているのかと。
もう一つは理性だ。今ここで正面衝突しても意味がない。ヘルダを論破したところで彼女は変わらないし、変わらないまま敵に回るだけだ。宮廷に繋がる人脈を持つ古参を、まだ味方すら十分に固めていない段階で敵に回すのは愚策。
理性が勝った。前世のサラリーマン根性がこういうとき役に立つ。感情で動くな、時期を待て。
「ヘルダ、ありがとう。あなたの言う通りね」
笑顔を作る。
「教育のことはヘルダに信頼してお任せしているわ。私が出過ぎた真似をしたなら、申し訳なかったわね」
ヘルダの目がほんの一瞬、探るように動いた。あっさり引いたことを意外に思ったのか、裏を読もうとしたのか。
「いえ、奥様のお気持ちは大変ありがたく存じます。今後ともアリシア様のために、力を尽くしてまいります」
「ええ、お願いね」
ヘルダが退室する。扉が閉まった瞬間、笑顔を解いた。
今の会話の敗者は私だ。少なくとも表面上は。ヘルダの要求を飲み、教育への介入を控えると約束した形になっている。
ただ、約束したのは「教育への介入」であって、「娘と過ごす時間」ではない。夕食も読み聞かせも庭遊びも、教育ではなく家族の時間だ。そこにヘルダの管轄権はない。
線引きを変えたのだ。ヘルダが守っている縄張りは「教育」。私が踏み込むのは「生活」。重なる領域はある。だが今の段階では、重ならない領域で実績を積めばいい。
息を吐いて、窓の外を見た。
ヘルダは手強い。当たり前だ。三十年この家でやってきた人間と、来て二週間の人間では地盤が違いすぎる。真っ向勝負で勝てるわけがない。
でも、三十年で作られたものを壊す必要はない。この子の生活の中に、ヘルダの教えとは違う価値観が一つでも入ればいい。「あなたは特別」と教えられても、夕食のテーブルで母親とかぶの話をして、花壇で一緒に泥だらけになって、寝る前に竜の絵本を聞いて、それだけでも教育係の呪文は少しずつ薄まるだろう。
時間はある。まだ九年と五十週くらい。
……数えるのはやめよう。気が遠くなる。




