「領地への外出」
アリシアが馬車に乗るのは、記憶にある限り初めてらしい。
らしい、というのはニナからの伝聞で、アリシア本人は「乗ったことくらいある」と主張しているが、乗り込む際に足をかける位置が分からずまごついていたので説得力がない。
朝七時、公爵邸を出発。馬車はギルバートが指定した御者ベルンハルトが操る。白髪の大柄な男で、口数は少ないが馬の扱いが見事だ。ギルバートが信頼する人間を選んでくれたのだと分かる。
「揺れる」
走り出してすぐ、アリシアが不満そうに言った。馬車の揺れに慣れていないのだ。
「窓の外を見ていると酔いにくいわよ」
「酔わない。揺れるって言ってるだけ」
素直に助言を聞くわけがなかった。ただ、三分後にはしっかり窓の外を見ていた。言われたからではなく自分の判断で、という体裁を守りたいのだろう。よく分かってきた、この子の行動パターン。
公爵邸を囲む市街地を抜けると、景色が一変した。農地が広がり、丘が連なり、遠くに山の稜線が見える。空が広い。屋敷の中しか知らない人間にとって、この開放感は相当なものだろう。
アリシアが窓に顔を寄せていた。
最初は黙って見ていた。いつもの無表情。でも景色が変わるたびに、少しずつ体が前に傾いていく。絵本の夜みたいに。
「……あの山、何ていうの」
ぼそりと出た言葉。こちらを見ずに、窓の外を見たまま。
「どれ?」
「あの、一番高いやつ」
「えっと——」
知らない。元のレティシアなら知っていたかもしれないが、私はこの領地の地理に明るくない。
「ベルンハルトさんに聞いてみましょうか」
御者台のベルンハルトに声をかけると、低い声が返ってきた。
「グリューン山でございます。冬は頂上に雪が積もります」
「雪」
アリシアが繰り返した。雪を見たことがあるのかないのか。この地方の冬がどの程度のものか、まだ把握できていない。
それからぽつぽつと、アリシアの口から言葉が出るようになった。
「あの花、庭にもある」
「そうね。名前は知ってる?」
「知らない。庭師のヤンさんが植えてた」
「今度ヤンさんに聞いてみましょうか」
「……べつに」
出た、べつに。でもその「べつに」のあとで視線が花畑に戻っている。気になっている、興味がある、否定した風に装っても気にはなっている。
「あの川、魚いるかな」
「いるんじゃないかしら」
「釣れる?」
「釣りしたいの?」
「……べつに」
べつにの汎用性がすごい。何にでも使える、五歳児の万能シールドだ。
二時間ほど走って、ヴァイデンの集落が見えてきた。小さな村だ。石造りの家が二十軒ほど点在し、中央に井戸と広場がある。のどかという言葉を具現化したような場所だ。
馬車を広場の近くに止めた。
「アリシア、少し歩きましょうか。足も疲れたでしょう」
「疲れてない」
疲れてないと言いつつ、馬車を降りた途端に足がふらついた。二時間座りっぱなしの娘の足は正直だ。
ベルンハルトに馬車を任せ、二人で集落の外れに向かう。ニナの情報によれば、マルタ・ヴェーバーの家はここから歩いて五分ほどの場所にある。
道すがら、アリシアに話した。
「これからお母様のお知り合いのところに寄るわ。少しだけお話しするから、一緒に来てくれる?」
「お知り合い?」
「先生をしていた方よ」
「……ヘルダ先生の?」
「違う人。とても優しい先生だったんですって」
嘘は言っていない。会ったことがないので「だったんですって」は正確な表現だ。
小道の奥に、一軒の家が見えた。こぢんまりとした石造りの平屋。庭先に洗濯物が干してあり、煙突から薄く煙が上がっている。生活感がある。
門扉を叩く。
「はいはい、どなた」
扉を開けたのは、小柄な老婦人だった。白髪を無造作にまとめ、エプロンをつけている。手に木べらを持っているところを見ると、料理中だったらしい。
六十二歳、マルタ・ヴェーバー。
「突然の訪問を申し訳ございません。クランツ公爵家のレティシアと申します」
名乗った瞬間、マルタの目が少し細くなった。品定めをしている。公爵夫人が田舎の隠居宅を訪ねてくる。まともな状況ではないと分かっているのだろう。
「公爵夫人が? こんなところに?」
「お時間をいただきたくて。少しだけお話を——」
「まあ、立ち話もなんですから上がってください。散らかっていますけれど」
追い返されなかった、それだけでまず一歩進んだ。
室内は質素だが清潔だった。本棚に本がぎっしり詰まっている。教育書、児童書、歴史書。引退してもこの量の本を手元に置いている人間は、まだ知識への情熱を失っていない。
テーブルに案内されて座る。アリシアは私の隣に座った。いつもより近い。知らない場所で知らない人の前だから、自然と距離が縮まっている。
マルタがお茶を入れてくれる間、アリシアをちらりと見た。マルタも同じようにアリシアを見ていた。
お茶が出て、一口飲んだあと。
「それで、公爵夫人さま。ご用件は?」
単刀直入だ、社交辞令を挟まない。この人にはまどろっこしい前置きは要らないと判断した。
「娘の教育のことで、ご相談したくて参りました」
「教育……クランツ家ほどの名家なら、優秀な教育係がおいでなのでは?」
「ただ——方向性のことで、少し悩んでいまして」
マルタの視線がアリシアに向いた。アリシアは茶碗を両手で持って、黙ってこちらのやり取りを聞いている。知らない大人の前では発言しない。ヘルダの教育の成果で、求められない限り口を開かないように仕込まれている。
マルタが黙って、じっとアリシアを見た。五秒、十秒。アリシアが居心地悪そうに身じろぎする。
「この子の目は、怯えていますね」
流石だ――私が二週間以上かけてようやく言語化できたことを、マルタは一目で見抜いた。娘の、礼儀正しく座っている姿の裏側にあるものを、見た瞬間に読み取ったのだろう。
アリシアが「怯えてない」と言い返すかと思ったが、言わなかった。
「マルタさん。私は——この子に、人の痛みが分かる子になってほしいんです」
マルタは私の目を見た、嘘を探すような視線だ。それから、もう一度アリシアを見た。
「人の痛みが分かる子に、ね」
マルタは立ち上がった。棚からクッキーの缶を出して、アリシアの前に置いた。
「お嬢ちゃん。食べてもいいよ」
アリシアが私を見た。「食べていいの?」の目線。知らない人からお菓子をもらうのが初めてなのだろう。私が頷くと、おそるおそる一枚手に取った。
「美味しい?」
マルタが聞く。アリシアは小さく頷いた。
「もう一枚食べていいよ。おかわりは自分で取るんだよ」
自分で取る。ヘルダなら「差し出されたものをいただきなさい」と言うところだ。マルタは逆で、「自分で手を伸ばせ」と言っている。
アリシアが二枚目のクッキーに手を伸ばすのを見ながら、マルタは言った。
「少し考えさせてください。明日、お返事の手紙を出します」
「ありがとうございます。お手紙、お待ちしています」
帰りの馬車で、アリシアがぽつりと言った。
「あのおばあちゃん、ヘルダ先生と違う」
「どう違う?」
「……おかし、自分で取っていいって言った」
娘の感想としては、たぶんそれが正しい、核心を突いている。自分で手を伸ばしていいと言われた経験が、この子にはなかったんだ。
窓の外でグリューン山の影が長く伸びている。日が傾いてきた。アリシアは窓にもたれて、うとうとしている。馬車の揺れが今度は子守唄になったらしい。
寝顔を見ながら、祈るみたいな気持ちで考えた。
マルタさん。どうか、引き受けてください。




