「公爵の仕事」
きっかけは些細なことだった。
ヘルダが社交窓口に異動して以来、対外的な書簡のやり取りが増えた。その中に一通、領地の税制に関する問い合わせが混ざっていて、私の手に負えない内容だった。元のレティシアの知識も、前世の日本の常識も、中世風異世界の税制には通用しない。
仕方なくギルバートの執務室を訪ねた。三度目の訪問、さすがにもう扉の前で深呼吸はしない。慣れとは恐ろしい。
「この書簡なんですけれど、税制の部分が分からなくて」
書簡を差し出すと、ギルバートは黙って受け取り、三十秒で目を通した。
「ブレーメン家からの問い合わせか。南部の収穫税の算定方法が変わったことを知らないらしい。回答は俺が出す」
「すみません、助かります」
「……他に分からない書簡は?」
予想外の言葉だった。聞き返しそうになったが、慌てて続きの言葉を捻り出した。
「実は、あと二通ほど……」
「見せろ、全て対応する」
結局、その場で五通の書簡をギルバートに見てもらうことになった。一通ずつ、内容を説明してくれた。相変わらず短い言葉だったけど、でも正確に。
この人は仕事の話になると言葉が出てくる。家族の話題では直ぐに終わるのに、領地の税制や農地の配分の話になると、凄まじい語彙を発揮する。
「この地域の収穫高が落ちているのは、三年前に水路の配分を変えたせいです。元に戻すか、別の作物に転換するかの判断が要りますが——」
「水路の配分は誰が決めた?」
「前任の地方官です。今の担当者は引き継ぎだけで、根拠を理解していないようで」
ギルバートがわずかに眉をひそめた。私が水路の話を理解していることに驚いている。前世の知識だ。農業経済のニュースを見ていたのが、まさか異世界で役に立つとは。
「お前は——いつからそういうことを考えていた」
「最近です。領地のことを知りたいと思って、書庫の資料を少し読みました」
半分本当で半分嘘。読んだのは本当だが、理解の下地は前世の知識だ。
ギルバートは何か言いかけて、やめた。代わりに机の引き出しから分厚い帳簿を取り出した。
「これが領地全域の管理台帳だ。目を通しておけ」
貸してくれるのだとうかと思っていると「持ち出すな、ここで読め」と返された。
「いいのですか? 長くなりますが……」
「構わん」
この人の中でどういう判断が下されたのかは分からないが、拒否されないならありがたく座らせてもらう。
執務室の端にある来客用の椅子に座り、帳簿を開いた……分厚い。手書きの数字と文字がびっしり並んでいる。ギルバートは自分の机に戻り、作業を再開した。
しばらく無言で、同じ部屋にいた。ギルバートは書類を処理し、私は帳簿を読む。静かだが、気まずくはなかった。初めてだ……この人と同じ空間にいて、空気が重くないのは。
帳簿を読み進める。領地の人口推移、年間収支、災害記録、インフラ整備の履歴。几帳面な字でびっしりと記録されている。公爵の仕事がいかに膨大か、初めて実感した。
半分ほど読んだところで、ページの内容が変わった。
領地の管理記録に挟まれる形で、別の記録が出てきた。同じ帳簿、同じ筆跡。ただし内容が違う。
『七月十四日。三一五〇グラム。母子ともに健康』
出生記録。日付と体重。そしてその下に——
『十一月。首が据わる』
『翌年三月。寝返り』
『五月。つかまり立ち。侍女の報告による』
『九月。初語。「いや」』
初語が「いや」……アリシアらしいと思ってしまって、息が詰まった。
記録は続いていた。領地の収支報告や災害対応の合間に、数行ずつ。年に四、五回。同じ乾いた筆跡で、同じ事務的な書式で。
『二歳。歩行安定。転倒頻度減少』
『三歳。文字への関心を示す。ヘルダより報告』
『四歳。身長九十二センチ。食事量やや少なし』
全部ヘルダや使用人からの伝聞だった。「侍女の報告による」「ヘルダより報告」——自分で見たのではない。人から聞いて、それを帳簿に書き留めている。
娘の成長記録を、領地の管理台帳に。
税収と災害と水路の配分の間に、娘の寝返りと初語と身長を。同じ帳簿に、同じ字で、同じ温度で。
一つだけ、筆圧が違う行があった。
『五歳。笑顔が減った、とニナより報告あり。要因不明』
要因不明――そこに下線が引かれていた、ギルバートの字で。何度かなぞったのか、インクが濃くなっている。
帳簿を持つ手が思わず震えた。
この人は見ていた……見ていたのだ。直接娘を見に行くことはできなかったし、抱き上げることもしなかったし、声をかけることもなかった。でもこの帳簿の中で、ずっとこの子を記録し続けていた。
関わり方を知らなかったのだ。父親としてどうすればいいか分からなくて、唯一できることが——記録すること。自分の仕事と同じ形式で、自分の仕事の一部として、娘を帳簿に残すこと。
『笑顔が減った。要因不明』
要因は、関わろうとしなかったあなたでもあるのだと言いたかった。でも、それを言う資格は私にもない。元のレティシアだって同罪なんだ。
顔を上げた――ギルバートは机に向かっている。こちらを見ていない。この記録を私が読んでいることに気づいているのかいないのか——いや、気づいているだろう。自分が何を帳簿に書いたかくらい覚えている人間だ。覚えていて、あえて「ここで読め」と言った。
見せたかったのか。見られても構わなかったのか。それとも、忘れていたのか。
この人に聞いても答えは返ってこない。返ってきたとしても「構わん」の三文字だろう。
「旦那様」
「何だ」
「帳簿、ありがとうございます。とても勉強になりました」
「そうか」
いつも通りの短い返事。何も変わらない声。私は帳簿を閉じて、元の場所に戻した。
「また読みに来てもいいですか」
「……好きにしろ」
執務室を出て、扉を閉めて、廊下で立ち止まった。
私は泣いている場合ではない。でも、レティシアの涙腺は本当に緩い。前世の私はこんなに泣く人間ではなかったはずだ。……分からないけど、たぶん、絶対に。
——「五歳。笑顔が減った。要因不明」。
あの下線を引いたとき、この人は何を思ったのだろう。帳簿のページを閉じて、次の行に領地の収支を書いて、いつも通りの一日を終えたのだろうか。
分からない。でも帳簿はあったし、記録もあった。
自室に戻って、デスクの上のアリシアの絵を見た。赤と黄色のぐちゃぐちゃの花と、棒の手足の二人。
私は業務メモに娘の成長を書き留めている。あの人は領地の帳簿に娘の成長を記録していた。
似たもの夫婦、というには皮肉が過ぎる。
でも——少しだけ、この人の隣にいる理由が分かった気がした。




