「六歳の誕生日」
ニナに聞いたとき、耳を疑った。
「誕生日のお祝い……ですか。アリシア様の誕生日は来週ですが、特にお祝いの予定は入っておりませんけれど」
「去年は?」
「使用人一同からの贈り物をお部屋に届けました。それだけです」
「一昨年は?」
「同じです」
「その前は?」
「……同じかと」
毎年、贈り物が部屋に届くだけ。ケーキもない。食事会もない。「誕生日おめでとう」と声をかける人間すらいたかどうか怪しいとは、まったくふざけた話だ。
「旦那様は?」
「旦那様からは……書斎の棚に毎年一冊、アリシア様宛の本が追加されていると、以前侍女が言っていましたが、直接お渡しにはなっていないようです」
書斎の棚に本を追加する。渡すのではなく、置いておく。アリシアがいつかそれを手に取ることを期待して——いや、期待すらしていないのかもしれない。ただ「やるべきだと思ったことをやった」だけで、それが届いているかどうかは確認しない。帳簿の人らしいやり方だ。
つまり五年間も、この子は誕生日を知らなかった。知っていたとしても、それが「嬉しい日」だという感覚がないまま過ぎていたんだろう。
私が、このふざけた習慣を変える。
早速コルネに相談した。
「アリシアの誕生日に、特別な食事を用意してもらえますか。あと、ケーキをひとつ」
「ケーキ……もちろんです、奥様! アリシア様のお好きなものは——!」
「パン。パンが好きな子だから、パンに近い素朴なケーキがいいかもしれない。派手なものより」
「お任せください。とびきりのものを焼きます!」
ニナには飾りつけを頼んだ。大げさなものはいらない。花を少しと、テーブルクロスをいつもより明るいものに。
「ニナ、それと——旦那様にも声をかけてくるわ」
言うが早いか、西棟にいって扉を叩いた。
「来週のアリシアの誕生日に、三人で食事をしたいのですが。来ていただけますか」
ギルバートは書類の手を止めた。
「誕生日……だと?」
「はい、来週の水曜日です」
何を考えているのか読めない顔で、ギルバートはペンを机に置いた。
「……何を用意すればいい?」
驚いた。この人がこちらの話に対して能動的な質問を返したのは初めてかもしれない。
「来てくださるだけで十分です」
「手ぶらで行っていいのか?」
「贈り物は——アリシアに直接渡してあげてください。毎年の本、棚に置くのではなく」
ギルバートの目が一瞬止まった。
……知っていたのか、という顔だ。ニナ経由の情報だとは、言わないでおく。
そうして――水曜日が来た。
食堂にはコルネが腕を振るった料理が並んでいる。アリシアの好きなパン、スープ、鶏肉の煮込み、温野菜——かぶ抜き。テーブルにはニナが庭から摘んできた花が飾られていて、いつもの食堂が少しだけ華やいでいる。
アリシアが食堂に入ってきた。足を止めて、テーブルを見て、花を見て、三人分の席を見た。
「何、これ」
「お誕生日のお祝いよ」
「誕生日」
「六歳おめでとう、アリシア」
アリシアの顔に、見たことのない表情が浮かんだ。何と呼べばいいのか分からない顔。誕生日を祝われるということの意味を、たぶん初めて理解しようとしているんだ。
「座って、お父様も来るわ」
「お父様も?」
声が上擦った。アリシアはすぐに気づいて口を引き結んだが、私には聞こえていた。ふふっ……。
やがてギルバートが来た。
手に何か持っている……布に包まれた、長方形のもの?
三人が席に着いた。いつもの配置——ギルバートが端、私が反対側、アリシアが中間。ただし今日はアリシアの席の前にだけ花が一輪多い。ニナの気遣いだ。
「いただきます」
私が言うと、アリシアが続いた、小さな声で。ギルバートは黙って箸をつけた。この人は「いただきます」を言わない。言わないが、私が言うのを待ってから食べ始めるようになっている。
食事は穏やかに進んだ。初めての三人食事のときのような窒息しそうな沈黙はなかった。会話は相変わらず少ないが、スープの湯気とパンの匂いと花の色が、言葉の足りない部分を埋めていたと思う。
食事の終わりに、コルネが小さなケーキを持ってきた。
素朴な焼き菓子に近い見た目。上に砂糖がけの果物が乗っている。そして、蝋燭が一本。
「アリシア様、お誕生日おめでとうございます!」
コルネが笑顔で言った。ニナも隣で拍手している。いつの間にか食堂の入り口にベルンハルトやヤンの顔もある。噂を聞きつけてきたらしい。
アリシアが蝋燭の火を見つめていた。
「吹いて、消すの?」
「そう、お願い事をしてから、ふうって」
この世界にその風習があるかは知らない。なかったとしても、今日から作ればいい。
アリシアは目を閉じた。五秒くらい。何をお願いしたのかは聞かない。
ふう、と息を吹きかけた。蝋燭の火が揺れて、消えた。
ニナが拍手して、コルネが拍手して、入り口の使用人たちが拍手して——ギルバートは拍手しなかったが、視線はずっとアリシアにあった。
「アリシア……これを」
ギルバートが布包みをテーブルに置いた。アリシアが恐る恐る開ける。
本だった。
革装丁の、少し大人向けの図鑑……植物と昆虫の図鑑。
「虫が好きだと聞いた」
聞いた……あのギルバートが、誰かから聞いたのだ。
マルタの授業で虫を持ってきた話。夕食のときに私がアリシアから聞いた話。それがどこかでギルバートの耳にも届いていたんだろう。
アリシアが図鑑を膝の上に抱えた。
重そうだ。五歳——いや、今日で六歳の体には少し大きすぎるかな。
「……ありがとう」
娘は私を見なかった。ギルバートも見なかった。
テーブルの上のケーキの皿を見ながら、もう一度言った。
「ありがとう」
たぶんそれは、この場にいる全員に向けた、アリシアの「ありがとう」。
使用人たちは感極まってぐずぐずしている。ニナは完全に泣いている。コルネも目頭を押さえている。泣きすぎだろ、みんな。……うぐっ。
ギルバートは席を立った。
「食事、美味かった。……コルネに礼を」
それだけ言って食堂を出ていく、相変わらず退場が早い旦那さまだ。
扉の手前で足を止めたのは、たった一瞬だけだった。
「レティシア」
名前で呼ばれた。転生してから初めてだ。
「……あの子は、笑うようになったな」
振り向かずに言って、出ていった。
アリシアは膝の上の図鑑をぱらぱらめくっている。甲虫のページを見つけたらしく、目が輝いている。「この虫、庭にいた」と独り言を言っている。
ニナが涙を拭きながら片付けを始める。コルネが厨房に戻っていく。ベルンハルトたちも消えていく。
静かになった食堂で、私はしばらく動けなかった。
レティシア、とあの人は呼んだ。これまで一度も名前で呼ばれたことがなかった。「お前」か、呼びかけすらなかった。
あの子は、笑うようになったな。
あの帳簿の中で「笑顔が減った」と下線を引いた人が、笑うようになったと言った。
今日のことはメモに書かない。書けない。ペンを持ったら手が震えて字にならない。
代わりに、テーブルの上の蝋燭の燃えかすをそっと取った。最初の誕生日の証拠。これだけは取っておく。メモよりずっと確かな記録として。




