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定期的に行われる二人きりの茶会で、僕とイリアは少しずつ距離を縮めていった。互いに口数が多くなく、話している時間よりも黙っていることのほうが多かったけれど。それでも、同じ空間で時間を共有することには意味があった。
結婚したら生活を共にするわけなので、そのための準備としても必要な催しなのだと理解する。
「隣国から入ってきた茶葉なんだけど、まだ市場には出回っていないんだ」
「そうなのですか、」
「うん。だから特別ね。イリアが好きそうだと思ったから、用意してもらったんだよ」
ありがとうございます、とはにかむイリアの頬にほんの僅かだけれど喜色が滲んだ。
よく見ていなければ見逃してしまいそうなほどの些細な変化。自身も表情が読めないと言われることはあるが、イリアも負けていない。
けれどそれは、感情表現が乏しいというより、心を見透かされまいと足掻いている感じだ。すなわち当然、感情がないわけではない。
「庭師が新しい花を植えたと言っていたから、後で見に行こう」
提案すれば、また嬉しそうに笑う。
侯爵家の庭でお茶と少しの会話を交わした後、辺りを散策するのは、いつも通りの流れでもあった。広すぎる庭園であるから、全てを見て回るには時間がかかる。数日かけても、隅々まで見渡すことは難しい。だから、彼女が侯爵家を訪れるときは、必ずといっていいほど一緒に庭を歩いた。
「イリア?」
最初は並んで歩いているのだが、イリアはどうやら植物を眺めるのが好きらしい。一つ場所に留まって動かないことがある。
真剣な様子が微笑ましい。伯爵家でもこんな風に過ごしているのかと想像して笑みが零れた。
しゃがみこんだ小さな背中と後頭部を見守って、時折声をかける。
それから、その後は二人で書庫に入り、膨大な蔵書の中からそれぞれ興味のある本を選び取った。イリアが読むのはだいたい植物図鑑で、先ほどまで眺めていた花の名前を調べるのだ。
庭師に聞けば、きっとすぐに答えを用意してくれるのだろうが、自分自身で答えを見つけることに意義があると思っているようで。それには僕も同意する。
花の名前が分かったら、今度はその花に飾る以外の用途があるのか話し合う。
「こちらで育てていると仰っていたあの薬草と併せて煎じてみてはどうですか?」
「それは、……いいかもしれないな」
研究熱心な彼女とあれやこれやと議論を交わすのはなかなかに愉快で、これから先もこんな風に話ができればいいと思った。
我が婚約者に対して、胸が苦しくなるような感情を抱いたわけではない。
恋心を知っている身としては、この先もきっとイリアに対して恋情を抱くわけではなさそうだ。
だけれども。彼女と並び立ち歩んでいく未来が、目を閉じるまでもなくはっきりと見えていた。
シシリアを暗殺によって失い、疑心暗鬼に陥っていた僕には信頼のおける人間が必要で。
僕にとってのイリアがきっと、そういう人物になるのだろうという確信があった。
「イリア?」
「あ、申し訳ございません。ソレイル様!」
数冊の図鑑を開き、見入ってたイリアが顔を上げる。
一つのことに集中すると周りが見えなくなってしまうほど没頭してしまう彼女の一面を知る人間は少ない。
年を重ねる度に、僕の婚約者としての立ち振る舞いが堂に入るようになったイリアは、同時に本心を隠すのがうまくなった。表情が読みずらいのは元々の気質もあるが、我が母の指導によるものでもある。
もうすぐ学院で学ぶことになるが、この調子ならきっと侯爵家の一員として認められる日もそう遠くはない。
今はまだ、彼女が僕の婚約者としては相応しくないと横槍を入れようとする家もあるが、その内それもなくなると断言できる。
「見てくださいませ、ソレイル様。お庭の隅に咲いていたこの白いお花! これはとても珍しい植物みたいです」
イリアの指が示す図解に視線を落とす。確かに価値のある花のようだ。それが我が家の庭に咲いているというわけか。
栽培していた様子はないから、どこかから種が飛んできたのだろう。
通いの植物学者がいるので、後から見せたほうがいいかもしれないと思案する。
繁殖に成功したら新たな商売につながるはずだ。諸外国との取引がある商人にも声をかけたほうがいいかもしれない。こういうのは早いほうがいいに決まっている。
「ありがとう、イリア。見つけてくれて」
「え、いいえ……! ただの偶然ですわ」
「……」
ソレイル様?
改めて彼女の顔を見る。小さな金の花が咲く、淡い緑の目に囚われるようだ。
一度捕まったなら逃れることはできない。
でも、それでいいと思っていた。
どうせ一生を共に過ごすのだからと。
けれど。
―――――学院に入ってから数年経つと、イリアの様子がおかしくなった。
俺に近づく女子生徒に敵意をむき出しにし、威嚇するようになったのだ。
さすがに貴族の子女らしく、大声で喚くようなことはなかったものの思わず眉を顰めてしまうような辛辣なことを口にすることもあった。さすがに窘めて諫めようとしたのに。対峙する彼女の態度はどこかよそよそしい。
侯爵家の嫡男に嫁ぐという重責のせいかもしれない。ふと、思い至る。
初顔合わせの際、戸惑った顔を隠すこともなく怯えていたイリア。その心許ない様子が蘇った。
悩み事があるのなら話を聞きたい。だが、俺がそう感じている一方で、彼女が侯爵家に入るための準備を怠ることもなく、ただひたすらに研鑽を積んでいるという話もよく耳にした。
その相反する二面性のようなものに戸惑ってしまう。
学院内で見かけるイリアはいつも数冊の教科書を胸に抱え、急ぎ足で歩いていた。声をかけようにもそれすら躊躇われるほどに張りつめた面持ちをしている。
一度、回廊で待ち伏せて声をかけたけれど、すげなくされてしまった。
「学院に入って自分がどれほどに危うい立場にあるのか気づいたんじゃない?」
友人のエドワルドに指摘されて首を傾げる。
ソレイルは鋭いのか鈍いのか分からないね。と苦笑され、学院に入ってからのイリアがどれほどの悪意にさらされてきたのか知らされる。
「君は良くも悪くも上位貴族だからね。周りの人間がそれとなくうまく隠してきたんだろう。僕だってそうさ」
「エド、」
「イリア嬢が誰かに足蹴にされる様子を、君に、見せるわけにはいかないからね」
「足蹴?」すっと胸を掠めた不愉快な感情が、自身の声音に滲む。
「比喩だよ、もちろん」
ならばもっと彼女や彼女の周囲に目を配らねば。もっと早く気づくべきだったと息を吐けば「何もしないほうがいい」と忠告される。
「彼女が自分で乗り越えるべき壁だよ」と。
これくらいのことでくじけるくらいなら侯爵家に入るべきじゃないと続けた。
「これから先も何度だってこういう試練が訪れる。君のいないところで、君の手が届かない場所で。そのとき彼女は一人で戦わなければならないんだ」
あまりにも紳士な眼差しで訴えてくる友人に、気圧される。そして、それもそうかと納得してしまった。
思い出したのは、自身の母である。その人はまさに未来のイリアなのだ。
父が不在のときには母が主として手腕を振るう。貴族ならばそれも当然のことであるが、国政の一端を担う侯爵家において、その責任は他家とは比べ物にならないほどに重い。
十年先を見据えるならばやはり、俺がイリアを問答無用で庇うことが有益とは言えないだろう。
我が家における母の立ち位置はいずれ、そのままイリアに移行するものであるから。
そうしていったんは納得したものの。
歳月を経るほどに彼女の高慢な態度が目につくようになった。といっても、イリアが本当に傲慢な人間かといえばそうではないことを知っている。全身に鋼の鎧を纏ったような強かさは、あくまでも自分の身を護るためで誰かを傷つけるものではない。攻撃的な物言いは、その前に身を切られるような悪態を吐かれたから反撃しただけである。
だから、学院内での彼女の姿が、本物ではないことはよく理解していたつもりだ。
「……ソレイル様に近づかないで!」
それでも、イリアが誰かと対立している場面を目にすることが多くなった。
エドワルドには放っておくように言われたが、さすがに見て見ぬふりをするのにも限界がある。ただ、侯爵家の人間としての立場もあるので、イリアに楯突いた人間を端から断罪するわけにもいかない。
正義は、正当に振りかざさなければ悪と同じなのだ。
「そんなことをしても君の為にはならないよ」
結局、身内(つまり、イリアに)苦言を呈すことになる。
はっと息を呑むような仕草で僕を見つめた彼女の、明らかに失望した様子に胸が詰まった。優しい言葉をかけてあげたい。本当は他の誰にも味方をせず、イリアは悪くないと言いたい。だが、そういうわけにはいかなかった。
我々は既に、爵位を持つ人間としての責任を負っているのだから。
学院という小さな社会で、己の立場を盤石なものにできなければ。卒業した後、魑魅魍魎の跋扈する社交界で生き抜くことなどできない。
「申し訳、ありません」
震える声が広い廊下に響く。大きな声を上げて衆目を集めていたことに気づいたらしいイリアが羞恥に頬を染めて俯く。指先が震えていることに気づいていたけれど、彼女の手を取ることができない。
イリアと相対しているのは中位貴族の末席に名を連ねる家柄の女子生徒だが、母親の父君が手広くやっている事業が好調で、その事業をとっかかりに我が国は諸外国と取引を行うことになっている。ゆえに、調子に乗った孫娘が俺に近づいてきたわけであるが。
要するに、こちらも彼女に強く出られないのである。今のところは。
後でイリアに事情を説明しようと考えていた。なのに、侯爵家の跡取りとしての勉励と、騎士になるための修練に追われている内に、話をする機会を失ってしまった。というより、忘れてしまったのだ。
イリアならば、俺がどういう態度を取っても理解してくれるだろうという驕りもあった。
幼少期から、飽きるほどの時間を共にしてきたのだから分かってくれると。
己の至らなさと愚かさに気づくのは、いつだって随分、時を経てからだ。
何もかも、取返しのつかない事態になって初めて、過去に犯した罪を自覚する。
だというのに。
イリアは相変わらず、俺の婚約者としての務めを果たしてくれていた。茶会で顔を合わせれば、いつもと同じく慎ましく過ごし、いくつかの言葉を交わす。幼い頃と違っているのは、庭を散策することがなくなったことだ。ただ与えられた時間を消費するために向かい合って茶を飲み、近況を報告する。
いつからこんなに事務的になってしまったのか考えるが、思いつくきっかけなどはない。長く一緒に居すぎた弊害なのか。言葉に詰まることも多くなった。
庭の片隅に置いたベンチで寝入ってしまった彼女を見つけたのはいつのことだったか。
小さな頭を膝に置いて、銀灰の髪を指で梳く。眩しそうに眼を開けたイリアのあどけない表情に、なぜか郷愁のような切ない想いを抱いた。
そんな風に、思い出を回顧して懐かしむほどには、心理的な距離が離れてしまったようだ。
そうこうしている内に侍女が現れ、彼女を私の母の下へ連れていく。侯爵夫人からじきじきに仕事を習うのだ。俺が伯爵家に行った場合もさほど変わらない。彼女が俺の母に呼ばれるように、俺は彼女の父親と話をする。
伯爵は我が父と同じく政治に明るいので、話を聞いているだけでも勉強になった。
そうして。当たり前の日々を過ごし、俺たちは急ぎ足で大人になっていく。
そんなある日のことだった。
伯爵家に出向いた先で、彼女の妹を紹介されたのは。
マチス家に第二子が居るのは知っていたが、イリアとは母親が違うこともあり虚弱だということで、挨拶が先延ばしになっていたのである。
いつものごとく、伯爵家の庭で彼女と話をしているとテーブルに向かって歩いてくるシルビアが見えた。
ふわりと風に舞うスカートの裾。柔らかな銀糸の髪。朗らかに笑む顔。
時が止まったのかと思った。
いや、あるいは。止まっていた時間が動き出したのかもしれない。
ど、ど、と重い音をたてる心臓が、胸から飛び出しそうに激しく動く。彼女の、細い体躯に纏わりつくドレスが陽に透けて、幻想的でもあった。天から降りてきたのかと思うほどに。羽が見えた気がした。
天使? だとすれば。
そう。
彼女は、―――――シシリアだ。
「はじめまして、お兄様」
脈打つ心臓に耳鳴りがする。間違いなく体温が上がった。手の平が熱く、額に汗が浮く。
シシリアが儚くなって十年以上が経過している。あのとき彼女はとても幼かったし、その成長を見届けることはできなかったけれど。シシリアがもしもあのまま生きて年を重ねていたらこうなっていただろうと想像した姿がいま、目の前にある。
「ソレイル様?」
イリアの呼ぶ声が遠くに聞こえる。彼女には、俺がどんな風に見えているのだろう。この動揺が伝わっていなければいい。シルビアに向かって「お兄様はまだ早いんじゃないかな?」と、機械的に返しながら、頭の中は別のことでいっぱいだ。
だってあまりにも。
あまりにも似ている。
瓜二つという言葉がこれほどにしっくりくることはない。
似過ぎているのだ。
こんな馬鹿なこと、
あるはずがない。




