Chapter16: 彼女はなぜか怒ってる
敷島さんの記憶の欠落度合いは、僕にも増してひどいものだった。
彼女は〝たしか夕方〟までは自宅にいて〝何か用事〟があって自室から出ようとドアを開いた。そこで記憶は途切れ、気がついたら僕のベッドの上だったという話である。
まったく要領を得ず、わけがわからない。
彼女の部屋のドアは、記憶削除装置とタイムトラベル機能がついた〝どこかへ跳んじゃうドア〟か?
ンなわけない!
「……本当にそれしか思い出せないんですか? 断片的な記憶も出てこないですか?」
敷島さんは、広げた僕の両足の間であぐらをかき、ウンウン唸っている。やがて、目を閉じたまま「やきとりが見えてきました」と荘厳に発した。
「……やきとり?」
「皿に載っている串だけになったやきとりです」
「ふつうに、やきとりの串でいいんじゃ……」
「シっ。静かに」と遮り、透視をする占い師調で言葉をつないでいく。「それに、実が入っていない枝豆。ジョッキに泡だけが残った生ビールが多数。レモンだけになったジントニック。おや? 塩辛になったイカは原型を留めていますね。……なるほど、これらが置かれているのは、ちょっと小汚いカウンター席のようです」
「……居酒屋でぼっち飲みしてたんですね?」
「うん。かもね」と、どっちつかずの返事で開眼し、馴れ馴れしい口調に戻る。「あっ、場所とか訊かれても思い出せないから。私が覚えてるのはこれがすべて」
判明したことは、こうだ。
ふたりともお酒を飲んで記憶を失っている。――以上。
茫然自失の家主を差し置き、敷島さんが窓へ向かう。
「とりあえず、部屋薄暗いでしょ。明るくするよ」
シャシャーッと軽快に開けられるカーテン。
掃き出し窓から注いでくる大量の朝日に、僕は目を細める。
それから、前代未聞の光景を目の当たりしにした。
「その洗濯物って……」
「私が昨日着ていた服なんだ。なんで洗われて干されてるんだろう。不思議だなぁ」
と、腕を組んで小首をかしげる彼女のそば、室内の窓際に洗濯物は干されている。
ハンガーラックに掛けられているのは、白い長袖Tシャツ、スリムジーンズ、靴下、それから、女性ものの下着が上下セット……。ラック前には、僕がいつも部屋干しの際にそうしているように、サーキュレーターが設置され、球体を左右にふり動かしている。
吊られている下着の色柄と彼女にはギャップがあるが、僕はショーツと呼ばれるパンツもブラジャーも所持していないため、彼女が持ち主というのは確かだろう。
「それじゃあ、今着ているTシャツとジャージは……?」
「栃内くんには心当たりがな~い?」
こちらに向かってきた彼女が逆質問をして、両足の間へと立ち戻る。
見下ろしてくる顔に不敵な笑みが浮いているのが、若干気がかりではあるけれど、僕は質問に答える。
「同じ服を持ってますけど……敷島さんのものじゃないんですか?」
「違うって。こんなヤンキーみたいなジャージ持ってるわけないじゃない」
持っていそうだから訊いているのだ。
「裾踏んじゃってて私にはサイズがすこし大きいでしょ。それに、なに?、この太っちょなヘンテコキャラのダサダサTシャツ」
「マシュマロマンですよ。知りません? ゴースト・バスターズに出てくるマシュマロのオバケで。――ほら、頭にかぶった水兵帽子に書かれている〝STAY PUFT〟、日本語で〝いつもふわふわ〟っていう意味の言葉がトレードマークの」
敷島さんが胸元の生地をひっぱって文字を興味なさげに眺める。
「ゴースト・バスターズって何?」
「あっ……もういいです」
手放されたTシャツが胸に着地した直後、僕はドキリとした。
彼女の肩周辺にも一応目を向けて見るが、やはり確認できない。
Tシャツが黒地のためポチポチに勘づきにかったのだろうか。
敷島さんは現在、ノーブラだ。
「二着はきみのってことでいい?」
「……え? だ、だと思います」と、生返事で視線を下に避難させる。
「じゃあ、これも?」
なにを血迷ったのか、彼女がいきなりジャージを下げた。
避難先での予期せぬ二次被害に、手遅れだが僕は慌てて目をつぶる。
露出狂なのか!?
「露出狂とか勘違いしないでよ。見てもらわなくちゃ困るんだから」
困ってるのはこっちだ。
「僕に下着を見せても特なんかしないでしょう!?」
「どう見ても男物だよね、社会の窓あるし」
「よ、よくわかりませんでした!」と目を閉じたままで答えるが、彼女はどうしても見確かめてもらいたいらしく、根負けした僕は薄目を開け、「はい、男物のようで!」と視認後すぐに閉じ直す。
「使用した経験は、お有り?」
……言わんとしていることは、なんとなく察せられる。
「買ったのは薄っすら覚えがあるんですけど……つ、使ったことは無い……と思います。仕舞って忘れてた新品だと……」
「でしょうね」と、彼女はジャージを上げ戻す。
「……でしょうね?」
「そこにタグが落ちてる」
敷島さんが顎をしゃくって示したは、ベッド後方の床だった。落ちていたのは、男性向け下着を扱うブランドのロゴが入ったタグ。彼女が穿いていたボクサートランクスの、平たいゴム留めに刻印されていたブランド名と同じである。
「……わざわざ穿いているところを僕に見せる必要ありました?」
「当然」
即答すると、彼女は部屋の出入り口に向かっていく。
「……あの、どちらへ?」
「ちょこっと見せたいものがあるんだ。いつまでも石になってないでついてきて」
「それができればいいんですけど、――」
僕が大股開きで座りつづけているのは、なにも好き好んでそうしているわけではなかった。体を動かそうにも動かせないのである。筋肉痛がすさまじいのだ。二日酔いの頭痛を忘れるほどにすさまじい。手足、腹筋、背中、腰……ようは全身。
とりわけ、両腕が度を越している。手首と前腕と上腕二頭筋の成分は、半分が「痛み」でもう半分も「痛み」で出来てるんだっけ?、と疑わしい。腰上あたりの背骨には、ベッド側面がふれていないのにもかかわらず、ずっと物を押し付けっぱしにされているような違和感もある。
「原因不明の筋肉痛がしんどくて」
「ふ~ん、筋肉痛ねえ」
「動かすにはもうすこし時間を」
「立て」
と、メンチを切られ、
「……はい」
僕は肢体にムチを打った。




