「交代劇」
マルタからの手紙は、翌日の夕方に届いた。
封を開ける手が少し震えた。いい大人がクッキーの老婦人からの手紙にこれだけ緊張するのもどうかと思うが、この返事一つで今後の計画が全部変わる。
便箋は一枚、短い文面だった。
『クランツ公爵夫人さま。先日はわざわざお越しくださり、ありがとうございました。あの子のクッキーの食べ方を見て、少し考えが変わりました。一度、詳しいお話を伺えますか。——マルタ・ヴェーバー』
クッキーの食べ方で、何を見たのだろう。アリシアは普通に食べていた——いや、普通ではなかったのか。私を見て許可を求めてから手を伸ばした。自分で取っていいと言われて戸惑った。六十年子供を見てきた目には、あれだけで十分だったのかもしれない。
返事を書いた。来週の訪問日を提案して、条件面の話もしたい旨を添えた。断られたわけではない。もちろん確定でもない。でも、扉は開いた。
さて、扉が開いた以上、次にやるべきことは明白だ。
ヘルダの異動――。
もう先延ばしにはできない。マルタが正式に引き受けてくれた場合、教育係のポストをヘルダが埋めたままでは話が進まない。マルタとの二度目の面会までに、ヘルダの処遇を決めなければ。
夜、メモを広げて最終案を固めた。
方針は「案一」で行く。ヘルダを宮廷との社交窓口に異動させる。名目は「公爵家の対外的な社交業務を、ヘルダの豊富な人脈を活かして強化する」。教育現場から離れるが、格としては下がらない。むしろヘルダの妹が宮廷にいることを考えれば、この配置は合理的だ。
ポイントは三つ。
一、面子を潰さない。
二、能力を活かす配置にする。
三、本人が拒否しにくい名目を作る。
前世の会社で、営業部長が企画部に異動させられたケースを思い出す。あのときの人事部長の手腕は見事だった。「あなたの経験は企画にこそ必要です」と言われて、営業部長は渋々ながら納得した。実質的な左遷だったが、誰も口にはしなかった。大人の世界は言い方が九割だ。
翌日、動く。
まずギルバートに話を通した。執務室に行き、手短に伝える。
「ヘルダの役割を変えたいと思っています。教育係から、社交の窓口役に」
「理由は?」
「アリシアの教育に、別の方向性を取り入れたいんです。ヘルダの指導が悪いのではなく、もう一つ別の視点が必要で。ヘルダには社交面で力を貸してもらいたい」
ギルバートは黙って聞いている。
「新しい教育係の候補がいます。元学院教師のマルタ・ヴェーバーという方で、先日アリシアと一緒に会ってきました」
ギルバートの眉が動いた。「先日の領地見学」の狙いがこれだったのかと気づいたのだろう。
「……アリシアは会ったのか」
「はい。アリシアも、その方のことは気に入ったようです」
「ヘルダは納得するのか」
「納得させます」
少し強い言い方になった。ギルバートがこちらを見ている。
「お前がそこまで言うなら、やれ」
許可が出た。相変わらず短い言葉だが、今までで一番積極的な言葉をもらった気がする。
午後、ヘルダを自室に呼んだ。
お茶を用意してもらったのは、場を柔らかくするためだ。剣を抜く前に茶を出す。日本でも戦国時代にやっていたらしい。あれは毒殺だったかもしれないが、今回は毒は入っていない。
ヘルダが着席する。背筋は完璧、表情は穏やか。いつも通りだ。ただし何かを察している目をしている。この人は勘がいい。
「ヘルダ、今日はあなたに大切なお願いがあるの」
「お願い」で切り出すのがコツだ。「通告」ではなく「お願い」。相手に拒否権があるように見せる。
「あなたの力を、別の形でお借りしたいと思っています。教育のお仕事はもちろん大切だけれど、今のクランツ家には、社交面でもっとあなたの力が必要なの」
ヘルダの目が一瞬光った。来た、と思っているのだろう。
「宮廷との関係、他家との交流。ヘルダには妹さんという素晴らしいパイプもあるし、三十年の経験があるわ。この力を社交の窓口として活かしていただけないかしら。教育のことは——新しい先生を招く方向で考えています」
全部出した。回りくどくしても伝わるものは変わらない。
しばしの沈黙――。
ヘルダの表情が、穏やかなまま凍っている。微笑みの形は崩れていないが、目の奥の温度が変わった。
「……新しい先生を、とおっしゃいますと」
「元学院教師の方で、初等教育を専門にされている方です」
「学院教師」
ヘルダがゆっくり茶碗を持ち上げ、一口飲み、置いた。所作の一つ一つが丁寧すぎて、逆にこの人の内側で何が動いているかを物語っている。
「奥様のお考えは分かりました。社交の窓口というお役目、お引き受けいたします」
受け、た……?
驚くほどあっさりだった。いや——あっさりではない。この人は抗議しても無駄だと計算したのだ。公爵夫人が夫の了承を得た上で言っている。ここで拒否すれば立場が悪くなるのはヘルダの側だ。
「ありがとう、ヘルダ。あなたにこの役目をお願いできるのは心強いわ」
「勿体ないお言葉です」
ヘルダが立ち上がる。しかし退室しかけて、足を止めた。
「一つだけ、よろしいですか」
「ええ」
「奥様のやり方で、アリシア様がお幸せになるといいですね」
含みがあった。「なるといいですね」は祝福ではない。「なればいいですけど、ならなかったらどうするんですか」が裏に透けている。三十年間自分が正しいと信じてきたものを否定されたのだから、これも当然の反応だろう。
「なるわ」
私はそう答えた。根拠はない、覚悟だけで返した。
ヘルダが一礼して退室した。扉が閉まる。
椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
……やった。
……やったのか……やれたのか?
手が震えているのは、私は緊張が後から来るタイプだからだ。前世もそうだった。プレゼン中は平気でも、終わった途端に膝が笑う。
ヘルダは敵ではなかった。最後まで敵にはしなかった。この人はこの人のやり方でアリシアを育てようとしていた。方向性が決定的に合わなかっただけだ。
去り際の言葉も、まだ胸に残っている。「お幸せになるといいですね」――ヘルダに言われるまでもない。この選択が正しかったかどうかは、十年後のアリシアが証明する。
夕食のとき、アリシアに聞いた。
「明日からヘルダ先生のお勉強はお休みになるわ。代わりに、この前ヴァイデンで会ったおばあちゃん——マルタ先生が来てくれることになるかもしれないの」
まだマルタの正式な了承は取れていないのに見切り発車だが、ここは勢いで行く。
アリシアはスプーンを止めた。
「あのクッキーのおばあちゃん?」
「そう。あのクッキーのおばあちゃん」
「……ふうん」
ふうん、で終わった。これはこの子の中では高評価だ。嫌なら「べつに」か「いい」が出る。「ふうん」は受け入れの言葉だ、きっと。




