「小さな手」
転生から二週間が経った。
変わったことは、アリシアとの夕食が定着したこと。読み聞かせも毎晩続いている。絵本は五冊目に入った。アリシアは依然「いらない」と言い、依然ベッドの端ににじり寄ってくる。この様式美を崩す気は双方にないらしい。
変わらないことと言えば、ヘルダの授業はそのまま。けれど、手を出すにはまだ早い。ギルバートとの会話頻度は「好きにしろ」以降ほぼゼロに戻った。あの人は用がなければ話しかけてこないし、こちらも毎日押しかけるわけにはいかない。
今日は午後の時間が空いた。ヘルダの授業は午前中で終わるので、午後のアリシアは基本的に自由時間だ。自由時間とは聞こえがいいが、要は放置されている時間のことである。
天気がよかったので庭に出た。散歩がてら庭の構造を確認する——というのはもう半分口実で、最近は純粋にこの庭が好きになりつつある。手入れが行き届いていて、季節の花が要所要所に植えられている。庭師が優秀なのだろう。
正面庭園を抜けて、裏手の一角に回ったとき、小さな背中が見えた。
アリシアだった。
花壇の前にしゃがんでいる。こちらに気づいていない。何かに集中している様子で、頭が前のめりに傾いている。
足音を殺して近づく。五メートルほどの距離まで来て、やっと何をしているか分かった。
土を掘っている。
素手で、しかも正装のまま。淡い水色のワンピースの裾が泥で汚れていて、袖口も茶色くなっている。ヘルダが見たら卒倒するだろう。
足元を見ると、花壇の端に小さな穴が掘られていて、そこに花の苗が一本、斜めに突き刺さっていた。植え替えようとしたらしい。ただし五歳児の園芸技術では限界があったようで、苗は半分根が露出した状態で傾いている。このままでは確実に枯れる。
「アリシア」
声をかけると、びくっと肩が跳ねた。振り向いた顔は——泥がついていた、頬に。なぜ頬につくのかは不明だが、とにかくついている。
「何してるの?」
「……べつに」
この子の「べつに」は万能だ。何を聞いても「べつに」。前世で接した新卒社員にも似たような子がいたが、あの子は三ヶ月で辞めた。この子には辞めるという選択肢がない分、もっと切実だ。
泥だらけの手を後ろに隠そうとしているが、隠しきれていない。ワンピースの汚れも隠しようがない。証拠が多すぎる。
「このお花、植え替えてたの?」
「……」
「上手にできたじゃない」
嘘ではないが正確でもない。やろうとした心意気は本物だ。結果が伴っていないだけで。
「一緒にやろうか。このままだと、ちょっと根っこが出ちゃってるから」
しゃがんで花壇に手を伸ばそうとしたら、アリシアが体でブロックしてきた。
「いい。自分でやる」
「でも——」
「いいって言ってるの」
語気が強い。自分で始めたことを手伝われたくない、というプライドが透けている。五歳にしてこの頑固さ。誰に似たのか——たぶん両親どちらともだろう。元のレティシアも社交界では譲らない女だったとニナが言っていたし、ギルバートの頑固さは言うまでもない。遺伝の余計な合わせ技だ。
ここで引いてもいいが、この苗をこのまま放置すると本当に枯れる。花が枯れること自体は些細な話だが、アリシアが「自分でやったことが失敗した」という経験になるのは避けたい。今はまだ、小さな成功体験を積ませたい時期だ。
なら方針変更……手伝うのではなく、隣で勝手にやる。
「じゃあ、お母様はこっちの花壇をやるわね。ここも少し土が固まってるから」
アリシアの隣——ただし花壇一つ分の距離を空けて——しゃがんだ。自分のスカートの裾が泥につくのを気にしないふりで、土を手で掘り始める。
アリシアがこちらを見ている。
「お母様、手が汚れる」
「もう汚れたわ」
「……服も」
「服は洗えばいいの」
しばらく私が黙々と土を弄っていると、アリシアも自分の花壇に意識を戻した。二人並んで、黙って土を掘っている。傍から見たら異様な光景だろう。公爵夫人と公爵令嬢が正装で花壇を掘り返している。庭師を呼べという話だ。
ちらりとアリシアのほうを見ると、苗の根元に土を被せようとしている。やり方が分からないらしく、ただ土を上から載せているだけだ。根が安定しない。
口は出さず、自分の花壇のほうで「根元をこう、軽く押さえてあげると倒れないのよね」と独り言を言った。
三十秒後、アリシアが自分の苗の根元を指先で押さえているのが視界の端に映った。
教えると拒否する。でも、隣でやって見せれば真似をする。娘の攻略法がまた一つ増えた。
十分ほど作業して、アリシアの苗はどうにかまっすぐ立った。不格好だが、根は土に収まっている。私が手直しした部分はゼロ。全部アリシアの手でやった形になっている。
二人で立ち上がって、花壇を見た。
小さな苗が一本、少し傾きながら立っている。咲くのはまだ先だろう。そもそもちゃんと根づくかも分からない。
「……枯れると思う」
アリシアがぼそりと言った。
自分でやっておいて、自分で結果を否定する。期待してがっかりするくらいなら最初から期待しない——この子はもう、その処世術を覚えてしまっているんだろう。
「枯れるかもしれないわね」
あえて否定するようなことはしなかった。「枯れないよ、大丈夫」と言うのは簡単だが、嘘になるかもしれない。この子に嘘はつきたくない。
「でも、枯れたらまた植えればいいわ」
アリシアは顔を上げた。
「また?」
「何回でも。枯れたら植える。また枯れたらまた植える。そのうち根づくかもしれないし」
「……根づかなかったら?」
「そのときはまた考えましょう。でも今は、この子が頑張ってるのを見てあげるのが先よ」
この子、と苗を指して言った。アリシアはしばらく苗を見つめていた。
「……変なの」
「何が?」
「お母様が」
それだけ言って、アリシアは屋敷のほうに歩いていった。泥だらけの手をスカートで拭きながら。ヘルダが見たら本当に倒れる。
一人で花壇の前に残されて、植えたばかりの苗を見る。
正直なところ、園芸の知識は皆無だ。この苗が何の花かも分かっていない。根づくかどうかも本当に分からない。
でも——まあ、枯れたらまた植えればいい。
自分で言ったことを自分に言い聞かせているあたり、母親としての余裕はまだない。ないが、余裕ができてから始めるには十年は短すぎる。余裕がないまま走るしかない。
泥だらけの手を見下ろして、少し笑った。
前世では土を触ることなんてなかった。コンクリートとアスファルトの上で生きていた。この手で何かを植えたのは、たぶん人生で初めてだ。前の人生でも、この人生でも。
アリシアにとっても。
初めて同士、ということにしておこう。




