「おかあさま」
マルタが来て二週間が経った。
授業の中身はヘルダの頃とまるで違う。午前中の二時間、半分は外に出る。庭で植物を観察したり、厨房でコルネの手伝いをしたり、書庫で好きな本を選ばせたりする。残りの半分で読み書きと簡単な算術。配分が逆だとヘルダは思うだろうが、アリシアの顔つきが日に日に柔らかくなっているので、私はマルタのやり方を支持している。
面白いのはマルタの叱り方だ。アリシアが他の使用人に偉そうな口をきいたとき——ヘルダ時代の名残はまだ出る。でも、マルタはアリシアに「駄目でしょう」とは言わなかった。
「アリシアちゃん、今の言い方をされたら相手はどんな気持ちだろうね」
いい叱り方だ、と私は思う。答えは本人に考えさせるんだ。
するとアリシアは黙り込んで、しばらくしてから小さな声で使用人に「ごめんなさい」と言った。言わされたのではなく、自分でたどり着いた謝罪だ。マルタは何も言わずに頷いただけだった。
読み聞かせは続けている。ただし、最近は変化があった。
「お母様、今日はこれ」
アリシアが本棚から絵本を選んで持ってくるようになった。私が読むのを待つのではなく、読みたい本を自分で決める。マルタの「自分で選ぶ」教育が、授業以外の場面にも波及し始めている。
選んでくる本がまた独特で、冒険ものの絵本ばかりだ。お姫様の話には見向きもしない。剣と魔法と竜。公爵令嬢の趣味としてはどうかと思うが、好きなものを否定する気はない。剣と魔法の世界は前世の私も嫌いじゃなかった。まあ……ゲームをした程度の興味しかないが。
そんな日々が続いた、ある午後のこと。
自室で社交関連の手紙を書いていた。ヘルダが社交窓口の役割に就いてから、こちらに回ってくる書簡が増えた。ヘルダは有能だが、最終判断は公爵夫人名義で出す必要がある。仕事が増えた。異動させたら自分の仕事が増える、というのは前世でもよくあった。因果応報だ。
さて、ノックの音。
「どうぞ」
ニナかと思ったし、マルタかとも思った。
――でも扉を開けて入ってきたのは、アリシアだった。
一人で来ている、使用人が付き添っていない。この屋敷でアリシアが一人で誰かの部屋を訪ねるのは、私が知る限り初めてだ。
「アリシア、どうしたの?」
アリシアは何か言いかけて、やめて、もう一度口を開いて、またやめた。手が後ろに回っている。何か隠し持っている。
「あの」
「うん」
「……これ」
後ろ手から出てきたのは、一枚の紙だった。
受け取る。絵が描いてある。
上手ではなかった。年齢を考えれば当然だが、何が描いてあるのか一見しただけでは判別が難しい。色付きの塊が下のほうにあり——たぶんこれが花壇の花だ。赤と黄色がぐちゃぐちゃに混ざっている。
その横に、縦長の丸が二つ並んでいる。棒みたいな手足がついている。大きい丸と小さい丸。
「これ、誰?」
聞いた瞬間、アリシアの頬が赤くなった。
「……お母様と、わたし」
大きいほうが私。小さいほうがアリシア。花壇の横に二人で立っている。あの日、一緒に花を植えた場面だと、言われてやっと分かった。
「上手だね」
それしか出てこなかった。語彙力の低さに自分で呆れるが、他に何と言えばいいのか分からない。
「……マルタ先生が、好きなもの描いていいって言ったから」
好きなものを描いていい。それでこの子が描いたのが、この絵。
花壇と、母と、自分。
好きなもの……。
「飾ってもいい?」
「……べつに。いらないなら捨てていいし」
「いらなくないわ。飾る、ここに」
デスクの上、手紙を書いていた場所の横。毎日目に入る場所に絵を置いた。
アリシアはそれを見て、何か言おうとして、言わずに部屋を出ていった。足音がぱたぱたと廊下を遠ざかっていく。走っている、照れて逃げたのだ。
一人になった部屋で、絵を見る。
赤と黄色のぐちゃぐちゃの花。棒の手足。丸い頭。目が点で、口が一本線。大きい丸と小さい丸が並んでいる。
転生して約二ヶ月。
食事を一緒に取って、絵本を読んで、花を植えて、夜泣きに駆けつけて、ヘルダを動かして、マルタを連れてきた。全部私からアリシアに手を伸ばした。一方通行だった。それでいいと思っていた。返してもらうためにやっているわけではないし、見返りを求めるのは親のやることじゃない。
でも……。
この絵はアリシアが自分で描いて、自分で持ってきた。誰にも言われずに。恥ずかしそうに、後ろ手に隠しながら、それでも持ってきた。
一方通行ではなくなった。
今日のメモはどうしよう。何を書けばいい。「アリシアから絵をもらった」? それでは足りない。「初めてアリシアから何かを差し出された」? それも足りない。
いや……今日は書かなくていい。デスクの上にもう記録がある。赤と黄色のぐちゃぐちゃな記録が。
ああ、どうしようアリシア。お母さんはいま、泣きそうだ。




