「新しい先生」
マルタ・ヴェーバーがクランツ公爵邸に到着したのは、晴れた朝だった。
二度目の面会で条件をまとめ、正式に着任が決まるまで一週間。その間にヘルダの異動が完了し、アリシアの教育係のポストが空いた。段取りとしては奇跡的にうまく噛み合った。前世の仕事運をここで使い切った気がしなくもない。
玄関でマルタを出迎えた。旅装のまま、小さな鞄一つ。引っ越し荷物がこれだけとは思えないので、残りは後日届くのだろう——と思ったら、これで全部だと言う。
「本は?」
「必要なものは頭に入っています。入っていないものは要らないものです」
二十一年分の教師生活を鞄一つにまとめてくる人間。ものすごく身軽か、ものすごく頑固か、たぶん両方だ。
ニナに案内を任せて、マルタの居室を整えてもらう。教育係用の部屋はヘルダが使っていたものがそのまま空いている。
「マルタ先生、お部屋はヘルダ先生が——前の教育係が使っていたお部屋になりますが」
「どこでも構いませんよ。雨露しのげれば」
ニナが困惑した顔で私を見た。貴族の屋敷に来て「雨露しのげれば」と言う教育者はこの家初だろう。
午後、マルタとアリシアの初顔合わせ。教室——ヘルダが使っていた小部屋で、二人を引き合わせた。
「アリシア、こちらがマルタ先生。今日からアリシアの先生になってくださるわ」
「……」
アリシアは黙ったまま、マルタを観察している。値踏みしている、と言ったほうが正確かもしれない。ヘルダがいなくなったことへの戸惑いもあるだろう。昨日まで毎日顔を合わせていた人間が急にいなくなり、代わりに知らないおばあちゃんが来た。不安にならないほうがおかしい。
マルタは椅子に座ったまま、アリシアを見ていた。にこにこもしていないし、かといって厳しい顔でもない。自然体。風景の一部みたいに、ただそこにいる。
「あなたがアリシアちゃんね。クッキー、美味しかった?」
ヴァイデンでの話。アリシアの目がちらりと動いた、覚えている。
「……美味しかった」
「よかった。今度また焼くよ」
それだけ。自己紹介も教育方針の説明も、何もしない。アリシアは何か言われるのを待っている顔をしていたが、マルタがそれ以上何も言わないので、手持ち無沙汰になっている。
「先生。お勉強は?」
アリシアから聞いた。自分から授業を催促する娘は、ヘルダの教育で「時間が来たら勉強する」習慣が染みついているのだろう。
「お勉強ね。今日はお天気がいいから、外に出ましょうか」
アリシアの顔に疑問符が浮かんだ。外? 授業は教室でやるものだと思っている。
「一つだけお願いがあるの。お庭に出て、好きなものを三つ見つけてきて」
「好きなもの?」
「何でもいいよ。石でも花でも虫でも。あなたが『これがいい』って思ったもの。三つだけ持ってきて見せてくれる?」
アリシアが私を見た、また許可を求める目だ。これは良くないが、でも今は黙って頷く。
アリシアは教室を出ていった。
二人きりになった教室で、マルタに聞いた。
「最初から外に出すんですね」
「教室に座らせて『何が好きですか』と聞いても、この子は『分かりません』と答えるでしょう。体を動かして、自分で探して、自分で決める。その経験が先です」
「ヘルダは——前の教育係は、教室から出しませんでした」
「でしょうね。あの子の座り方を見ればだいたい分かります」
だいたい分かる、と軽く言うのが恐ろしい。
窓から庭を見た。アリシアが庭に出ている。きょろきょろしている。何を探していいか分からないのだ。「好きなものを見つけろ」という課題が難しすぎるらしい。好きなものが何か、自分で考えた経験が少ないのだろう。ヘルダの授業では「何が正しいか」は教わったが「何が好きか」は聞かれなかった。
十分ほど経って、アリシアが戻ってきた。両手に何かを握っている。
マルタの前に、三つ並べた。
灰色の石。小さな甲虫。茶色く乾いた葉っぱ。
花ではなかった。庭にはきれいな花がいくつも咲いていたのに、アリシアが持ってきたのは石と虫と枯れ葉だった。
「これが好き?」
マルタが聞く。アリシアは一瞬ためらって、でも頷いた。
「なんでこの石が好き?」
「……つるつるしてる」
「虫は?」
「……きれい。背中が光る」
「葉っぱは?」
「……形が面白い。ぎざぎざしてて」
マルタが三つのものをじっと見て、それからアリシアの顔を見た。
「いい目をしていますね」
アリシアは驚いた顔をした。褒められると思っていなかったのだ。石と虫と枯れ葉。きれいな花を持ってこなかった自分を、怒られるかもしれないと思っていたんだ。
「つるつるした石が好き。光る虫が好き。面白い形の葉っぱが好き。全部、自分の目で見て選んだでしょう? それがね、大事なの」
アリシアの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「明日もまた探しに行こうか。明日は五つね」
「……五つ」
「多い?」
「多くない」
強がりだ。でもその強がりの声は、ヘルダの前で聞いた強がりとは違った。萎縮からくるものではなく、もっと——もっと子供らしい、素の意地だ。
私は教室の外の廊下でこれを聞いていた。覗き見が趣味になりつつある。公爵夫人の趣味としてはどうかと思うが、やめられない。なんだか泣きそうだ。
そうこうしている内に、マルタの初日があっという間に終わった。授業らしい授業は一つもなかった。文字も書いていないし、歴史も読んでいない。ヘルダが見たら頭を抱えるだろう。
でも、アリシアは自分で石を選んだ、虫を選んだ、枯れ葉を選んだ。自分の「好き」を自分で決めて、それを人に見せて、「いい目をしている」と言われた。
たぶん、これが教育だ。少なくとも、今のアリシアに必要な教育は。
夕食のとき、アリシアがいつもよりほんの少しだけ多く話した。
「今日、虫見つけた」
「聞いたわ。背中が光る虫なんですって?」
「うん。マルタ先生が、明日は五つって」
「五つ見つけるの?」
「うん、できる」
できる……「べつに」や「ふうん」じゃなくて、今度は「できる」……か。
メモには書かなかった。書かなくても忘れない。この子が「できる」と言った夜のことは。




